千手前

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<主な登場人物>

平重衡:11571185 平清盛の5男。母は平時子。正三位左近衛権中将。本三位中将と呼ばれる。1180年以仁王の乱鎮圧の過程での南都焼き討ち時の総大将。墨俣合戦、水島合戦、室山合戦など多くの戦いの大将軍を務める。

●狩野宗茂:?−? 藤原南家工藤氏の6代目当主である工藤祐隆(伊東家次)の四男である工藤茂光の子。宗茂以後代々狩野介を称する伊豆国在庁官人。父の茂光は1180(治承4)の源頼朝の挙兵に従って伊豆山中で自殺したが、子の宗茂は生き延び、頼朝側近の一人として仕え、後の曾我兄弟の仇討ち事件の際に、父の仇である工藤祐経を討った曾我兄弟の曾我祐成と時致が、頼朝の尋問を受ける場面に立ち会った。頼朝の最初の妻八重の父である伊東祐親や工藤祐経は従兄弟。

●千手前:11651188 平安後期、駿河国手越宿(静岡市)の遊女で、宿の長者の娘。頼朝の官女で、後に政子の女房。平重衡が一の谷の戦で生け捕りとなり、元暦1(1184)4月、頼朝に引き渡されるために鎌倉に下向した際、その湯浴みの世話をし、今様を歌い琴を弾くなどして慰めた。重衡の処刑後、重衡にたいする恋慕の念から発病して死んだ(吾妻鑑)とも、善光寺に出家して重衡の後世を弔ったとも(覚一本平家)いう。

●源頼朝:11471199 源義朝の三男。母は正妻であった熱田大宮司藤原季範の女のため、頼朝は三男だが義朝の嫡男。平治の乱での信頼・義朝の勝利により、頼朝もわずか12歳で従五位下・右兵衛権佐の官位を受けたが、信頼・義朝勢が平清盛勢との戦いに敗れたことから、頼朝は官位剥奪の上で伊豆に流された。1180年(治承45月の以仁王による平家打倒の令旨を受けて蜂起し、東国武士の圧倒的支持を得て関東を制圧し、弟範頼・義経らを大将とする軍勢を西国に派遣し、後白河法皇の支持を得て1185年(文治1)平家を滅ぼした。その間の1184年(寿永3)には後白河から全国統治権を与えられ、平家滅亡後には対立した義経や平氏残党討滅を理由として、諸国に守護・地頭を置くことを朝廷に認めさせ、1189年(文治5)には義経を匿った奥州平泉の藤原政権も打倒して陸奥・出羽を幕府直轄領とし、1190年(建久1)には征夷大将軍に任ぜられた。

●中原親能:11431209 明法博士広季の子。幼時に相模国(神奈川県)で養育され、流人時代の源頼朝にも接する。その後、京都で下級官人となるが、源平争乱がはじまると鎌倉に下って頼朝に仕えた。元暦1(1184)年に公文所の寄人となり、建久2(1191)年には公事奉行人に任ぜられるなど、実務官吏として頼朝に重用された。また朝廷との交渉役に起用されることも多く、頻繁に上洛している。さらに建仁1(1201)年ごろより京都守護として在京して、朝廷との折衝や京・鎌倉間の連絡に当たった。

 

<物語のあらすじ>

 寿永33月、京を発した重衡はやがて鎌倉に到着。頼朝に南都焼亡の次第を問われる。その際の重衡の態度に感銘を受けた頼朝は重衡を狩野介宗茂に預ける。宗茂邸での重衡の湯あみを世話したのが頼朝の官女・千手前。その夜千手前は琵琶・琴をもって重衡のもとを尋ね、狩野介も家人を引き具して酒宴に加わる。翌朝千手前が頼朝のもとに参ると昨夜の酒宴の話となり、頼朝は昨夜の酒宴を立ち聞きした際の重衡の朗詠や琵琶の音に感嘆。この話を聞いた中原親能は酒宴に参加しなかったことを悔やむ。

 

