先帝御入水

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主な登場人物

●二位尼・平時子:11261185 堂上貴族平時信の娘。平清盛の妻。異母妹に後白河院后となって徳仁親王(後の高倉天皇)を生んだ建春門院平滋子がいる。久安元年(1145年)頃、清盛の後妻として迎えられ宗盛・知盛・重衡・徳子らを生み、応保1(1161)年徳仁親王の乳母となる。仁安3(1168)2月、夫清盛が病を得て出家した際に共に出家し、承安1(1171)年娘徳子が高倉天皇に入内したため従二位に叙せられ、二位尼と呼ばれる。養和1(1181)年清盛が没し、宗盛が家督を継いでからは一門の後見的立場にあった。文治1(1185)年、壇の浦で平家一門が滅亡したときは、敗戦を知るや率先して入水して果てた。

●安徳天皇:11781185 高倉天皇と平清盛の娘建礼門院徳子の第1皇子。諱は言仁。誕生の翌月128日親王宣下、1215日立太子と、高倉に始まる「平家王朝」を継ぐ親王として期待される。治承4(1180)年4月に高倉が言仁に譲位して院政を敷くに伴って3歳で即位したものの、翌治承5(1181)年1月に父高倉院の崩御に伴って祖父後白河院政が復活。以後後白河とも連携した源氏勢に追い立てられ、寿永2(1183)年平家の都落ちとともに西海に下り、文治1(1185)年源義経らの攻撃に屈し壇の浦で入水。

 

<物語のあらすじ>

      壇ノ浦での合戦は始めは平氏方優勢で進んだが、阿波民部重能率いる阿波水軍の裏切りによって形勢は逆転し、源氏の兵どもは平家の船に乗り移り、水手・梶取どもも射殺されて、平家の兵船は波間にただよった。新中納言知盛は安徳天皇の御座所なっている船に参って敗戦を告げ、二位の尼は神璽を脇に挟み宝剣を腰に差し、天皇を抱いて船端に立ち、「帝に真心をつくそうと思う人々は我に続け」と入水した。

 

 

<聞きどころ>

     「平家正節」の「先帝御入水」の冒頭はこの白旗が舞い降りる吉兆と平氏の兵船の下をイルカの群れがくぐるという平氏にとっての凶兆、そしてこれに呼応するようにして阿波民部重能が裏切り、平家大将軍の乗る唐船を攻撃するという場面転換を「口説」で淡々と語る。続いて阿波勢の裏切りに呼応して四国鎮西の兵どもが一斉に平氏に背いて挑みかかり、たちまち平氏方劣勢に移るさまを「中音」で朗々と語り(ここまで「覚一本」では「遠矢」)、勢いに乗った源氏の軍兵が平家の船に乗り移ったので水手・梶取が殺されて平家の兵船が波間に漂うさまを「折声」でおどろおどろしく語り終える。続いて知盛が御座舟に参って最後の時が来たと告げる場面を「素声」でサラッと語り、二位殿が神璽を脇にはさみ宝剣を腰に差して先帝を抱いて船端に立つさまを「口説」でと、平家勢最後の時を迎えた場面は淡々と語られる。続いてそのときの先帝安徳の様を「中音」⇒「折声」⇒「指声」と曲節を変えながら朗々と語り上げ、嫌がる先帝を二位尼が様々に宥めすかして波間に飛び込むまでの様を「口説」⇒「中音」と節を変えて朗々と語り、最後に先帝までも波間に消える悲しさを「三重」⇒「初重」で朗々と語り上げて終わる。

<参考>

   壇の浦合戦の史料は少なく、鎌倉幕府編纂の歴史書である『吾妻鏡』には壇ノ浦の戦いについては元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻(昼頃)に及んで平氏はついに敗北に傾いた」とのみ簡潔に記し、合戦の具体的状況は『平家物語』諸本によるしかない。

