鶏合・壇の浦合戦

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主な登場人物

●熊野別当湛増?−? 熊野水軍を率いて活躍した熊野新宮別当。第18代熊野別当湛快の子。父湛快は平清盛腹心の家人であったが。湛増は源頼朝の挙兵後、形勢が源氏に傾くのを察知し、源氏支持に転じた。1181年(養和1)正月に湛増の従類が、平氏の拠点の一つとなっていた伊勢志摩に来襲、伊勢神宮に乱入し、山田・宇治両郷の人屋を焼失し資財を奪取している。85年(文治12月、湛増は源義経)に従って四国に渡り戦功があり、上総国(千葉県)畔蒜荘(あびるのしょう)を与えられている。

●平知盛:11521185 平清盛の四男。母は時子で平家総帥宗盛の同母弟。治承4(1180)年以後の諸国での源氏反乱の折は追討軍の大将として活躍し、寿永2(1183)年の都落ちののちは長門(山口県)の彦島に水軍の根拠地を置いて平氏最後の砦とした。元暦1(1184)2月の一の谷の戦ではの知章を失い、文治1(1185)3月の壇の浦の戦いでは平家総大将として臨み、壇之浦に入水した。

平宗盛:11471185 平清盛の三男。母は時子。治承3(1179)年の重盛死去後は、平氏の長者としてその中心に位置し、4年に以仁王の反乱が,続いて東国で源氏の反乱が起きると、父清盛を説得して都を福原から戻し、翌年1月には畿内近国の軍事組織である惣官職を設置して惣官となる。文治1(1185)3月の壇の浦の戦いで捕虜となり、鎌倉に送還されたのち、京都に送り返される途中で斬首された。『平家物語』は暗愚の武将と描くが、実像は不明。
●阿波民部成良:?−? 阿波の在庁官人粟田氏の一族。平家の有力家人で、清盛の命により大輪田泊の築港奉行を務め、日宋貿易の業務を担当。治承・寿永の乱が起こると軍兵を率いて上洛し、平重衡の南都焼討で先陣を務めた。寿永2年(1183年)7月の平氏の都落ち後、四国に戻って讃岐を制圧する。屋島での内裏造営を行い、四国の武士を取りまとめた。『平家物語』によると、四国志度合戦で息子の教能が義経に投降したことを契機に心は平家から離れ、壇之浦合戦の最中に平氏を裏切ったことで平氏の敗北を決定づけた。

 

<物語のあらすじ>

文治元年2月の八島合戦と志度合戦に勝利した源義経は四国を制圧し、先に周防から豊後にわたって九州を制圧していた兄範頼と合流。平家は長門国彦島に寄り、源氏は長門国おい津(満珠島)に寄り、源氏方には熊野水軍。四国の河野水軍も合流して源氏の船は3000余艘と平氏の船1000余艘を圧倒し、元暦2324日の卯の刻(午前6時頃)に豊前国門司赤間が関で矢合わせと決まったが、戦の前に梶原景時と源義経が先陣争いをし、同志戦をしそうになったが周囲の仲裁で収まった。源平両陣の距離はおよそ30余町(3.3キロ)。源氏の船は潮に逆らって進むので潮に押し戻され、平氏の船は潮に乗って戦った。平家の先陣山鹿勢は500の矢を一斉に放って進むので源氏の勢は押しやられ、平氏勝利かと見えた。

 

<聞きどころ>

     「鶏合・壇の浦合戦」は 「平家正節」では「鶏合」「壇の浦合戦」の二つの句に分けられている。「鶏合」は、前中後三つの部分に別れ、前半は熊野水軍と河野水軍が壇の浦で源氏方につくまでの次第を語り、中頃は合戦の日時が決まったところで義経と梶原景時が先陣を争って対立した次第を語り、最後に壇の浦合戦勃発のさまを語る。熊野湛増が源平のどちらにつくか迷って神の意志を聞く場面は「口説」で淡々と語られ、後半、熊野水軍と河野水軍が壇の浦に現われ、平氏の目の前で源氏方について平氏を落胆させる場面は、「拾」で軽快に語られる。 中頃の先陣争いの場面は、先陣争いの口論は「口説」で淡々と語られるが、義経と梶原双方が太刀に手をかけたところで「強下」に節が代り、義経方梶原方が互いに刀の鞘をはらって加勢して一触即発となった場面は「拾」で軽快に語られる。この雰囲気が一転し、三浦と土肥が仲裁に入って場面を収めるところではまず、「折声」で場面を転換させ、三浦・土肥の仲裁で場面が鎮まるところは「素声」で淡々と展開させる。最後 の元暦2324日の卯の刻(午前6時ごろ)の合戦勃発は、「口説」「強下」で始まりを告げ、「中音」の曲節を変えて壇の浦の潮の流れの速さが源平にそれぞれ有利不利に働くさまを朗々と語り、「呂」「拾上音」と節を変えて、先陣に立った梶原は潮の流れのはやい海峡を避けて岸近くの渚に舟を出し、潮に乗って目の前を通過する平氏の兵船を熊手で引き寄せえて乗り移り、この日の合戦の第一の功名を立てたことを語って終わる。 次の「壇の浦合戦」は、源平両方の鬨の声が天地を揺るがすさまを「口説」で語りだし、新中納言知盛の軍兵を鼓舞する悲壮な言葉を「折声」で、これに答えた飛騨三郎左衛門・悪七兵衛・越中次郎兵衛の言は「口説」でと曲節を替えてかたる。そして知盛が総大将宗盛に阿波民部は逆心ありと告げる場面は「素声」、宗盛が阿波民部に良く戦えと指示し知盛の民部切れとの提言を拒否した場面は「口説」⇒「強下」と節を変えて、知盛の無念さを表現。最後に平家一陣山鹿勢の奮戦で義経の奮戦にも関わらず源氏勢を劣勢に追い込むさまを「拾」で軽快に語って終わる。 

<参考>

 壇の浦合戦の冒頭を語る句だが、ここも脚色が多い。冒頭合戦の直前になって熊野水軍と河野水軍が源氏に合流して平氏を落胆させたと記すが、河野水軍は源氏反乱当初から源氏方について戦っており、熊野水軍も少なくとも義経の八島攻めには加わっているので、これらが源氏方についたのは壇之浦合戦のはるか以前だ。そして先陣を巡る義経と景時の対立は、景時が先に周防・九州を抑えた源範頼勢の中にいたことを考えれば、ここも先の「逆櫓」の項と同様に『平家物語』の脚色の可能性が高い。『平家物語』の中で最も古い形を残している『延慶本平家物語』には熊野水軍・河野水軍着到の記事はなく、義経と景時の先陣争い、さらには戦の場の潮流が平家有利で源氏不利であることの記述もなく、その潮流を避けて景時が流れの弱い岸近くに舟を寄せて、潮流にのって攻め寄せる平家方の兵船を熊手でかき寄せて船に乗り込み、平氏方を討って初手柄を立てたとの記述もない。

 これらはすべて語り物としての『平家物語』が円熟期に入った室町時代の譜本、『覚一本平家物語』と『120句本平家物語』で初めて語られた出来事である。