大臣殿被斬

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主な登場人物

●内大臣平宗盛:11471185 清盛の3男で、母は平時子。治承3年(1179)の重盛の死後は氏の長者としてその中心に位置し、4年の源氏反乱に際しては、父清盛を説得して都を福原から平安京に戻し、翌年1月には畿内近国の軍事組織である惣官職を設置して惣官となり、清盛の死後は平氏総帥となる。壇之浦合戦敗北後入水するも助けられ、鎌倉に送られた後に、京に戻す途中で切られた。『平家物語』は宗盛について厳しい人物評価を与え、無能で器量なしとしているが、実像は不明。

●平清宗:11701185 宗盛の嫡男。母は後白河法皇の寵妃・建春門院の同母妹である平清子。平家の嫡流のため若年で異例の昇進をとげ、13歳で正三位右衛門督となる。しかし、まもなく平家が都落ちし、文治1(1185)3月、壇の浦の戦で生虜となり、同年6,近江国篠原で斬首された。

橘公長:?−? その祖先は不詳。元々平知盛の家人であったが、治承4年(1180年)12月に平家を見限り、同僚であった加々美長清の仲介で源頼朝の麾下に入る。頼朝に重用され、元暦元年(1184年)、平頼盛の帰洛にあたって餞別の宴に同席。その後は義経の麾下で戦い、捕虜となった内大臣宗盛と嫡子清宗を斬首し、このことと平重衡の最期を鎌倉に報告。子孫は肥前国に広がり、次男の公業が一時所領とした小鹿島(現秋田県男鹿市)の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。

●堀弥太郎景光:?−? 系譜も不明。「吾妻鑑」によると宗盛父子など平家生捕を鎌倉に連れて行く日時を伝えたのも堀弥太郎景光であり、義経都落ちのあと、その軍勢が離散したあとも武蔵坊弁慶、源有綱、静御前と共に義経の身辺にあった。文治2年(1186年)920日、都に潜んでいた景光は、鎌倉の御家人・糟屋有季に捕縛される。景光の自白により義経が奈良の興福寺に潜んでいたこと、義経の使いとして藤原範季と連絡を取っていた事が発覚する(『玉葉』)。その後斬殺されたとも伝える。

<物語のあらすじ>

     元暦257日京を出発した平家生け捕りどもは、24日に鎌倉に着く。しかし生け捕り一行は金洗い沢で受け取られて鎌倉に入れられたが、九郎判官義経は鎌倉入りを止められて、待機させられる(「腰越」)。鎌倉で頼朝との庭一つ隔てての対面のあと、大臣父子は再び九郎判官義経に託され都上りの旅に。旅の途中の近江国野路の篠原にて二人は討たれ、首は都大路を渡されたあと、獄門に懸けられた(「大臣殿被斬」)。

<聞きどころ>

前半は鎌倉での大臣殿と頼朝の対面場面。対面場面を「口説」で淡々と語ったあと、この時の大臣殿のへりくだった様を慨嘆する旧平家家臣の想いを「折声」⇒「指声」で切々と語って、平家没落の様を強調。後半は義経に伴われての大臣父子の死出の都上りの場面。「口説」で淡々と途次の有様を語った後、「素声」と節を変えて最後の地・近江篠原に着いたことを示し、死に臨んでまでも息子を死なすことを悔いる大臣殿とそれを宥める善智識の僧侶の言葉は「口説」で淡々と語ったあと、いかなる栄華を誇ったものもやがて亡んでいくと諸々の例を挙げて言い聞かせる僧侶の言は、「三重」⇒「折声」で朗々と歌い上げる。そして大臣殿の最後の場面は、「口説」で状況を説明したあと、首を切られようとしてもなお生に拘り続けた果てに切られる大臣殿の姿を「中音」⇒「初重」で切々と歌い上げたあと、父の最期を確認した後静かに首を討たれた右衛門督の姿は「素声」でさらっと語り終える。この父子の最期のありさまの違いを「中音」「素声」で語り分けたところは圧巻。最後に都で二人の首が晒される場面は、「口説」で状況を語ったあと、「中音」で大臣殿は二度も都で恥を晒されたことを慨嘆して終わる。

 