@   合戦の時刻
 合戦の時刻だが、諸本で異なる。
『玉葉』は午の刻(
12時ごろ)に始まり、申の刻(16時ごろ)に終わったと。
『延慶本平家』は源氏勢は「夜の曙」に壇の浦に寄せと記し、合戦の始まりも終了も時刻は記さない。
『源平盛衰記』も源氏勢壇の浦着到を「夜の東雲」と記し、合戦の始まりも終了も時刻は記さない。
『吾妻鑑』は始まりを記さず、合戦終了を「午の刻(昼頃)に及んで平氏は敗北に傾き終わった」と。
『覚一本平家』『120句本平家』は卯の刻(午前6時ごろ)矢合わせと記し、終了時刻は記さない。

  通常始まりは卯の刻とされ、終了を午の刻とするが、史料として最も信頼のおけるものは当時左大臣であった九条兼実の日記『玉葉』であり、元暦444日の条に都に届いた義経の注進状を引用し、「追討大将軍義経、さる夜飛脚を進めて(札を相副えて)申して曰く、去る324日午刻、長門国に於いて合戦、海上において合戦すと云々、午正よりほ時(日偏に甫:申の時)に到る、刈り取るものといい生け捕るの輩といい、その数を知らず・・・・・」と記しており、義経の注進状という一次史料を引用したもっとも信頼できるものだ。

 従って合戦は元暦2年3月24日の午の刻(12時ごろ)に始まり、申の時(午後4時ごろ)に終わったというのが事実であろう。

A   源氏形勢逆転の実際

  さらに源氏勢がいかにして勝ったかについては、『平家物語』諸本によるしかないが、合戦の初戦は先陣が矢を一斉に放って攻めこみ、義経の奮戦にも関わらず平家優勢であったとの認識は諸本で一致している。

A:阿波水軍裏切りの実際 

     『平家物語』諸本では、合戦の形勢逆転の契機が阿波民部率いる阿波水軍の裏切りにあったと記すが、『覚一本平家』や『120句本平家』は合戦の中での阿波水軍の位置やどう平家を攻撃したかは語られていない。阿波水軍はおとりの唐舟ではなく平家大将軍の乗る兵船を攻撃したとのみ記す。 最も古態を示す『延慶本平家』は四国勢は第二陣に控えていたと記し、戦の最中に戦わずに退き、やがて平家の大将軍の船を後ろから攻めたと記す。また『源平盛衰記』では陣立ての中での四国勢の位置は記さないが、途中戦を傍観、源氏優勢をみて平氏を攻撃と記している。

      したがって阿波水軍を中核とした四国勢は平家陣立ての第二陣に布陣していたが、第一陣の山鹿勢が勢いに乗って源氏勢を蹴散らし、第三陣の平家公達、第四陣の菊池原田勢も続いて赤間が関から壇の浦へと源氏勢を追い詰めて行った際に、四国勢はこれに続かず後ろに退いた位置にいて、頃合いをみて寝返って平氏勢、それもその中核の平家公達勢に後ろから襲い懸かったというのが実際の戦いで起きたことであろう。

     そしてこの四国勢の裏切りを契機にして前から源氏勢、後ろから四国勢に攻められた平氏勢は総崩れとなり、戦いを諦めた公達たちの多くが二位の尼や天皇と女たちとともに入水して果てたというのが戦いの結末だったのではないか。

B:潮の流れの実際

      そして戦いが午の刻に始まり申の刻に終わったのであれば、この瀬戸の海流の向きは、早朝は東から西向きだが、午前8時過ぎに西から東の流れに変わり、午後も3時過ぎになると再び東から西への流れに変わるものであることは確認されている。したがって午の刻の戦いの始まりには玄界灘から瀬戸内海へと流れる平氏有利な形であって、これが戦いの当初の平氏優勢の背景にあったことは想像に難くないが、潮の流れが瀬戸内海から玄界灘へと変化するのは午後3時ごろと見られているので、これは戦いが終わった申の刻の間近なので、潮流の変化が源氏逆転勝利の原因ではなく、先に見たように、四国勢の裏切りが原因で平氏勢総崩れが起きたのであり、潮流の変化は、この平氏勢総崩れの後と思われる。

