逆櫓

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▼主な登場人物

●源義経:11591189 源義朝と九条院雑仕の常盤との間に生まれ、幼名は牛若丸、また九郎御曹子と称された。父が平治の乱(1159)で敗れたことから、平氏の追っ手を逃れて各地を放浪し、やがて母の再嫁す先の公卿の藤原長成の扶持によって鞍馬寺に預けられる。後に鞍馬寺を抜け出し、奥州に向かう途次自ら元服。九郎義経と名乗る。兄頼朝が治承4(1180)年に挙兵したのに呼応して、駿河国(静岡県)黄瀬川に奥州から駆けつけた。やがて頼朝の代官として、寿永2(1183)年末から畿内近国に派遣され、木曽義仲追討・平家追討で功績を挙げて、検非違使となり九郎判官と称される。文治1(1185)2月には荒波を越えて阿波勝浦に渡り、阿波水軍を奇襲によって破るとその勢いをかって讃岐屋島から平氏を追い出し、ついに3月には平氏を長門(山口県)壇の浦で滅ぼした。しかし検非違使任官以後頼朝から疎まれ、頼朝から刺客を向けられたことをきっかけに、後白河院から頼朝追討の宣旨を得て挙兵したが兵が集まらず、西国に舟で逃れる途中大風にあって難破。以後密かに諸国を流浪して奥州にたどり着き藤原秀衡の庇護を得る。だがその死後、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡によって文治5.4.30(1189.6.15)、衣川の館に攻められて討ち死にした。

 ●梶原景時:?−1200 相模国鎌倉郡梶原郷(鎌倉市)を本領とする桓武平氏鎌倉景清の子。治承4(1180)年の石橋山の戦で大庭景親に属しながらも源頼朝の危機を救い、再起した頼朝に臣従。弁舌に巧みで京都的な教養にも富んだ景時は、頼朝から信任され,侍所所司として御家人統制に当たった。また平家追討の戦いでは戦目付として従軍し数々の戦功も挙げたが、その御家人統制の厳しさから御家人たちの反感を買った。正治1(1199)年、頼朝の死後組織された宿老会議のメンバーとなったが、同年、結城朝光を源頼家に讒言したことから、有力御家人66名の弾劾を受け失脚,鎌倉から追放され、21月上洛の途中、駿河国(静岡県)清見関付近で在地の武士に襲撃され、一族と共に敗死した。

<物語のあらすじ>

文治元年2月3日九郎大夫判官義経は都を発って、摂津国渡辺に舟揃いして八島に攻め寄せんとした。216日、渡辺に集結した船はともづなを解いて出港しようとしたが、あいにく大風大浪で出港できず、船の修理のためその日はとどまった。大名小名は船戦の評定をしたが、その場で梶原景時が舟の出所進退をたやすくするために舳先に逆櫓を付けることを提案。この案を一蹴した義経と対立しあわや同志戦に。その夜判官義経は修理の終わった船を労いつつ、船に兵糧米・武器・馬どもを入れさせて、嵐をついて四国に渡ることこそ敵の油断をつくと、水手・舵取りを脅して出向させようとした。200余艘の中でわずか5艘が応じたが、大風大浪に乗った兵船は、通常3日かかる行程をわずか3時で駆け渡り、翌17日の午前2時頃には四国阿波・勝浦に着岸した。

<聞きどころ>

「逆櫓」は比較的淡々と語られる句。様相が変わるのは、216日に西国に向かう義経勢と範頼勢とがそれぞれ摂津渡辺・神崎に舟ぞろえしたが折節の強風と高波で舟が破損して修理のためにしばし逗留する場面以後。今後の船軍の様を協議する中で、梶原景時と源義経が対立した場面。「口説」⇒「強下」⇒「強声」⇒「素声」との少し凄みを効かせた節回しで一気に語られる。さらに義経が単独にて水主・梶取らを脅して荒らしの中船出させる場面。ここも同じく「口説」⇒「強下」⇒「強声」⇒「素声」の節回しで凄みを効かせて語った後、脅されて5艘の兵船が荒天の中出港し阿波に着くまでの場面を一息に「拾」でさっと語り上げて終わる。

<参考>

 「逆櫓」を巡る義経と景時の対立は、『平家物語』の脚色の可能性が高い。なぜなら平家追討の戦陣では、鎌倉方は、源範頼の率いる軍勢と源義経の率いる軍勢とに分かれており、『吾妻鏡』元暦元年(1184)25日条に示されるその陣容では、「大手大將軍蒲冠者範頼也。相從之輩。

 小山四郎朝政    武田兵衛尉有義    板垣三郎兼信    下河邊庄司行平

 長沼五郎宗政    千葉介常胤      佐貫四郎廣綱    畠山次郎重忠

 稻毛三郎重成    同四郎重朝      同五郎行重     梶原平三景時

 同源太景季     同平次景高      相馬次郎師常    國分五郎胤道

 東六郎胤頼     中條藤次家長     海老名太郎     小野寺太郎通綱

 曾我太郎祐信    庄司三郎忠家     同五郎廣方     塩谷五郎惟廣

 庄太郎家長     秩父武者四郎行綱   安保次郎實光    中村小三郎時經

 河原太郎高直    同次郎忠家      小代八郎行平    久下次郎重光

已下五万六千餘騎也。」とあり、梶原景時はその子息らとともに範頼軍に属しており、『平家物語』でも描かれた摂津一の谷の合戦では、大手を攻める範頼軍の大将の一人として働いている。

 ちなみに「搦手大將軍源九郎義經也。相從之輩。

 遠江守義定     大内右衛門尉惟義   山名三郎義範    齋院次官親能

 田代冠者信綱    大河戸太郎廣行    土肥次郎實平    三浦十郎義連

 糟屋藤太有季    平山武者所季重    平佐古太郎爲重   熊谷次郎直實

 同小次郎直家    小河小次郎祐義    山田太郎重澄    原三郎C益

 猪俣平六則綱

已下二万餘騎也。」と義経勢の主だった大将の名前が列記されており、ここには景時の名はない。『平家物語』が伝える5艘の指揮官の中にはこの主だった大将たちは入っていないので、義経が八島から平氏軍を追いだした後の22日に渡辺からついた残りの200余艘を率いた大将は、梶原ではなく(「志度合戦」)、このメンバーからは自らも水軍を率いている土肥次郎實平か三浦十郎義連であろう。

 また『平家物語』は渡辺に集まった義経軍と同時に神崎に範頼軍もあつまったとして、その麾下にあった梶原が船戦評定に参加していたとするが、範頼軍はこの以前から山陽道を陸路でたどり、『平家物語』でも備前藤戸で平家軍と戦ったと記し、『吾妻鑑』ではすでに九州にわたっているので、渡辺と神崎に範頼・義経軍が集結したという設定そのものが『平家物語』の創作である。