<聞きどころ>

「千手前」は、冒頭は頼朝と重衡の問答、中段は狩野介邸での千手前との出会いと酒宴における朗詠と管弦の宴とその後日談、最後は重衡処刑後の千手前のありさまと、場面が大きく変化する。冒頭の頼朝と重衡のやり取りは主に「口説」で淡々と語られるが、重衡の想いを述べた箇所だけ「折声」「中音」を使って強調される。中段の千手前との出会いも「口説」で淡々と語られるが、場面が酒宴における朗詠と管弦の宴に変わるや、「折声」「指声」「中音」「三重」「初重」と多彩な曲節を駆使して美しく印象的に語る。最後の千手前の行く末は「中音」で朗々と語って終える。この句も曲節の変化に富んだ美しい句である。

 

<参考>

 「覚一本平家物語」では頼朝と重衡の会談が鎌倉であったかのように語るが、「吾妻鑑」や「延慶本平家」では場所は伊豆で、伊豆国府に重衡が到着した折に頼朝が伊豆におり(吾妻鑑―伊豆の北条に逗留しており、重衡を北条に呼び寄せたと。延慶本平家―伊豆に狩りしていたと)、そこで面談したと記す。日時は「吾妻鑑」では328日、「延慶本平家」では326日。つまり公式の面談ではなく、お忍びの非公式の面談であったということ。「吾妻鑑」では、重衡の鎌倉到着は4月8日。つまり伊豆で非公式に面談したあと狩野介に重衡を預け置き、そのまま約一月の間、その屋敷で重衡は暮らしたということだ。また、湯殿での千手前との出会いや、その夜の酒宴・管弦の宴の場は「覚一本平家物語」では鎌倉の狩野介の屋敷とされているが、「吾妻鑑」では、鎌倉に到着したあとの重衡の宿所は、頼朝の御所内に重衡のための建物を建て、そこを終日狩野介の一族や郎従に警護させたとある。そして重衡に沐浴が許されたのはこの頼朝御所内でのことで、日時は420日。その夜に酒宴・管弦の宴が開かれたとある。
 つまり湯殿での千手前との出会いや、彼女たちとの酒宴・管弦の宴はすべて頼朝御所内の出来事だと「吾妻鑑」は記すわけだ。そうであれば、頼朝に使える官女である千手前が重衡の前に頼朝の命で現れることは何の不思議もなく、沐浴の許可も酒宴・管弦の宴の開催や、そこへの頼朝の官女・千手前の参加はみな、頼朝が重衡を歓待した有様ということになる。
 これを「平家物語」では、場所を狩野介邸内のことと場面を移したことで、すべて狩野介が重衡を歓待したものと設定し直した。
 しかしこうしたことで、千手前もわざわざ狩野介の屋敷に出向いて重衡を歓待したことになり、さらには頼朝が酒宴・管弦の宴を立ち聞きしたことも、わざわざ狩野介の屋敷に出向いてのこととなり、「不自然の感」を免れない。
 したがって重衡沐浴と千手前との出会い、そして千手前・狩野介らと重衡との酒宴・管弦の宴はみな、本来は鎌倉の頼朝御所内の重衡のために作られた一屋でのことであったのを、「平家物語」が作られた折に、場面を移し替えたものと考えられる。
 なお「吾妻鑑」では、この頼朝御所内での出来事の後に、重衡については南都の僧坊らの言い分もあるだろうからとのことで、しばらく狩野介の館に預けられたとされている。
 また「吾妻鑑」では酒宴・管弦の宴に参加したのは、千手前以外には、藤判官代邦通、工藤祐経という頼朝側近であり、頼朝は宴を立ち聞きしたのではなく、宴を三々五々と退出した者たちがそれぞれ頼朝に宴の様子を報告した形となっており、報告者は邦通。また重衡が「燭暗うして數行虞氏の涙。夜深うして四面楚歌の聲」との朗詠を行った理由を推測して解説したのも藤判官代邦通となっている。「延慶本平家」ではここを改作して、重衡の朗詠を解説したのは大江広元とし、さらに広元が重衡を牡丹の花に例えた話を挿入。さらに「覚一本平家物語」では、その解説そのものを宴の様子を語った本文に組み入れ、そして宴を頼朝が立ち聞きしたことにし、翌朝頼朝のもとに参った千手前と頼朝が昨夜の宴の様子を話すのを聞いた中原親能がその様子に感嘆し、重衡を牡丹に例えたという形に改作したものと思われる。
 なお千手前のその後だが、先の湯あみ・管弦の宴をとおした重衡との出会いで千手は重衡に仕えることとなったようだが、「吾妻鑑」は元暦2年(
1185)6月9日に重衡は南都へ出発し、621日に京に到着、翌622日には南都に送られ、次の日23日に首を切られたと記す。この出来事から3年後の文治四年(1188年)4月22日の条に「夜に入り、御台所の御方の女房(千手の前と号す)御前に於いて絶入し、則ち蘇生す。日来差せる病無しと。暁に及び、仰せに依って里亭に出る」と記し、三日後の425日には、「今曉千手前卒去す〔年廿四〕。その性はなはだ穏便にして人々の惜しむところなり。前故三位中将重衡参向の時、不慮に相馴れ、かの上洛の後、恋慕の思い朝夕休まず。憶念の積るところ。もし発病の因たるかの由、人これを疑う」と記している。
 これに対して「延慶本平家」では千手のその後にはまったく触れず、「覚一本平家」や「120句本平家」では、「善光寺に入って重衡の後世菩提を弔って自らも往生した」と記す。ここでも「吾妻鑑」は
3年後の千手の突然の死の原因を人々が「重衡卿への思慕の想いが積もったのか」と疑ったとのみあったものが、「延慶本平家」は何も語らず、「覚一本平家」「120句本平家」では、「重衡卿への思慕の想いから出家して後世菩提を弔った」と変化した様が見て取れる。  
 

