維盛入水
<主な登場人物> ●平維盛:1157−1184.5.10(元暦1.3.28?)。平重盛の長男。小松中将と称す。右中将・蔵人頭を歴任。舞の優美さで世人の称賛を得る。しかし母は身分の低い者であったので、小松家の嫡男は弟の資盛(母は「少輔内侍」と呼ばれた藤原親盛の娘)。妻が平家討滅を狙って死罪となった大納言藤原成親の娘であったことと合わせ、平家一門の中では傍系に。治承4(1180)年、源頼朝追討の総大将として臨んだ富士川合戦で敗走。寿永2(1183)年礪波山の戦では源義仲に敗れ平家都落ちの因を作る。文治1(1185)年屋島の陣を脱し、高野山で出家。滝口入道立ち会いのもとに那智で入水と『平家物語』は伝えるが真偽のほどは不明。 ●滝口入道:?−? 齋藤滝口時頼。父は斎藤左衛門尉以頼。母が平時忠の妻・帥典侍の乳母であったという縁で、安徳天皇即位に伴い、官職任命権を持つ帥典侍に滝口武者に取り立てられた(『山槐記』「治承四年三月四日条」)。また後に法輪寺にて出家(『吉記』「養和元年十一月二十日条」。その後、修行を積み、高野山真言宗別格本山の大円院の8代住職にまでなったという。 ●与三兵衛重景:?−? 伝不詳。平重盛家の家人・平与三左衛門景康の子という。 ●石童丸:?−? 伝不詳。小松家に仕える童という。 ●武里:?−? 伝不詳。小松家の舎人という。
<物語のあらすじ> 那智浦に着いた一行は3月28日、浜の宮王子の前より舟にて沖に漕ぎ出し、沖の島に上がって松の木に入水の次第を書きつけてさらに沖へと舟を進める。しかし入水にあたっても維盛はあれこれ思い悩み、滝口入道に強く説得されて後ようやく覚悟を決め、念仏を百篇唱えて海に飛び込んだ。与三兵衛・石童丸も続いて入水(「維盛入水」)。彼らに続いて入水しようとした舎人・武里は滝口入道に押しとどめられて与えられた任務を思い出し、泣く泣く屋島に到って一門に維盛入水の次第を伝えた(「三日平氏)。 <聞きどころ> 「維盛入水」も劇的な節回しの句。まずは冒頭那智浜の宮から沖の島に舟を漕ぎ出すまでは「口説」でさらっと語るが、沖の島の松の木に出家の次第を書きのこす場面から節が一転し、「折声」「初重」「指声」で重々しく語りだし、入水する場と時の雰囲気は「三重」で美しく語り通す。そして入水にあたってもなお思い悩む維盛と彼を説得して入水に導こうとする滝口入道のやり取りは、「口説」⇒「中音」⇒「素声」⇒「口説」⇒「指声」⇒「素声」⇒「口説」⇒「折声」⇒「口説」と目まぐるしく節を変えて緊迫した場面を描き、最後の維盛入水の場面は、「拾・下音」⇒「拾上音」で少し軽快に語って、従者・与三兵衛と石童丸入水の場面を「初重」で語って終わる。
<参考> 先に見たように、『源平盛衰記』に引用された藤原長方の日記『禅中記』によれば、維盛は入水ではなく熊野に参詣したのち都に上って後白河法王に助命を乞い、法王が頼朝と交渉し頼朝が維盛の関東下向を望んだため鎌倉へ下向する途中の相模国の湯下宿で病没したと伝える。『禅中記』の記述が正しければ、那智浦での維盛入水は『平家物語』の創作となる(注:『禅中記』のこの部分は残っていない)。 ★都落ち以来後白河との縁を保つ維盛の行動 そして維盛が平氏の陣を抜け出して都に登って後白河法王に助命を請うたという『禅中記』の記述は、維盛が都落ちするに際して、他の諸将とは異なり、妻と子供たちを都に残したことと符合する。 なぜなら維盛の正室・新大納言局は後白河の腹心の部下であった藤原成親の次女であり、維盛の娘や息子は成親の孫にあたる。この正室が後白河腹心であった成親につながることを頼んで、維盛は妻子を都に残し、自分に何かあったときは妻子の後路を後白河に託し、首尾よく戦の途中で都に戻れたり、戦いに敗れて降人となって都に戻った際には、この後白河とのつながりを頼りに、自分の身の安全を図ろうと意図していたと推測されるからだ。