内侍所都入

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主な登場人物

●平知盛:11521185 平清盛の四男。母は時子で平家総帥宗盛の同母弟。治承4(1180)年以後の諸国での源氏反乱の折は追討軍の大将として活躍し、寿   永2(1183)年の都落ちののちは長門(山口県)の彦島に水軍の根拠地を置いて平氏最後の砦とした。元暦1(1184)2月の一の谷の戦では子の知章を失い、文治1(1185)3月の壇の浦の戦いでは平家総大将として臨み、壇之浦に入水した。

源義経:11591189 源義朝と九条院雑仕の常盤との間に生まれ、幼名は牛若丸、また九郎御曹子と称された。父が平治の乱(1159)で敗れたことから、平氏の追っ手を逃れて各地を放浪し、やがて母の再嫁先の公卿の藤原長成の扶持によって鞍馬寺に預けられる。後に鞍馬寺を抜け出し、奥州に向かう途次自ら元服し九郎義経と名乗る。継父長成の親族の基成が陸奥守で娘が藤原秀衡の妻である縁を頼って秀衡の庇護を得る。後、兄頼朝が治承4(1180)年に挙兵したのに呼応して、駿河国(静岡県)黄瀬川に奥州から駆けつけた。やがて頼朝の代官として、寿永2(1183)年末から畿内近国に派遣され、木曽義仲追討・平家追討で功績を挙げて、検非違使となり九郎判官と称される。文治1(1185)2月には荒波を越えて阿波勝浦に渡り、阿波水軍を奇襲によって破るとその勢いをかって讃岐屋島から平氏を追い出し、ついに3月には平氏を長門(山口県)壇の浦で滅ぼした。しかし検非違使任官以後頼朝から疎まれ、頼朝から刺客を向けられたことをきっかけに、後白河院から頼朝追討の宣旨を得て挙兵したが兵が集まらず、西国に舟で逃れる途中大風にあって難破。以後密かに諸国を流浪して奥州にたどり着き藤原秀衡の庇護を得る。だがその死後、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡によって文治5.4.30(1189.6.15)、衣川の館に攻められて討ち死にした。

<物語のあらすじ>

元暦2324日、先帝・二位の尼の入水に続いて女院・大納言佐など女房達も次々と入水、そして教盛・経盛・資盛・宗盛以下の公達たちも次々と入水。能登守教経は敵の侍二人を脇に挟んで道連れにして入水(「能登殿最期」)。最後に総大将の知盛が乳母子の伊賀平内左衛門家長と共に入水するや、主だった侍大将らも次々と入水。鎌倉方は三種神器や主だった者を引き上げるに大わらわとなる。戦が終わってみると平家方の公達・侍大将達の生捕は38名、女房達は43人の生捕に。九郎義経は43日に合戦の次第を院へ奏聞し、425日子の刻(深夜12時)には、神器の内、内侍所(神鏡)と印(爾)を収めた箱が太政官の庁に入った。

<聞きどころ>

 冒頭、中納言知盛卿と20余人の侍大将達の入水を「口説」で淡々と語った後、戦が終わって海上に平家方の船が漂い、赤旗赤印が波間に漂うさまを「中音」⇒「初重」で静かに美しく語る。そして続く生捕の人々を読み上げる場面では、「折声」⇒「指声」⇒「素声」の特徴的な節を変えて語り、次に女房達の生捕を「口説」で淡々と語り終え、「三重」の節で重々しくかつ美しく平家滅亡の様を語り上げる。戦の後の場面は、まず「素声」⇒「口説」で義経による院への報告と院近臣が内侍所・爾の御箱を迎えに出立する有様を淡々と語り、生捕を連れた義経一行の有様と旅の途中での有様は、「中音」⇒「初重」⇒「指声」と美しくかつ静かに語り、女房達が明石で月見宴をしたさいの三人の女房の歌と九郎義経の反応を、「上歌」⇒「下歌」⇒「曲歌」⇒「指声」という節の変化で印象的に語る。そして最後に内侍所・爾の御箱の都への到着の様を、「呂」⇒「下音」という低音域でおどろおどろしく始め、「上音」⇒「下音」⇒「上音」と節を軽快に変化させながら語り終える。淡々とした場面描写と平家滅亡の有様を嘆く場面での曲節の変化の様が興味深い。

<参考>

 『吾妻鑑』第四巻元暦二年411日の条に記された「義経注進状」の平家の生け捕りの人々の名と、『覚一本平家』に記された平家の生け捕りの人々の名を比べてみると面白い事実が浮かび上がる。

