請文

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<主な登場人物>

●内大臣平宗盛:11471185 清盛の3男で、母は平時子。治承3年(1179)の重盛の死後は氏の長者としてその中心に位置し、4年の源氏反乱に際しては、父清盛を説得して都を福原から平安京に戻し、翌年1月には畿内近国の軍事組織である惣官職を設置して惣官となり、清盛の死後は平氏総帥となる。壇之浦合戦敗北後入水するも助けられ、鎌倉に送られた後に、京に戻す途中で切られた。『平家物語』は宗盛について厳しい人物評価を与え、無能で器量なしとしているが、実像は不明。

●平時子:11261185 二位殿。平時信の娘で平清盛の妻。平時忠は同母弟。子には宗盛・知盛・重衡・徳子らがいる。仁安3(1168)2月、夫清盛が病を得て主家した際に出家し、承安1(1171)年娘徳子が高倉天皇に入内したため従二位に叙せられ、二位尼と呼ばれる。

 

<物語のあらすじ>

   院宣と共に、内大臣宗盛と平大納言時忠の所には重衡から院宣の趣旨を詳しく記した文が届き、二位殿の所には重衡から細々と心情を記した文が届き、「今一度会いたいと思うならば神器返還のことで内大臣を説得せよ。神器返還なくしては現世ではもう会えない」と記してあった。平家一門が院宣への請文の内容を協議する場に二位殿はひれ伏して息子の命を助けてと懇願したが、「神器を返還しても重衡が許される保証はない」との知盛の言で一座は決し、院宣への請文が作られ、使いの平重国に渡された。その内容は神器返還拒否だった。「神器は天皇と一体のもの。返してほしければ法王自ら四国に御幸あるべし、さすれば我らは都に戻り頼朝を討つ。そうでなければ、喜界・高麗・天竺・震旦の果てまでも闘い続ける」というのが請文の内容だった。

 

<聞きどころ>

この句も中心は、院宣に対する「請文」を「読物」という特殊な節で読み上げるものだが、その前に院宣を受けた平家一門の様子が「口説」「素声」で淡々と詳しく語られる。その中でも重衡助命を訴える二位殿の訴えは、「折声」「指声」「中音」の節を使って切々とかつ美しく語り上げられる。そして最後に「請文」そのものを淡々と読み上げて終わる。

 

<参考>

 『平家物語』では院宣の請文とされているが、史実では院宣そのものがないので、実際は重衡の私信に対する「請文」であり、院へ平家の意向を伝えるもの。

 九条兼実の日記『玉葉』の229日の条には、「或る人曰く、重衡前内大臣のもとに遣わしたるところの使者、この両三日帰参、大臣申していう、怖れ承りおわんぬ。三ヶ宝物並びに主上、女院・八条殿においては、仰せの如く入洛せしむべし。宗盛においては参入あたわず、讃岐国を賜り安堵すべし。御供らは清宗を上洛せしむべし云々。これもし事実ならば追討猶予有るか。」と。つまり平氏は三種神器と安徳天皇・建礼門院・八条殿(徳子)を都に戻すことを承諾し、宗盛には讃岐国を安堵せよと返答した。また3月1日の条には、定長から聞いた話として「重衡が派遣した使者−左衛門重国−が帰参した。また消息の返事があり、その申し状は、大略和親をこい願う趣也。所詮源平相並んで召し使うべきの由か。この状頼朝承諾すべからず、然れば治め難きことなり。ただしこの上別のお使い来るの時は、子細を奉り重く申すべき所存と云々。」と伝える。内容としては院に対して和親を請うものであり、兼実はこれを「源平を並んで使うべし」との要求であろうと推測し、これでは頼朝が認めるはずはないと断じる。ただし今後重ねて和親を請う使いが来たならば、定長は無視できないといったと伝えている。