まして維盛の父・重盛もそして維盛自身も、後白河の近臣であったのだから、妻子を都に残したこと、そして屋島の陣を抜け出したことは、ともに後白河との縁を頼りに自らと妻子の再起を図る意図があったと見る方が妥当であるからだ。 事実維盛の死後、正室の新大納言局は、母方の藤原俊成一族に庇護されて過ごし、後に後白河側近であり、源頼朝から指名されて関東申し次となる吉田経房と再婚している。娘もまた無事に成人し藤原実宣(後鳥羽の側近)の妻となっている。また息子六代は後白河側近でもある文覚のとりなしで出家と引き換えに命を助けられている(後に文覚が謀反の疑いで遠島となった時に、30歳台になっていた六代は鎌倉に召し出されて切られているが)。 ★「平家物語」における小松家の位置 だが『平家物語』は、平家の衰運を予想して死んだ人物として、維盛の父である平家小松家当主の重盛を設定している。 この物語では常に重盛は、天皇家をないがしろにする父・清盛の暴走を諫める人物として描かれ、最後に病を得て死の床に就く前には、平家の弥栄を祈って熊野に参詣したり中国・浙江省の育王山阿育王寺に三千両もの多額の寄付をしたりしたと『平家物語』は記した(巻3の「金渡」)。このため実際には重盛の所業であった、嫡子資盛が摂政殿の行列に無礼を働いて処罰された事件(「殿下乗合」として語られる)で摂政殿に恥辱を加えた人物は父の清盛だと『平家物語』では主体を変えて語られている。 維盛はこの平家内での暴走する清盛を諫める立場で、平氏の滅亡を予見して死んだ重盛の嫡子(『平家物語』はこう描く。実際の嫡子は弟の資盛)であるので、彼自身もまた、平家の滅亡を早くから予感した人物として描かれている。このことは平家の都落ちに際して、他の諸将とは異なって妻子を都に残したこと(「維盛都落」)や、今回の「維盛出家」「維盛入水」に端的に示されている。 ★鹿ケ谷事件以後平家嫡流の位置を失った小松家 重盛の家・小松家は、本来平家嫡流であった。仁安2年(1167年)5月10日に30歳の重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下されたことにより、清盛の後継者として国家的軍事・警察権を正式に委任される立場となり、平氏郎等に留まらず、全国の武士を指揮できる立場にたった。さらにこの立場は安元2年(1176年)5月に40歳になった重盛が改めて海賊追討宣旨を受けたことで確認された。しかし、重盛の義兄・藤原成親(妻の兄)が治承元年(1177)6月の平氏打倒の陰謀(「鹿ケ谷の陰謀」として語られる)の主導者であったために、重盛は平家内での力を失い、嫡流家は正室の子である宗盛に移る。そして維盛の正室は成親の娘であったことと合わせて、治承3年(1179年)7月29日の重盛の死後(42歳)、小松家は、平氏の傍系に追いやられた。このため諸国の武士反乱が起きた際に、東国・北国の反乱鎮圧のために遣わされたのは維盛を頭とする小松家の軍団であり、西国の反乱鎮圧のために遣わされたのも、小松家家人の平貞能を頭とする小松家の軍団であった。 小松家は平氏が勢力を拡大する中で傘下に収めた、西国・北国・東国の武士団を統括していた。だからこれらの地域で反乱が起きたとき、小松家がこれらの地域の平氏家人を動員して事にあたったのだ(畿内地域そして伊勢の武士団は平家宗家が管轄。その軍団の長は知盛と重衡)。 ★平家の悲劇を一身に体現した小松家 そして西国の反乱鎮圧は成功したものの、維盛が担当した東国・北国の反乱では逆に平氏が敗北したことで、源義仲の入京⇒平家都落ちに繋がった。この都落ちの途次、豊後柳浦で、小松家三男の清経が平家の前途を悲観して入水している。 その後源氏同士の争いの中で西国で力を回復した平氏であったが、摂津福原の戦い(「一の谷合戦」として語られる)の前哨戦である「三草合戦」で源義経率いる鎌倉軍を待ち伏せた平資盛ら小松家公達率いる軍の敗北によって、事実上小松家の軍団は解体され、資盛・有盛・忠房は屋島に逃げ戻り、一人一の谷に戻った師盛はここで戦死(維盛は病を得て八島で療養していたため戦に出ず)。 