それは平家生捕リストが微妙に異なることだ。生捕となった公達は全く同じだが、僧と侍大将は微妙に異なり、最も大きく異なるのは生け捕りとなった女房達だ。

 両者に共通するのは、「女院=建礼門院」と重衡の妻である「大納言佐殿」、そして時忠の妻で先帝安徳の乳母である「帥典侍殿」の三人だけ。『覚一本平家』にあって『吾妻鑑』にないのが「廊の御方」、知盛の妻である「治部卿局」。『吾妻鑑』にあって『覚一本平家』にないのは、「按察使局」と二位の尼妹の「帥殿」。この「帥殿」とは『延慶本平家』と『源平盛衰記』にある同じく二位の尼妹で建春門院女房であった「冷泉局」と思われる。そして両者にあって不明なのが「北の政所」。これは大臣や大納言の妻を指すことばだが、内大臣平宗盛の妻はすでに他界しておらず、該当するのは大納言時忠の妻だが、これは「治部卿局」として記されているので、「北の政所」と記された人物が誰だかわからない。

 この按察使局だが、彼女の出自は不明だが、始めは平時子に仕え、その後時子の妹である高倉天皇の母の建春門院女房となり、後に高倉天皇に時子の娘・徳子が中宮として御所に上がったときには、徳子付きの女房となった人物だ。『吾妻鑑』では彼女の名前を挙げたあと、「奉抱先帝雖入水存命(先の帝を抱き奉り入水すと雖も存命す)」と注記した。この『吾妻鑑』の注記が正しいとすれば、先に見た「先帝御入水」での名場面、二位の尼時子が安徳天皇を抱いて船端に立ち、「皆帝に続け」と言った後、帝に対しては「水底にも都は有る」と宥めて海に飛び込んだという話が、『平家物語』作者による造作だということだ。実際は時子は帝を抱いておらず、建礼門院付女房である按察使局が抱いていたことになり、場面の劇的な性格が失われる。

 また『平家物語』諸本では壇の浦合戦の最終場面で知盛に続いてその侍大将たちが多数入水自殺を遂げたことを記したあとで、名だたる平家侍大将の中で著名な四人が「なにとしてかのがれたりけん。そこをも又落ちにけり」と記し、彼らが戦場から逃げ去ったことを記している。ではなぜこれをわざわざ『平家物語』は記したのか。

それは彼らが戦場を逃れて潜伏し、平家再興の兵を挙げたり、頼朝を仇と狙ってそれを実行に移したりしたからだ。『延慶本平家物語』は、1196年(建久7)710日に法性寺の一の橋付近に平家残党が立て籠って討伐を受けたことを記し、その大将は知盛の子の知忠、彼を担いだのは、越中次郎兵衛・平盛嗣、上総五郎兵衛・藤原忠光、悪七兵衛・藤原景清、飛騨四郎兵衛・藤原景俊の壇の浦を逃れた四人の侍大将で、追討軍の急襲を受けて多くは逃れたが、知忠は討たれたと記すが、どこまで事実かは確認できない。次に見るように他の史料で確認できる四人の経歴とは矛盾するからだ。

 

★上総五郎兵衛・藤原忠光は、1192年(建久3)鎌倉永福寺の創建工事にまぎれて源頼朝の命をねらうが、変装をみやぶられ、同年224日さらし首となった、と『吾妻鑑』に記されている。

★悪七兵衛・藤原景清は忠光の弟であるが、1195年(建久6)東大寺供養に上洛した源頼朝の命を狙ったが失敗し捕らわれて、八田知家に預けられたが、やがて飲食を断って死んだと『延慶本平家物語』に記されている。

越中次郎兵衛・平盛嗣は平氏一族から郎等となった人物だが、戦場から離脱した彼を頼朝は執拗に追い、但馬国の城崎郡気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕え、やがて娘婿となっていた盛嗣が、京に住む年来懇ろであった女を訪ねたおり、尋ねられて今いるところを喋ったため、この情報を女の間男が鎌倉に通報したことで捕らえられ、1194年(建久5)鎌倉に護送された彼は由比ヶ浜にて斬首された、と『延慶本平家物語』には記される 。

飛騨四郎兵衛・藤原景俊は来歴不明だが、彼のその後は不明である。

  つまり1196年(建久7)710日に法性寺の一の橋付近で起きた平家残党狩りの当事者とされた4人の平家侍大将の内、3人はそれ以前に死んでいると、『吾妻鑑』やこの事件を記した『延慶本平家』自身が記しているので、先の事件そのものの様相が物語に書かれたものとは異なる可能性が高い。しかし壇の浦を逃れた侍大将の内の2人までが頼朝を狙ったことは事実であり、『延慶本平家』の平知忠を担いだ事件はこうした事実を元にした『平家物語』作者の創作と考えられる。