 この兼実の「請文」の内容は「三種神器と安徳天皇・女院・八条殿の都への帰還を了承」「和親を請う」ものとの記述は、『平家物語』に伝わる「請文」が、「平家の院への忠節を忘れた後白河院への非難と、三種の神器を戻して欲しければ院自らが四国へ御幸せよ」、さもなくば「鬼界・高麗・天竺・震旦」、つまり地の果てまで抵抗するとの強い口調とは相いれない。

 一方、鎌倉幕府の正史『吾妻鑑』2月20日の条が伝える宗盛の重衡の私信への「請文」では、冒頭に「主上、国母還御有るべしとのこと承った」とあるものの、続く文は、一の谷に戻った折に「院から和平の使いを送った、勅諚を受け取るまでは戦しないように関東方にも知らせた」との知らせが届いたので院使を待っていたところ、突然関東方に攻められ、なすすべもなく多大な被害を被ったなどの院への非難を連ねてはいるが、和親を実現することは神慮・仏意にも叶い、天下の人々も望むところだとして、ともかくも結論としては、「正式の院宣がなければどうしようもない」と結んでいる。

 この『吾妻鑑』の伝える「請文」の方が、『玉葉』が伝える「和親を請う」との内容に合致している。

 『平家物語』の宗盛の「請文」は、歴史の結末を知っているものの立場からする創作であり、後白河院に奉仕してきたのに見捨てられ、西海の波間に亡びた平家の悔しさを強調していることを示しており、『吾妻鑑』の伝える「請文」の方が実際の宗盛の「請文」に近いのではないか。

 実際のところは、宗盛の院に対する態度は、西海における平氏の勢力のなお強勢であることを背景にして、ひたすら神器返還を条件として、院との和親をこい願うものであったのではなかろうか。

 だが兼実の予想通りに、これは頼朝の受け入れるものとはならず、院と平氏との和親の交渉は宙に浮き、重衡は神器と交換で八島に赴くのではなく、頼朝の要求に従って鎌倉に送られたのではなかったか。

 『玉葉』の310日の条には、定長の話として、「重衡が東国に下向。頼朝の申請するところと云々」と記している。この記事が、院と平氏との和親交渉の結末を示すものであろう。

 

<参考2>

『吾妻鑑』掲載の宗盛請文(原文は漢文。読み下したもの)