<参考>

  宗盛と息子の右衛門督清宗の最期に際して仏の定めた戒律を授けて出家させる導師として大原来迎院の本性房湛豪が招かれ、処刑に際して、宗盛と息子の右衛門督清宗に引導を渡し念仏を唱えながら往生すべきことを説いたと記される。

 『平家物語』において処刑に際してこうした導師を呼んで戒を授けさせた例は、のちに出てくる平重衡の場合があり、この際には重衡はすでに寿永3年3月に鎌倉に下る以前に叡山黒谷の法然房に頼んで受戒し、死に際しては一心に弥陀の名号を唱えれば罪は許されて極楽往生できると教えられていた(巻10「戒文」)ので、主の最期を見届けようと駆け付けたかつての家人・木工右馬允知時に頼んで近くの荒れ寺から阿弥陀仏を探し出させ紐を仏の手にかけて端を重衡の手に持たせてもらい、弥陀の名号を高らかに唱える中で斬首されたと記される。 また処刑の場面ではないが、先に見た平維盛の最期に際しても同様な場面が描かれている。
 維盛は
高野山南谷の東禅院の知覚上人を招いて従者二人と共に受戒して出家(巻10「維盛出家」)。その後那智浦の沖まで従った滝口入道と共に弥陀の名号を高らかに唱えながら入水したと描かれている(巻10「維盛入水」)。

『平家物語』では平家を代表する武将四名が死に際して受戒して出家し、弥陀の名号を高らかに唱えながら死に臨んだと記しているわけだ。そしてここに記された3人の導師はいずれも著名な念仏聖であり、それぞれが拠点とする大原来迎院・叡山黒谷・高野山南谷は、当時を代表する称名念仏集団の拠点であった。

 四人の武将が当時を代表する念仏聖に受戒されたということが事実であるかどうかは、他の同時代史料で確かめることはできないが、この時代は広く人々の間に、死に際しては受戒して出家し、弥陀の名号を高らかに唱えながら死に臨めば必ず極楽往生できるという称名念仏を重視した浄土教の教えが広まっていたので、事実である可能性は高い。

 『平家物語』には先の四名以外にも10名の受戒・出家記事が記されていることは、こうした事実の反映であろう。 その10名とは、後白河・小宰相の乳母の女房・建礼門院・藤原成親の北の方・妻を文覚(遠藤盛遠)に討たれた刑部左衛門・遠藤盛遠・伊豆に流される文覚の船の中で受戒した文明・藤原成親・平康頼・滝口時頼であり、このうちの小宰相の乳母の女房と藤原成親については、まさに死に臨んでの受戒出家であった。

 源平の合戦と称された治承・寿永の戦乱の時期はまさしく、死に際しては受戒して出家し、弥陀の名号を高らかに唱えながら死に臨めば必ず極楽往生できるという浄土教の教えが広まっていた時代であり、その戦乱のすぐ後の時代は、この教えが浄土宗・浄土真宗・時宗などの新しい宗教教団の組織化と相まって、弥陀の名号を高らかに唱えながら死に臨めば必ず極楽往生できるという思想が、広く一般の人にまで広がったのであり、『平家物語』が編纂され琵琶による語りとして広がった時代はまさにこの称名念仏を重視する浄土宗諸教団広がりの時代であった。

 『平家物語』冒頭の一節に祇王祇女とその母、そして仏御前の極楽往生談が記されたことと、『平家物語』最後に建礼門院平徳子の極楽往生談が記されたことは、まさにその証左である。 称名念仏を重視する浄土教の教えの革新的性格は、様々な功徳を積まなくとも一心に阿弥陀の名号を唱えれば極楽往生できるというものであったが、もう一つの革新性は、従来の仏教では極楽往生できないとされていた女性も、弥陀の名号を唱えれば極楽往生できるという一点にあったわけで、『平家物語』における極楽往生談のすべてが女性の往生であったことは、象徴的である。 『平家物語』は平家を代表し恨みを含んで死んでいったであろう四名の武将の死を、受戒して出家し、弥陀の名号を高らかに唱えながら死に臨んだと記し、その平家繁栄の象徴であった建礼門院平徳子が、滅び去った平家一族と安徳天皇の菩提を弔いつつ受戒して出家し、弥陀の名号を高らかに唱えながら極楽往生したと記すことで、治承寿永の戦乱で亡くなった人々、とりわけ平家の人々の魂を鎮めるという、物語編纂の目的を象徴しているのだと思われる。