壇ノ浦での滅亡以前に、小松家一人が平家の悲劇を体現していたのも事実だ。 この事実を根拠にして『平家物語』作者が、小松家当主の重盛と維盛とを、平家の滅亡を予見して自ら死を選んだ人物として造形した可能性はある。 (※資盛・有盛は壇之浦合戦で入水。忠房は屋島合戦のあと陣を抜け出して紀伊湯浅党の庇護下で潜伏。後追討軍と戦ったあと降人となり斬られた) ★平家物語の仮構―「一の谷での敗北で平家は滅亡に向かった」−は嘘 京都回復の夢は破れたとはいえ、だが実際はまだ平家は西国で瀬戸内を中心として巨大な水軍を中心として勢力を保っており、山陽道を陸路進んだ源範頼指揮下の鎌倉の軍勢は苦戦続きとなり、「一の谷合戦」で源平の帰趨は決まったわけではなかった(だから前回見たように「三種の神器」と重衡交換の和議が出てくる)。九州―瀬戸内−熊野の水軍勢が平家を支持している限り、平家は衰えなかったのだ。 しかるに『平家物語』は「一の谷合戦」と「和議の破綻」を受けて源平の帰趨は決まったかのように物語を設定して、本来は「一の谷合戦」の後に戦われた「六カ度合戦」を「一の谷合戦」の前に置き、やがて訪れるであろう平氏滅亡の予兆として、その滅亡を予見して自ら死を選んだ人物として維盛を描くことで、平氏滅亡を予見した小松家の重盛・維盛という狂言回しを作り上げたと見ることが可能である。 ★維盛のその後について当時流れた噂 屋島合戦の前に屋島を抜け出した維盛であったが、この合戦の前後に、、維盛のその後について多くのうわさが流れていたことが、当時の記録に残されている。 一つは、左大臣九条兼実の日記『玉葉』に記されたもので、寿永3年(1184年)2月の一の谷合戦直後のものである。 2月19日の条に「伝え聞く、平氏讃岐八島に帰り着くと。(中略)また維盛卿、30艘ばかり相率いて、南海を指して去りおわんぬ云々」とある。この際に弟の忠房も同道したとの伝もある。 さらにもう一つは、維盛入水の噂で、これは維盛の弟の資盛と恋愛関係にあった建礼門院右京大夫が維盛の死を悼んで歌を詠んだもので、 「春の花の 色によそへし おもかげの むなしき波の したにくちぬる」 「かなしくも かゝるうきめを み熊野の 浦わの波に 身しづめける」 の二首である(『建礼門院右京大夫集』所収)。 そして三つ目が前記の『源平盛衰記』に引用された藤原長方の日記『禅中記』が記す、熊野に参詣したのち都に上って後白河法王に助命を乞い、法王が頼朝と交渉し頼朝が維盛の関東下向を望んだため鎌倉へ下向する途中の相模国の湯下宿で病没したというものだ。 この『禅中記』の当該の記録は残っていないが、藤原(吉田)経房の日記『吉記』の寿永3年(1184年)4月の条に、維盛の弟忠房が密かに関東へ下向し、許されて帰洛するという風聞が記されている。この忠房というのは維盛の間違いで、こう判断される理由は、『吉記』の翌年の項に、忠房が翌年の12月に鎌倉に呼ばれた後に斬首されたと記されているからであり、こちらの記述の方が忠房のその後に近く正しいので、前記の忠房は兄の維盛の誤伝または誤記と見られるからだ。 こうしてみると、当時都に流れた維盛のその後についての風聞の内、もっとも確度が高いのは『禅中記』に記された「熊野に参詣したのち都に上って後白河法王に助命を乞い、法王が頼朝と交渉し頼朝が維盛の関東下向を望んだため鎌倉へ下向する途中の相模国の湯下宿で病没した」というもので、『吉記』の記述がこれを裏付けているものと言えよう。
『平家物語』作者はこれらの三つの噂の中でもっとも確度の高い説を捨てて、入水説を採用し、入水に向けた出家の場としては、清盛とも縁の深い高野山を選び、入水の場としては、当時も観音霊場としても名高く、極楽と考えられた補陀落に最も近い場として考えられていた、那智の地を選んだものと言えよう。 維盛の那智浦での入水は、『平家物語』の創作である可能性が高い。
|