 去る15日の御札今日到来、承り候らいおわんぬ。蔵人右衛門佐書状も同じく見給候らいおわんぬ。主上・国母還御有るべきの由、またもって受け賜わり候らいおわんぬ。去る年の7月、西海行幸の時、途中より還御すべきの由、院宣到来。備中の国下津井ご解纜の上、洛中不穏により、不日立ち帰ること能わず、なまじいに前途を遂げ候らいおわんぬ。その後、日次の施務、施理といい、いわんや恒例の神事・仏事といい、皆もって懈怠し、その恐れ少なからず。その後、すこぶる洛中静謐に属せしむの由、風聞あるによって、去る年10月鎮西を出御し、ようやく還御の間、閏10月1日、院宣を帯すと称し、源義仲、備中国水島において千艘の軍兵を相率い、万乗の還御禦ぎ奉る。しかして官兵をして皆凶賊等を誅罰せしめおわんぬ。その後、讃岐国屋嶋へ着御し、今に御経廻る。去る月26日、又廻纜し、摂州へ還幸し、事の由を奏聞し、院宣に従いて、近境に行幸す。かつうは去る4日、亡父入道相国の遠忌に相あたり、仏事を修せんため、下船に能わず、輪田の海辺を経廻るの間、去る6日、修理権大夫、書状を送りて曰く、和平の儀有るべしによって、来る8日出京しお使いとなし下向すべし。勅答を奉りて帰参せざるの以前、狼藉あるべからずの由、関東の武士等に仰せられおわんぬ。またこの旨をもって、早く官軍等に仰せ含めせしむべしは、この仰せを相守り、官軍等もとより合戦の志無きの上、存知におよばず、院使の下向を相待つのところ、同じく7日、関東の武士等叡船の汀へ襲い来る。院宣限りあるによって、官軍等進み出ずるに能わず、おのおの引き退くと雖も、かの武士等、勝に乗じて襲い懸かり、たちまちもって合戦し、多く上下の官軍を誅戮せしめおわんぬ。この条何様に候ろうことぞや。子細もっとも不審なり。もし院宣を下さると雖も、武士承引せざるか。もしために官軍の心を緩め、たちまちもって奇謀を廻らさるか。つらつら次第を思うに、迷惑恐歎、いまだ朦霧散せず候うなり。今より以後のため、向後将来のため、もっとも子細を受け賜わり存ずべく候うなり。ただ賢察を垂れしめたもうべし。かくのごときの間、還御またもって延引す。還路に赴く毎に、武士等これを禦ぎ奉る。この条、術無き事に候うなり。還御の儀を難渋するのみにあらず、武士を西海に差し遣わし、禦がるるによって、今また遅引す。まったく公家の懈怠にあらず候うなり。和平のこと、朝家の至要たり、公私の大功たり。かくの条、すべからく達奏されんとするのところ、遮って仰せ下さるの条、両方の公平、天下の攘災に候うなり。しかれども、今に未断、いまだ分明の院宣を被らず。よってたしかなる御定を相待ち候うなり。およそ、仙洞に夙夜するの後、官途といい、世路といい、我が君の御恩、何事をもって報謝奉りべかんや。涓塵と雖も、疎略を存ぜず。いわんや反逆の儀をや。西国に行幸のこと、まったき賊徒の入洛驚くにあらず、ただ、法皇の御登山を恐るるによってなり。朝家のこと、誰か君の御進止たるべけんや。主上、女院の御事はまた、法王御扶持に非ずんば、誰か君を仰ぎ奉るべけんや。事の体、奇異なりといえども、御登山の一事を恐れるによって、周章し、粗忽に西国に還幸しおわんぬ。その後また、院宣と称し、源氏等西海に下向し、度々合戦を企つ。かくの条、ために賊徒の襲来によって、上下の身命をながらえんため、一旦は相防ぎ候うばかりなり。まったく公家の発心にあらざるは、あえてその隠れなきなり。平家といい、源氏といい、相互の意趣なし。平治、信頼卿反逆のとき、院宣によって追討するの間、義朝朝臣その縁坐たるによって、自然のことあり。これ私の宿意にあらず。沙汰に及ばざる事なり。宣旨院宣においては、この限りにあらず。しからざるの外は、およそ相互の宿意なし。しからば頼朝と平氏の合戦の条、一切思いよらず事なり。公家、仙洞和親の儀候わば、平氏、源氏またや、なんの意趣あるべけんや。ただ賢察を垂れしめ給うべきなり。この五六年以来、洛中城外、おのおの安穏ならず。五畿七道皆以て滅亡す。ひとえに弓箭甲冑のことを営み、あわせて農作農具の勤めをなげうつ。これによって、都鄙の損亡、上下の飢饉、一天四海眼前に煙滅し、無双の愁悶、無二の悲歎そうろうなり。和平の儀そうらいべけんは、天下安穏、国土静謐、諸人歓楽し、上下歓娯す。なかんずくに合戦の間、両方相互命をおとすの者、幾千万を知らず。傷を被るの輩、楚筆に記し難し。罪業の至り、譬えを取るものなし。もっとも善政を行われ、攘災を施さるし。かくの条、定めて神慮仏意に相叶わんか。還御のこと、毎度武士を差し遣わして行路を禦がさるの間、前途をとげられずに、すでに両年に及びそうらいおわんぬ。今においては、早く合戦の儀を停め、攘災の誠を守るべく候うなり。和平といい、還御といい、両条早く分明の院宣を被り、存知すべくそうろうなり。これらの趣をもって、しかるべきの様、披露せしめ給うべし。よってもって執啓件の如し。

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