嗣信最期
▼主な登場人物 ●平教経:?−?平清盛の弟教盛の次男。もと国盛。仁安1(1166)年伯耆守から民部権大輔、治承3(1179)年能登守。このころ教経に改名。寿永2(1183)年の平家都落ち以後、一門きっての剛勇の士として知られた。備中水島で源氏を破り、淡路に源義嗣、義久を討ち、伊予の河野通信、紀伊に園部忠康を下し、豊後の緒方惟義、臼杵惟隆を追い落とすなど活躍。『吾妻鏡』では一の谷の戦(1184)で安田義定に討たれ、獄門に懸けられたとするが、『玉葉』はこの首は偽物で教経は生存の風聞を伝え、『醍醐雑事記』では文治1(1185)年3月24日壇の浦で自害,時に26歳という。 ●佐藤嗣信:?−1185 源義経の家人、元は藤原秀衡の従者。信夫庄司の元治の3男。三郎兵衛尉。『吾妻鏡』によれば、義経が挙兵した兄頼朝の下に参陣しようとした折、秀衡が継信、忠信兄弟を義経の従者として遣わしたと記されている。以後彼らは義経と共に各地で平氏と戦い、戦功をあげた。元暦2年(寿永4)2月19日の八島(香川県高松市)の戦いに際し、平家の勇将能登守教経の強弓から義経を守り、その矢面に立って戦死した。屋島に近い牟礼の林に埋葬された。 <物語のあらすじ> 嵐をついて2月17日の午前2時頃には四国阿波・勝浦に着岸した義経一行は、味方についた阿波国住人近藤六親家勢30騎を加え、阿波民部重能の弟・桜間介能遠の居城を攻め落とし、八島による平家勢が1000余騎と少ないことを知ると、夜もすがら阿波と讃岐の境の大坂をうち越え、18日の午前4時には讃岐の引田に到り、そこから白鳥を経て八島に攻め寄せた平家勢は義経勢を大軍と勘違いして内裏を捨てて海に浮かぶ兵船へと逃げた(「勝浦」)が、義経勢がわずか7・80騎と知ると、能登守教経が率いる兵船・200余人で押し寄せ、義経を始めとする源氏勢を討ち取ろうとした。中にも能登守教経の強弓は鎧武者10余騎を打ち落とし、その中に義経を庇った従者佐藤嗣信もいた。嗣信の首を取ろうと上陸した教経の童・菊王が佐藤忠信の矢に倒れると能登殿の戦意は失われ、源平それぞれは負傷者を抱えて引き退く。その中で佐藤嗣信は主人義経に看取られて死ぬ。 <聞きどころ> 前半は八島の平家陣を義経勢が奇襲し、大軍の奇襲と勘違いして沖の船に逃げた平家勢と対峙し、陸の源氏勢と海の平氏勢とが軍を繰り返す場面。このため双方の名乗りは「強下」⇒「強声」で強調し、合戦場面は「拾」の「上音」「下音」を駆使してさっと語る。後半は大将義経を守ろうとして平教経の矢に倒れた佐藤嗣信最期の場面。矢に倒れた嗣信の最期の言葉を「折声」⇒「指声」⇒「口説」の特徴的な語りで示し、最後は彼の死を悼む義経の言葉を「中音」で高らかに歌い上げて終わる。
<参考>
「嗣信最期」の場面も、『平家物語』の中で屈指の名場面ではあるが、はたして史実であったかどうか確証がない。たしかに今でも八島の近くの、香川県高松市牟礼町牟礼に嗣信の墓は存在する。
したがって「八島合戦」における嗣信戦死の事実すらたしかめようはない。
『吾妻鑑』は後世の編纂歴史書だが、歴史書である以上、史料に基づいて書かれているとみるべきで、そうだとすれば平教経は八島合戦の前年、寿永3年(1184)2月7日早朝に摂津福原で戦死しており、彼が八島を奇襲した義経が小勢であることに気づいた総帥平宗盛に命じられて、200余人を率いて7・80騎の義経勢を襲い、義経を狙った教経の矢によって、義経従者の佐藤嗣信が射殺されるという、『平家物語』で語られた話はありえない。 そして史実として、八島を奇襲した義経勢を襲って嗣信を射殺した平家の大将は、能登守教経ではなく、他の侍大将、たとえば『平家物語』では教経に継ぐ副将軍格として描かれる、越中前司平盛次であってもおかしくはない。また盛次率いる精兵200余人が一斉に義経狙って矢を放ち、義経を庇った嗣信が矢に射抜かれて死んだというのが史実であってもおかしくはない。 だがこれでは物語として面白みに欠ける。 平教経は『吾妻鑑』ではあまり活躍が描かれていない。 それに反して『平家物語』では、平家都落ち以後の平家勢のヒーローとして、水軍を率いて次々と鎌倉方の軍勢を打倒していく大将軍として教経は華々しく描かれている。 平教経については、左大臣九条兼実がその日記『玉葉』に、一の谷合戦以後の生存説を紹介している。すなわち、寿永3年2月19日の条に、「この日、中御門大納言来られ、伝え聞く。平氏讃岐八島に帰住、その勢3千騎ばかりと云々。渡された首の中、教経においては一定現存云々。また維盛卿30艘ばかり相率いて、南海を指して去り終わりぬと云々。また聞く、資盛・貞能ら、豊後住人らのため生きながら捕らわれおわんぬと云々。この説、日ごろ風聞とて人信じ受けずのところ、事すでに実説なりと云々。」と記している。要するに中御門中納言からの伝聞で一の谷合戦で討ちとられ京で獄門に懸けられた平家諸将の首のうち、平教経は八島に健在であるので、あれは偽首だったと、いうのだ。 『吾妻鑑』が一の谷合戦での教経戦死を記すにはそれなりの史料が存在したことだろう。たとえば戦の軍注状などだ。鎌倉勢の大将や戦奉行から鎌倉へ送られた合戦報告の記録。もしくはそれを伝え聞いた公卿の日記などだ。 だが『平家物語』は、教経については九条兼実が日記『玉葉』に記した生存との伝聞を採用し、都落ち以後落ち目の平家の中で、一人平教経のみが大活躍して、鎌倉方の大将軍源義経と常に対峙し続け、その命すら奪い取るかのような大活躍をなした、という虚構を作り上げたのではなかろうか。「八島合戦」における彼の強弓ぶりや、「壇之浦合戦」における義経を教経が追い詰めた結果としての「八艘飛び」など、極めて伝説的要素が強いからだ。
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