那須与一

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物語の背景 

元暦二年二月十六日(1185319日)。嵐をおして夜半に摂津福島津をわずか五艘の兵船で出でた義経は、海峡を押し渡り、阿波勝浦に到着。現地の武士数十騎を得て、総勢7080騎となった義経は、屋島の平家軍を十八日早朝急襲。驚いた平家軍は全軍沖の兵船に逃げ移るが、源氏軍が少数であることに気づき、大軍で義経軍を攻めるがこう着状態に。やがて四国勢を合わせた義経軍も300余騎に膨れ上がり、両軍対峙するも夕暮れとなり、戦はしばし休止。そこに沖から一艘の小舟が岸際に漕ぎ出だされ、若い女房が真っ赤な扇を船のせがいに竿を立てて挟みたて、扇を射よと招いた。この扇を那須与一が射落とした話。 時は元暦二年二月十八日(1185321日)。

物語の要点

 この話の要点は、扇の的を射よと命令された那須与一の心情である。
  扇の的を射るという仕掛けの意味を聞いた大将軍義経は、これを射るに相応しい腕をもった武者はいるかと聞いたところ、那須与一が推薦された。しかし与一は「当たるかどうかわからない」「確実に射落とせる人を選んで命じて欲しい」と辞退。これに怒った義経は「わが命令が聞けないものは鎌倉へ戻れ」と激怒。再度断っては問題と思ったか与一は、「ともかくもやってみます」と答えて、馬を歩ませて汀に行き、少し的が遠いので浅瀬に馬を乗りいれたが、それでも7段ほどの距離。与一は心の中で諸神に祈り弓を引いて矢を放ったところ、見事に矢は扇の要を射ぬいて、扇はヒラヒラと舞い降り、源平両軍からはどっと喝采が興る。
 話はこの経過を淡々と語るだけであるが、与一の心情は詳しく記されており、ここにこそ物語の焦点はある。

物語の背景・与一の事情

 那須与一(生没年不詳)。なんと生没年も不詳。「平家物語」「源平盛衰記」しか記録がないため詳しいことは不明という人物で、記録としてはその子孫と称する人々の系図の中にしかない。

  下野国那須荘を領した那須資隆の十一男。保元平治の乱では源義朝に従った那須氏ではあったが、乱後は平家家人となり、頼朝の蜂起に際しては一族の多くは平家方につき、頼朝についたのは那須資隆の十一人の男子の内、十郎為高と与一宗高のみ。頼朝が関東一円を支配するなかで、九人の兄たちは信濃など各地に逃亡。この中で下の二人だけが頼朝方で戦う。

  ある意味で与一は、極めて追い詰められた状況の中で、この戦に従ったと言えよう。

★ここで考えたいことは扇を射る際の那須与一の心情

  仕方なく命を受けた与一は馬に打ち乗って扇を射るため出で立った。そして扇を射るため少し水際海に入って扇の的を狙って心の中で祈念した言葉に、彼の心情が描かれている。「もし射損ずれば、弓切折り自害して、人に再び顔を見せない覚悟だ」と。

  そしてここは別の平家ではもっと厳しい心情だと描かれている。
 たとえば、八坂流平曲の譜本だと言われる「120句本平家」では、ここは次のように描かれている。
 「これを射損ずるほどならば、弓切り折り、海に沈み、大龍の眷属となって長く武士の仇とならんずるなり」と。
 要するに自害するということなのだが、さらに海の底にすむという大龍の従者となって、(くだらないことを仕掛けた)武士たちを長く呪ってやるというのだ。
 扇の的を射るという仕業を、与一がいかにくだらないことであり、つまらないことをやらされたと思っていたことが浮き彫りになる。

  実は扇の的を射るのは至難の業

 ●時刻は酉の刻(午後6時ごろ)。かなり薄暗くなった夕暮れ時。弓矢を射るには的が良く見えない。
●距離は、「矢ごろ少し遠ければ」とあるので、射程距離を少し超えた所に船はあった(7・8段)。そして、扇の的までは馬を海に乗り入れても7段あまりあった。
  
1段=6間 1間=1.8m 1段=10.8m。⇒ 7段=75.6m弓の射程距離60mかなり超えた距離。
●小さな的。扇の長さは、通常の舞扇なら9寸5分。およそ
29p。80m弱離れた距離のわずか30pに満たない的。しかもしかも波に浮き沈みする小舟の竿の先の扇。

  これはかなり至難の業である。
 
ここを平家の異本の一つの「源平盛衰記」では、この的を射るのが極めて難しいので幾人も辞退した様が描かれる

 @最初に指名され断ったのは畠山重忠。理由は、元々脚気の病気があり、先日馬に振られて(落ちたので)気分が悪い。射損ずるなら私の恥であるだけではなく源氏の恥にもなるので辞退したいと。
 この畠山が代わりに指名したのが那須兄弟。おそらく配下のものであったものか?
A次に指名されたのが与一の兄・那須十郎為高。しかし彼も断る。理由は一の谷合戦で崖を馬で駆け下った際に、馬が弱かったので弓手の肘をしたたかに打ってまだ治っていないと。そして為高が指名したのが与一だった。
B与一も実は断ろうとした。だが言葉を出す前に、伊勢三郎義盛と後藤兵衛実基が「日が暮れて夕闇が迫っている。面々が断った上に時間がない。兄の為高が手練れと推薦したのだから早くしろ」と言ったので、与一は仕方がなく承諾した。

 与一の追い詰められた立場 

  与一の兄弟の多くは平氏方として源氏に敵対したまま。那須荘の領地があっても手柄を立てなければ、領地没収の可能性も高い。そして運よく扇の的を射ても領地安堵・加増につながるかは不明瞭。失敗すれば・・・・? まさに与一が扇の的を射るのは、命がけではあるが、まことに理不尽で馬鹿馬鹿しい。 これが那須与一の心情の背景ではなかろうか?