      戦の当初の潮の流れが平氏有利であったことを記したのは『覚一本平家』と『120句本平家』であり、『延慶本平家』と『源平盛衰記』には潮の流れの記述はない。

      ここで興味深いのは平家諸本に共通する、源氏劣勢を覆す契機として記された、天から白旗が一流れ落ちてきて源氏の船の舳先におりた話と、その直後にイルカの大群が現われて平氏の兵船の下をくぐったとの話の存在だ。
 白旗は八幡大菩薩の神意を示すことだが、イルカの大群の話は何を示すものだろうか。
 イルカの大群が踵を返して源氏方に向かえば平氏にとって吉兆だが、このまま平氏の兵船の下をくぐれば平氏にとっては凶兆との小博士の予言が記されているが、これを潮の流れの変化を示したものと読み取ったのが、始めて壇の浦の潮流を記した『覚一本平家』と『120句本平家』であったのではないか。

      だからこの諸本では、『延慶本平家』と『源平盛衰記』では四国勢の裏切りで平家勢総崩れとなったことの象徴として記されているのを、四国勢裏切りの前に持ってきて、源氏形勢逆転の理由は海流の変化にあったとしたのではないだろうか。

      こうして多くの学者が信じている源氏の形勢逆転が、潮の流れの反転にあったとの「通説」を生み出す背景ができあがったものと思われる。 

      『延慶本平家』と『源平盛衰記』の記述で分かるように合戦場面の大部分は、潮流が西から東に流れる平氏有利の環境で行われたわけで、不利な状況の中で源氏が形勢逆転ができたのは、平氏水軍の中核の一つをなす阿波水軍らを裏切らせたことにあったのだ。潮流の変化はそのあとで起きたこと。勝敗の帰趨に潮流は関係なかったのだ。

      平家諸本での潮流の流れの記述に注目して比較すると興味深い事実が浮かび上がる。
 『延慶本』『源平盛衰記』は潮流の流れに注目していない。
 『覚一本』『120句本』は平氏は流れに乗り、源氏は流れに直面して押し流されると記す。
 『平家正節』は、源氏は流れに乗り、平氏は流れに直面して押し流されると『覚一本』の記述を逆に書き換えている。
 時代が新しくなるうちに、つまり長く語られているうちに潮流に注目が行き、室町の中頃の語りの盛期では源氏は流れに押し流される不利な状況でも勝った(だからこそ八幡大菩薩の神の恩寵が語られるわけだ)という実際と一致する認識に立ち至ったのだが、江戸時代の中頃の『平家正節』は合戦の当初から潮の流れは源氏優勢であったと書き換えてしまって、潮の流れの実際からかけ離れたものになっている。

      語っているうちに源氏不利という状況は無視されて最初から源氏有利で合戦が進んだと書き換えられ、この結果八幡大菩薩の神の恩寵という認識が宙に浮き、不利な潮の流れを逆手にとって戦の一番手柄を立てたという梶原景時の話すら宙に浮いている。

C:水手・梶取射殺の実際 

      多くの学者が採用している説に、義経が平氏方の兵船の水手・梶取を射殺せとの命令を出したことが源氏の形勢逆転の契機であったとある。しかしこれはどの史料にも描かれていない妄説で、『平家物語』諸本には、四国勢の裏切りで平氏勢が総崩れとなり、源氏の兵らが平氏の兵船に次々と乗り移り、その中で水手・梶取が射殺されたことで、平氏の兵船が波間を漂った、と記されただけである。

     『平家物語』は物語であって多くの事実とは異なる脚色がなされたものであるが、事壇の浦の合戦に関する限り、その合戦の開始と終わりの時刻以外は、話の骨格はかなり事実を反映したものであったことが分かる。合戦の次第を詳しく記した史料は確認できないので、実際に戦に参加して生き残った源平両方の武士、合戦で捕らわれた平氏方の女房らの証言に基づいて平家物語は作られたことを、この壇の浦合戦を巡る検討は示している。

