一門大路渡

平家物語topへ 琵琶topへ

主な登場人物

●内大臣平宗盛:11471185 清盛の3男で、母は平時子。治承3年(1179)の重盛の死後は氏の長者としてその中心に位置し、4年の源氏反乱に際しては、父清盛を説得して都を福原から平安京に戻し、翌年1月には畿内近国の軍事組織である惣官職を設置して惣官となり、清盛の死後は平氏総帥となる。壇之浦合戦敗北後入水するも助けられ、鎌倉に送られた後に、京に戻す途中で切られた。『平家物語』は宗盛について厳しい人物評価を与え、無能で器量なしとしているが、実像は不明。

<物語のあらすじ> 4月26日、平家に伴われて西海に下っていた高倉院第二皇子守貞親王が都に戻った。同じく426日、平氏の生捕どもが都に入る。前内大臣宗盛父子を載せた牛車の牛飼はかっての大臣の牛車の牛飼・次郎丸の弟の三郎丸が御者を務めた。法皇や公卿・殿上人は途中の道筋にそれぞれの車を止めて見物。先年宗盛が内大臣となったおりのお礼の参内に際しては多くの公卿・殿上人が供奉したが、今日の平氏一行の行列には誰も従わず、まるで夢のような有様であった。六条大路を渡されたあと、生捕共はそれぞれの宿所に移されたが、前内大臣父子は九郎義経の宿所・六条堀河に移された。

<聞きどころ>

前半は平家一門が六条大路を渡される場面だが、その具体的なありさまは、「口説」で淡々と語り終え、そのあと、誰も予想はしていなかった平家凋落の有様を、「中音」⇒「初重」⇒「三重」の節で朗々とかつ美しく語り終える。中段は前内大臣宗盛と牛飼いの美談を語るが、「口説」で宗盛のかつての牛飼い・次郎丸の弟の三郎丸が御者を務める次第を淡々と語ったあと、「中音」でかつての主の牛車を再び引くことができた三郎丸の歓びを美しく語り上げ、その後「素声」に一転して、法皇や公卿殿上人がこの大路渡しを車を止めて眺める様を描き、見る人々が隔世の感を持ったことを淡々とかつ重々しく語り、最後に「口説」⇒「初重」で、先年の宗盛の内大臣就任のお礼参りの行列と対比して落ちぶれたさまを淡々と語る。そして最後の段は。大路渡しの後の場面と九郎判官の宿所での前内大臣父子の心温まるありさまを、「口説」⇒「初重」で淡々と語り終える。この句も場面描写の淡々とした語りと、平家凋落を嘆く場面やその中でも心温まる場面の描写の美しい語りの差が興味深い。

<参考>

『覚一本平家』は平家の生け捕りの人々の名を詳しく挙げているが、この人々の行く末については主だった人々を除いてあまり関心を寄せていない。

すなわち、時忠卿以下の公卿たちと僧たちは全員流罪となったことについては、「平大納言被流」で記し、平家の大将である宗盛とその子息清宗と8歳の子息副将は死罪とされたことは「副将被斬」「大臣殿被斬」で詳しく記したが、同じく捕虜となった平家侍大将や女房達(建礼門院以外)の行く末についてはほとんど無関心である。

まず女房達。

「建礼門院徳子」は帰京後しばらくして出家し大原に隠棲したことは、彼女に従った女房の中に、重衡卿の妻であった「大納言佐殿」がいたことを含めて、「灌頂の巻」に詳しく語られている。

そしてこの「大納言佐殿」が帰郷後しばらくは姉の住む日野に隠棲し、奈良へ送られる途中の重衡に会ったことも「重衡被斬」に詳しく記されている。

しかし他の女房達の行く末はまったく記していない。

先帝の乳母で時忠卿の妻の「帥典侍殿」の帰京後の事は史料にまったくなく不明である。同じく二位の尼時子の妹の「冷泉局=帥殿」も史料になく不明。清盛の八女で母が常盤である「廊の御方」(義経の妹)は、そもそも『平家物語』にしか出てこない人物なので同じく帰京後は不明。

知盛卿の妻であった「治部卿局」は、壇の浦で助けられて帰京した高倉院二の宮・守貞親王の乳母であったので親王が養子となった上西門院の邸宅に住み、守貞親王と共に藤原孝道に師事し、琵琶の名手となった。後に承久の乱で失脚した後鳥羽上皇一族に代って、守貞親王の第三皇子の茂仁(ゆたひと)が皇位をついで後堀河天皇となり、出家していた父の守貞が後高倉院として政務をとったため、「治部卿局」は後高倉院、新帝の母北白河院を支えて再び脚光を浴びる存在となる。寛喜3年(1231年)、80歳で死去。つまり彼女は『平家物語』が編纂された時期まで生きたわけだ。