 この「千手前」の話も、当時の史料である「吾妻鑑」と比較してみると、「吾妻鑑」⇒「延慶本平家」⇒「覚一本平家」への変遷、つまり、「吾妻鑑」⇒「読み本系平家」⇒「語り本系平家」へと「平家物語」が作られていく過程が推測できる。 もしくは、鎌倉幕府の正史である「吾妻鑑」も様々な史料や「平家物語」などに依拠しながらそれらに脚色を加えて作られたと考えられるので、

 

               「吾妻鑑」

 

★史実      「延慶本平家物語」⇒「覚一本平家物語」

                   「120句本平家物語」 

というような、諸本の相互関係が推測できる。

 

 なお「吾妻鑑」「延慶本平家物語」の重衡・千手関係の記事に登場する他の人物の略歴を記す。

●藤原邦通:?−? 下級公家の出身で、大和判官代と称した。安達盛長の推挙により、伊豆配流中の源頼朝の右筆となる。元暦元年(1184)幕府の公文所開設で寄人となる。

●工藤祐経:?−1193 狩野介宗茂・伊東祐親の従兄弟で妻は祐親の娘。平重盛の許に出仕し家人となり在京、左衛門尉に任官。任官中に預けた所領を祐親に奪われたことから祐親と対立し、祐親が祐経の妻を離縁させて土肥遠平に嫁がせたことを恨んで、安元2(1176)年伊豆での巻狩に事寄せて祐親を襲い、祐親の嫡子河津祐泰を殺害した。源頼朝の挙兵以後、早くから頼朝方に付き、幕府成立以後は、在京の経験から、頼朝側近の一人として活動。建久4(1193)年、河津祐泰の子の曾我十郎祐成・五郎時致兄弟によって富士の狩場で父の仇として討たれた。

●大江広元:11481225 学問の家柄である大江氏の出身。明法博士中原広季の養子となり中原姓を称したが、1216年(建保4)本姓に復した。初め、京の朝廷において外記として局務に携わる中堅官僚であったが、1184年(元暦1)ごろ鎌倉に下向、幕府公文所別当に就任。91年(建久2)政所開設に伴い、その別当となり、明法博士、左衛門大尉、検非違使に任ぜられた。初期幕府政治に参画した京下り官人を代表する人物。源頼朝の腹心として京、鎌倉をしばしば往還し、朝幕間の折衝にあたった。頼朝の死後は、北条政子、義時と協調し執権政治の基礎を築くのに努力した。