<補足>一門総入水という行動の意味すること

  敗戦に伴って、安徳天皇・二位の尼を先頭にして、御所女房や武将らが次と次と入水し、三種の神器までもが水底に沈んだことは衝撃であった。おそらく攻めての大将義経や範頼にとっても予想外の事であったと思われる。
  彼らが鎌倉の頼朝、そして都の後白河法王から命じられていたことは、「主上と三種の神器を無事に都に戻せ」ということだったからだ。
  平家公達たちの入水に直面して、攻めての鎌倉勢は慌てて船を寄せ、熊手などを使って入水した人々や神器を引き上げようとした。しかし多くの女房たちや総大将の宗盛父子を引き上げることには成功し、三種の神器のうち、神璽と鏡も引き上げることには成功したものの、二位の尼に抱かれた安徳天皇と二位の尼が腰にさしたままの宝剣は、いくら探しても引き上げることすら叶わなかった。

 この一門入水という行動を決断したのは、「平家物語」の記述を読む限り、二位の尼平時子である。
 彼女は一門の政治的な総帥は息子宗盛に移ったとは言え、平家一門の家の男主人である清盛が亡くなったからには、二位の尼平時子こそが、平家一門の女主人として、一門の行動の最高決定者の地位にあったと思われる。

 明治以降の日本社会とは異なり、江戸時代までの女性の地位は諸外国に比べてもかなり高く、特に結婚して子供を産んだ女性は、家の女主人として、家のことに関しては、夫である家の男主人と並んで、大きな決定権を持っていた。従って家の大事なことを決めるに際しては、男主人と女主人が話し合って(これを「談合」と呼ぶ)決めていたいのだ。
 したがって男主人が亡くなった後は、未亡人である妻が女主人として家のことを最終決定していた。

 ついでの述べれば、女が夫の家に嫁ぐに際して持参した持参金は、あくまでの妻の財産である。夫は妻の財産である持参金を使う際には妻の承諾を必要とし、さらにもし二人が離婚することになれば、使った分も含めて、妻の持参金全部全額揃えて返金しなければならなかったのだ。

 江戸時代までの妻は、持参金という自分の財産を持つだけではなく、身分を越えて大概の家では、その家の日常生活を維持するための資金の処分権は妻が握り、その日常生活を維持するための資金をいくらにするかは、家の総収入を勘案したうえで、男主人と女主人の談合によって決まったのだ。

 以上が最近における女性学の成果である。

 この成果に鑑みて、壇の浦での二位の尼・平時子は、平家一門の女主人として、その行く末の在り方すら決める権限を持っていたと考えられる。
 だから彼女は、想像以上の敗戦を目にして、一門すべての入水自殺という決断を下したのだ。

  ではなぜ彼女はこのような決断を下したのだろうか?
  証拠はないが、これまでの状況を根拠にしての推論は可能である。

  三種の神器と天皇を帯しての一門入水という行動は、彼らを裏切った後白河法王への当てつけであり、死霊となった彼らは未来永劫後白河を呪ってやるという脅しでもあったと思われる。

  なぜなら、後白河は彼の息子が即位するまでの一時的な臨時の天皇であった。
  その後白河即位に対して兄の崇徳上皇が源氏平氏の武力を動員してクーデタを敢行したが(保元の乱)、この兵乱を鎮圧した功労者の一人が平清盛であった。
  そして後白河の息子が無事成人して即位したあと、後白河は王権行使を巡って息子と対立し、この二人の対立を背景として、後白河ー二条王権を実質的に握っていた藤原信西を排除して、後白河王権の実権を握ろうとしてクーデタを起こした(平治の乱)のが、先の乱平定の功労者の一人の源義朝と後白河の腹心の藤原信頼であった。彼らは清盛の熊野参詣という留守を狙って蜂起し、後白河も二条も共に幽閉して、王権を握ろうとしたのだ。このままでは後白河は彼らの操り人形に過ぎない。