『吾妻鑑』で先帝安徳を抱いて入水したと記された「按察使局」は、その後筑後の筑後川のほとりの鷺野ケ原に移住し、剃髪して平家一門の菩提を弔ったと、この地に伝えられている。

消息不明なものもあるが、総じて女房達は生き延び、それぞれの人生を全うしたものと思われる。

 

この女房達と対照的なのが、捕虜となったり降人となった侍大将たちだ。

源大夫判官季貞延慶本平家』では、生捕ではなく降人とある。清和源氏源満政の子孫であるが平清盛の近習として所領の経営など財務を担当。源氏反乱後は侍大将の一人として各地を転戦。捕虜となった後鎌倉に送られたと『延慶本平家』の「大臣父子関東へ下り給う事」に記されているが、上総国望陀郡飯富(おぶ)庄(現在の千葉県袖ケ浦市飯富)に住み、箭(やがら)造りの名人のため源頼朝に召し出されて御家人となった子宗遠に、身柄が預けられた。

★摂津判官平盛澄:『延慶本平家』では、生捕ではなく降人とある。源季貞と共に蜂起した各地の武将の追討に奔走した人物だが、鎌倉に送られたと『延慶本平家』の「大臣父子関東へ下り給う事」に記されているが、以後の詳細は不明。

★橘内左衛門季康:そもそも史料にでてこず、詳細は不明。

★後藤内左衛門信康:そもそも史料にでてこず、詳細は不明。

 以下の四人は降人。

阿波民部重能『延慶本平家』では、生捕ではなく降人とある。『延慶本平家』では鎌倉に送られ、詮議の上で「先祖伝来の主を帰り忠して不当人を許す理由はない」とされ、籠に入れて吊るされ火で焙られて焼き殺されたとある。

★阿波民部重能の子・教能:鎌倉に送られたのち、12年の禁固とされ、建久8年(1197年)10月、鎌倉幕府の命を受けた侍所別当の和田義盛によって三浦浜に引き出され、斬首されたという(『鎌倉大日記』)。

菊池高直文治元年(1185年)11月、『覚一本平家』の「判官都落」によると、九州に落ち延びようとして援助を緒方惟栄に要請した際に、菊池と長年敵対していた緒方惟栄の要請によって義経から惟栄に身柄を引き渡され、六条河原で斬首されたという。

原田種直平家を支える北九州の豪族として壇の浦合戦でも第一陣として活躍したが、敗北の後に降人となった。しかし彼の所領は「平家没官領」として没収され、鎌倉に幽閉されるが、後に建久元年(1190年)に赦免され、御家人として筑前国怡土庄の地頭に任じられると『吾妻鑑』に記されている。

平家の侍大将ということは、平家累代の家人で、平家軍の実質的指揮官ということ。したがって壇の浦から逃亡した4人の侍大将のように、平家公達の生き残りを擁して反乱を企てる可能性があるということ。だからこそ越中次郎兵衛平盛嗣のように、草の根をわけても探し出し死罪としたいわけだ。この点で阿波民部重能は、平家累代の家人で清盛の腹心。平家の南都攻めの実質的中心で、都落ち後の平家を、四国を平定して支えた武将。壇の浦合戦で彼の裏切りがなければ平家壊滅はなかったとは言え、「先祖伝来の主を帰り忠した不当人を許す理由はない」として処刑されるのも当然であろう。また、菊池高直原田種直が死罪もしくは領地没収となったのも同様だ。しかし源大夫判官季貞がその身を許されたのは、平家重臣であったとはいえ、彼一代でのことであり、しかも頼朝と縁の繋がった清和源氏源経基流であり、すでに子息たちが鎌倉御家人でもあったという、特別な理由と思われる。

平家公達とその年来の家人である侍大将の処遇は、武士の習いである敵は殲滅するという考え方に任されて処断され、平家方公卿が許されたのは、死罪を嫌う貴族の習いにしたがったもの。そして僧侶や女房の命が助けられたのは、彼らは非戦闘員だからだろう。

 

『覚一本平家』は平家の生け捕りや降人のその後についてはほとんど記していないが、『平家物語』の最も古い形を残すと思われる『延慶本平家』は先に見たように、多くの生け捕り・降人たちのその後を記しているので、『覚一本平家』が平家の生け捕りや降人のその後についてほとんど記さない理由は、この本が、語られる中で、話の大筋から外れる部分は省略してできたという、本の性格に由来するものと思われる。