重衡被斬

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主な登場人物

●平重衡:11571185 平清盛の5男。母は平時子。正三位左近衛権中将。本三位中将と呼ばれる。1180年以仁王の乱鎮圧の過程での南都焼き討ち時の総  大将。墨俣合戦、水島合戦、室山合戦など多くの戦いの大将軍を務める。

源頼兼:?−? 源頼政の子。以仁王の乱には組せず、木曽義仲入京後の寿永2(1183)7月大内守護の任につく。義仲滅亡後は在京御家人として活動し、元暦2年平重衡を南都衆徒にひきわたすため、鎌倉より護送。建久51194)年鎌倉にはいり、翌年源頼朝の京都入りに随伴して東大寺に参詣。元久21205)年石見守。

●大納言佐?? 藤原 輔子。平重衡の妻。大納言藤原邦綱の次女。母は藤原公俊の娘。安徳天皇の乳母をつとめ、従三位典侍・大納言典侍(大納言佐)と称した。寿永2(1183)に夫が一ノ谷の戦いで捕らえられた翌年、壇ノ浦の戦いで安徳天皇のあとを追い入水しようとしたところをたすけられる。戦後は山城国日野(京都市伏見区)に住む姉の邦子(大夫三位)の居所に隠棲した。元暦2年重衡処刑のとき対面し形見の前髪をうけとる。のち大原に隠棲する建礼門院につかえた。

<物語のあらすじ>

 元暦2年(1185)6月 、鎌倉で狩野介宗茂に預けられていた平重衡は、源頼兼に護送されて奈良に向かった。大津から東海道を離れて山科・醍醐と進んだので、日野に隠棲する妻・大納言佐に会いたいと守護の武士に頼み、その庵を訪ねた。北の方が用意した浄衣に着替えた重衡は、これまで着ていた直垂を形見として渡すと、北の方は筆の跡を所望したので北の方に贈る和歌を認め、奈良へと旅だった。南都の大衆は重衡の処置を詮議し、武士に渡し木津の辺りで切らすこととした。処刑の場に重衡に長年仕えていた木工右馬允知時が主の最期に立ち会おうと馳せ来たったので、重衡は知時に命じて仏像を求めさせ、知時が求めてきた阿弥陀如来像の手に紐をかけて反対の端を重衡の手に持たせ、念仏を唱えて首切られ、首は般若寺の大鳥居の前に釘付けにされた。後に重衡北の方はこの首を大仏の聖俊乗房・重源を通じて手に入れ、河原で回収した体とともに荼毘に付し、骨を高野山におくり、日野に墓を建てて供養した。

<聞きどころ>

「重衡被斬」の前半は奈良に送られる途中日野での北の方との対面の場面。全体として「口説」と「素声」の節で淡々と語られるが、日野におわす北の方について語る部分と庵を訪ねた重衡を迎えた北の方の様子を「中音」で歌い上げ、続いて重衡の思いを語る部分は「折声」⇒「口説」で印象的に語る。そして二人の和歌の贈答を「上歌」「下歌」で語った後、未練を断ち切って出立する重衡と声を限りに泣き叫びながらそれを見送る北の方のありさまを、「三重」⇒「初重」で美しく印象的に語り終えて前半を終わる。後半は重衡の処遇を詮議する奈良の大衆の様子と、木津での処刑の有様を語った部分だが、処刑の有様までは「口説」⇒「素声」⇒「口説」で静かに語るが、近在の寺から持ってきた阿弥陀仏に重衡が結縁して思いを述べる場面では一転して、「折声」⇒「口説」⇒「中音」⇒「初重」⇒「素声」と華麗に節を変えて処刑の場面に至る。最後は重衡処刑とその首と遺体をもらい受けた北の方が供養する場面だが、ここは「素声」⇒「口説」で静かに淡々と語り終え、北の方が出家したありさまを「中音」で美テキスト ボックス: しく語って終える。

 ※琵琶湖の西南、園城寺付近から南に延び、宇治に至る道が「醍醐路」。日野は途中の「木幡」のすぐ東側。

 

<参考>

 「平家物語」巻11の最後を飾る句であり、この重衡の死をもって平家一門滅亡を象徴する。次の巻12と灌頂巻は、その後のエピソード。

 重衡が元暦2(1885)年6月23日に木津辺りにて斬られたことは、左大臣九条兼実の日記「玉葉」のこの日の条に「伝え聞く、重衡首泉木津辺において之を切り、奈良坂に懸けしむると云々。」とあり、「吾妻鑑」の同じ日の条にも「今日、前三位中将重衡、南都において首切らると云々。これ伽藍火災の張本であるため、衆徒強く申請なりと云々」と記されていることからも、歴史的事実であることが確認される。さらに重衡が南都に送られる途中、日野にて、その妻大納言佐と会って最後の別れを惜しんだことは、天台座主慈円の歴史書「愚管抄」の巻5に、「この死なんずる身にて、泣く泣く小袖着替えなんどして過ぎけるをば、頼兼も許して着せさせけり。大方、積悪の盛は是を憎めども、またかかる時に臨みては、聞く人悲しみの涙におぼゆる事なり」とあり、事実と確認できる。

 平家一門滅亡を象徴する「大臣殿被斬」と「重衡被斬」の二つの句は、概ね歴史的事実に基づいて語られているものと思われる。

 ただし重衡の死の様子には異伝がある。もっとも古態を示すと考えられている「延慶本」だけでなく、「覚一本」や「120句本」では、重衡や木津川の辺りの河原で斬られたとあるが、「源平盛衰記」は、同じ場所の古寺で用意された盛装に着替えたと記し、重衡はそれと自分に知らせずに首を切れと警護の武士に頼み、その最後に誰とも知られ老僧が立ち会って懇ろに経文を唱えたので翌日の明け方になってしまって、重衡が古寺の縁に出たところでついてきた武士に後ろから斬られたと記している。だがこの記述はあまりに不自然であり、多くの「平家物語」諸本が伝えるように、木津川の川辺で斬られたというのが事実ではないか。この点では、「源平盛衰記」の異伝として、奈良坂で斬られ法華寺の鳥居の前に掲げられたとの伝も伝えている。また慈円の「愚管抄」巻5で、重衡の死に臨んで、天台宗の高僧・範源法印が行き合い、「ただいま死に臨む者の相ではない。不思議に死相が現れていない」といったという逸話を紹介しているので、「源平盛衰記」の異伝と合わせて、重衡の死にあたって僧侶が立ち会ったという話も伝わっていたのではないか。この点で、多くの「平家物語」が重衡の死に僧侶は立ち会っていないと記したのは、鎌倉に送られる前に黒谷の法然房に戒を受けていたと記したので、処刑の際には僧侶は立ち会わず、重衡は自ら、家臣に仏像を求めさせて、その阿弥陀像の手と自分の手とを紐で繋がせて、念仏を唱えながら死に臨んだとしたのではないか。

実際のところは、死に臨んで誰か僧侶が立ち会い、そこで戒を授け経文を読み上げ、念仏を唱えながら死に望むように説教したというのが、事実に近いのだと思われる。

 したがって重衡の死の様子については、物語作者によって、後世にかなりの脚色が入っているものと思われる。