 この危機を救ったのは熊野から急遽帰京し、郎等らの働きで軍勢を整えた平清盛であった。清盛の力で平治乱は平定され、後白河は操り人形となる危機を脱したのだ。
 そして乱の後、さらに後白河と二条の対立は深化したが、二条の急死に伴って、次の皇位を二条の息子の六条にするのか、後白河の最愛の第六皇子(最愛の妻・平滋子所生)にするのかの争いが起きたが、鍵を握っていた清盛は後白河指示に回り、六条の即位と後白河第六皇子の皇太子就任が実現し、その後六条は幼くして毒殺され、後白河第六皇子が即位して(高倉天皇)、無事後白河は、治天の君として院政を敷くことができたのだ。

 この高倉が成人して自身が政務をとるまでの間の後白河院政を支えたのが平清盛を頭とする平家一門であった。

 まさに後白河院政を支えたのは、清盛と同じく桓武平氏の出である平滋子所生の皇子(高倉)の存在と、平清盛一族の保有する武力であったのだ。

 ここまでの歴史を見るとき、後白河法皇の治世を支えたのが平氏一門であったといって過言ではない。

 この後白河ー平氏一門の蜜月の時期は長続きせず、高倉親政が始まり、高倉が父後白河と王権の行使をめぐって対立するや、それは後白河と平清盛の対立へと転化し、その果ては、高倉と清盛の娘徳子との間の第一皇子(安徳)即位と後白河幽閉による、高倉院政の開始に帰結する。

 この安徳即位と後白河幽閉を契機にして、このままでは自らの皇位は巡ってこないことを悟った後白河第二皇子の以仁王が「平家打倒」の令旨を諸国源氏に宛てて発信し、以仁王の蜂起そのものは失敗して王は死んだが、この令旨に呼応する諸国源氏の蜂起は全国化し、やがてこの怒涛のような流れは、木曽義仲による侵攻と平氏の都落ち、高倉第四皇子(後鳥羽)即位と後白河院政復活という形で、諸国源氏の武力を背景とした後白河と平氏の決定的な対立に到ってしまった。

 そして決定的であったのは、再び勢力を拡大して瀬戸内・西国を握り、摂津福原に陣を構えて、源氏勢に対抗して、再び都を陥れようとした平家に対して、後白河が和平を提案し、この和平協議の間には、源平両方兵を構えるなと命令したことであった。
 この命令を信じた平家方は兵を構えずにいたところ、源氏方は兵を動かして福原を三方から包囲して侵攻した。
 不意打ちを食らった平家は、多くの武将を討ち取られ、残りは船に乗って讃岐八島に逃げ延びるという結果になった。

 この讃岐八島に逃げた平家に対して、捕虜の重盛と三種神器交換との手紙(院宣と言われている)を出した後白河に対する宗盛の返答は、後白河の裏切りとなじるとともに、三種神器と安徳を返して欲しければ、法王自ら八島に来いという、強硬な拒否回答であったと「吾妻鑑」は記している。

 二位の尼・平時子の一門総入水という衝撃的行動の背景には、平家一門の恩を忘れ、平家をだまし討ちにした後白河法王への怨念が背景にあったものとおもわれる。

 そして彼らが生きて都に戻ったとしても、武将たちは皆打ち首となり、女房達は戦利品として源氏諸将に分配され、二位の尼らの高位の女性たちもまた、賓客として遇されるであろうが、その運命は勝者である後白河の手に握られ、安徳は確実に近い将来に毒殺されることは目に見えていた。

 こうして平家一門と安徳の将来が見える中で、安徳を擁した平家一門が三種神器を伴って水面の底に沈むことで、自らを死霊として怨霊として、裏切った後白河に対して未来永劫安穏な生活はないという、強い決意に基づいた行動だった可能性もあると思われる。