海道下

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<主な登場人物>

●平重衡:11571185 平清盛の5男。母は平時子。正三位左近衛権中将。本三位中将と呼ばれる。1180年以仁王の乱鎮圧の過程での南都焼き討ち時の総大将。墨俣合戦、水島合戦、室山合戦など多くの戦いの大将軍を務める。

●梶原平三景時:?−1200 梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族。相模国鎌倉郡梶原郷が本貫の地。景時は、石橋山合戦に敗れて山中に潜んだ頼朝を見逃した関係で、頼朝側近となり、幕府の侍所所司や厩別当などを歴任。二代将軍頼家の乳母でもある。有力御家人を謀反の咎で将軍頼家に訴えて処罰を謀ったが、逆に将軍権力の拡大を喜ばない御家人66人の連判状などによってその専横を告発され、鎌倉追放。景時は再起を期して朝廷を頼り上洛の途次、駿河国清見関付近で一族と共に討伐された。

●侍従:実在の人物かは不明。「覚一本平家」では、池田宿の長者・熊野(ゆや)の娘で遠江守であった平宗盛の愛人とされる。

<物語のあらすじ>

  寿永3年(1184年)3月10日、 平重衡は梶原平三景時に警護されて京より鎌倉にむかった。途中遠江国池田宿で、宿の長者・熊野(ゆや)の娘・侍従のもとに宿した。彼女との歌のやり取りに感心した重衡が女の素性を景時に尋ねると、前内大臣宗盛のかつての愛人だったと。その後富士の山を眺めつつ、足柄山を越えて相模に入り、やがて鎌倉についた。

 

<聞きどころ>

「海道下」は、重衡が京を発って鎌倉に着くまでの道行きを、和歌などに詠まれた名所旧跡を訪ねながら、途中四宮河原では蝉丸伝説を、池田の宿では前内大臣宗盛と縁のある熊野 (ゆや)が娘侍従に歓待を受けた話などを挿入しながらの旅として語ったもの。美しい風景や逸話が多いため、「初重」「中音」「三重」と歌うように語る曲節を多用して朗々と語られる美しい句である。

 

<参考>

 「平家物語」の「重衡海道下」の話は、実際の話ではなく、様々な要素を繋ぎ足して作ったもの。つまり「平家物語」の創作である。

1:冒頭の粟田口―池田宿までの紀行文。

 「宴曲集」巻4の「海道上」を使用し、その途中に、蝉丸と博雅の伝説を挿入したもの。「宴曲集」は、50曲集めた歌謡集で、1296(永仁4)以前に成立したものと考えられる。「蝉丸伝説」は、平安時代末期に成立した「今昔物語集」の巻第24の第23話に収録されている。

2:池田宿での話。

 池田宿で重衡と和歌の贈答を行った侍従の話は、他の文献に見られず、「平家物語」のみに収められた説話。だが平家諸本でもその記述は異なり、もっとも古い「延慶本平家」では、侍従の話として語られるが、ほぼ同時代の成立である「覚一本平家」と「120句本平家」では語りが異なる。「覚一本平家」では侍従は池田宿長者の熊野(ゆや)の娘として描かれるが、「120句本平家」では宗盛の愛人で重衡と和歌の贈答を行ったのは熊野(ゆや)として語られる。また「源平盛衰記」にはこの話は出てこない。なお平宗盛が遠江守であったのは、平治元年(11591227日から永暦元年(1160)正月21日に淡路守となるまでの期間であり、当時彼は13歳。彼が実際に遠江に赴任したとは思えないし、年齢的にも愛人を持つにはまだ早い。「熊野(ゆや)の物語」は後世に能「熊野」とされて良く知られた話ではあるが、「平家物語」の創作である可能性が高い。

3:池田―鎌倉の紀行文。

 「海道記」一二 手越より蒲原 を参照したもの。「海道記」は、貞応2 (1223) 年以後まもなく成立した紀行文で、京都に住む隠者が,貞応2年初夏,14日を費やして東海道を鎌倉まで下り,しばらく同地に滞在,帰京を決意するまでのことを記す。作者は不詳。池田から鎌倉までの途中で重衡が富士の山を見て詠んだと記される「をしからぬ命なれどもけふまでぞ つれなきかひのしらねをもみつ」の歌は、「海道記」の作者が詠んだ歌を流用したもの。

 そして「吾妻鑑」によれば重衡が京を立ったのは310日で、鎌倉に到着したのは4月8日。また「平家物語」では直接鎌倉に入ってから頼朝と会ったように書かれているが、頼朝と最初にあったのは328日で場所は伊豆の北条。27日に重衡が伊豆国府に来着した際に頼朝が近くの北条に逗留しており、景時に命じて北条まで連れて来させたと。従って次の句「千手前」の冒頭の頼朝と重衡の問答は、鎌倉ではなく、伊豆北条で行われたもので、「延慶本平家」ではまさに「吾妻鑑」と同様に語られる。

 「平家物語」の「海道下」が、1296(永仁4)以前に成立した「宴曲集」巻4の「海道上」を参照したり、貞応2 (1223) 年以後まもなく成立した紀行文「海道記」を参照して作られ、さらにこの少し前の平安時代末期に成立した「今昔物語集」にも依拠して作られたことから、「平家物語」は史実を伝える文書(公家の日記など)や実際に事件に立ち会った人物の体験記や、様々な記録を参照してそれを脚色して作られ、その成立の時期は、まさしく1185年に終わった治承寿永の争乱の終結以後、1223年以後まもなくの時期に作られたことがわかる(1221年の鎌倉幕府が後鳥羽院の朝廷に打ち勝った「承久の乱」以後でもある)。