六代被斬

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主な登場人物

●六代:?―?平重盛の嫡男維盛と藤原成親の娘の嫡男。法名妙覚。三位禅師とも呼ばれる。寿永2(1183)年の平家の都落ちに同行せず都に残るが、元暦2(1185)年平家一門の滅亡後、源氏の探索により捕らえられる。文覚の尽力により助命され,出家。

●大納言局:1160−? 平維盛の正室。大納言藤原成親と藤原俊成の娘京極局の子。建春門院平滋子の女房として出仕し、新大納言と称される。13歳で15歳の平維盛の正室となり、承安3年(1173年)に六代を、2年後には女子を産む。維盛の死後、後白河院とも関係が深く、源頼朝との関係により頼朝の意向を朝廷に伝える役となった吉田経房と再婚。

●文覚:?−? 俗名遠藤盛遠。上西門院に仕える武士であったが、同僚の源渡の妻袈裟に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機で出家。空海を崇敬し、その旧跡である神護寺に住み、その復興に努めた。1173年(承安3)後白河法皇の御所法住寺殿を訪ね、神護寺興隆のために荘園の寄進を強請して伊豆に流され、そこで配流中の源頼朝に会った。1178年(治承2)許されて帰京したが、流されてのちも文覚は信仰の篤い法皇への敬愛の情を失わず、翌1179年、平清盛が法皇を幽閉したのを憤り、法皇の院宣を仲介して頼朝に挙兵を促したと「平家物語」は伝える。1183年(寿永2)法皇から紀伊国桛田荘(かせだのしょう)を寄進されたのをはじめとして、法皇や頼朝から寺領の寄進を受け、神護寺の復興に努力した。1190年(建久1)には神護寺の堂宇はほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。文覚はさらに空海の古跡である東寺の復興をも図り、1189年(文治5)播磨国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、1197年には諸堂の修造を終えた。しかし1192年に法皇が没し、1199年(正治1)に頼朝が没すると、文覚は後援者を失い、内大臣源通親の策謀で佐渡に流された。1202年(建仁2)許されて帰京したが、後鳥羽上皇の怒りを買い、翌1203年、さらに対馬に流され、やがて没した。

 

<物語のあらすじ>  

      平維盛の嫡男六代は母・妹・乳母とともに大覚寺の北の方菖蒲谷に隠れ住んでいたが、居場所を頼朝代官北条四郎時政の手のものに嗅ぎつけられ捕らわれの身に。乳母は高雄の聖文覚房に六代の命乞いをしたため、文覚は鎌倉の頼朝を訪ねて六代を預かる許しを得、処刑の間際に六代を救った(「六代」)。六代は145にもなったが、これを知った頼朝が文覚に六代は父の仇を狙ってはいないかと聞いたところ文覚は底も亡き不覚人ゆえ安心せよと保証。頼朝は我が一代の間は良いが子孫は知らぬと答えた。これを聞いた六代の母が六代に出家を勧めたので、六代は16にして出家、諸国修行の旅に出た。だが生き残った小松内大臣重盛の子・忠房は湯浅に立てこもったあと鎌倉に出頭して討たれ、同じく小松殿の子・土佐守宗実も左大臣藤原経宗の養子であったが追い出され、大仏聖俊乗房の下で出家したが、これも鎌倉に送られる途中食を絶って足柄山を越えたところで干死に。平知盛の子の知忠も乳人らが匿っていたが京都守護に見つかり自害。その他平家の侍大将で各地に潜伏していたものも全て処刑された。建久10115日に頼朝死去後に、六代を庇護した文覚は佐渡に流され、さらに上皇となっていた後鳥羽が承久3年に謀反を起こしたが敗れて隠岐に流された。このため三位禅師として高雄にて修行に励んでいた六代も召し取られ、田越川にて斬られた。ここにおいて平家の子孫は断絶した。

 

<聞きどころ>

「六代被斬」は、「覚一本平家」の記述を「正節」では、「忠房討たれ・宗実討たれ・知忠自害と平家郎等処刑」の部分を大胆に切り取って除外し、頼朝と文覚の六代についてのやり取り・母の心配・六代の出家を前半に置き、後半は後鳥羽院治世の有様・頼朝の死と文覚の謀反・承久の後鳥羽の乱と状況の急展開へと話を変え、最後にこのあおりを食らった六代が処刑される有様を語って終える、すっきりとした形に変えている。前半六代出家に到る場面は「口説」「素声」で淡々と語られるが、六代出家の場面は「素声」⇒「口説」⇒「三重」⇒「初重」⇒「初重中音」と印象的に節を変え、美しく語り上げる。その後後鳥羽の治世とその崩壊の場面転換を象徴するようにまず、後鳥羽の治世のおぞましさを「指声」⇒「折声」⇒「口説」と通常の節転換の逆を行く節回しで印象付け、隠岐に流された文覚が後鳥羽の運命の暗転を予言する様を「強下」でおどろおどろしく場語った後に、承久の後鳥羽の乱と隠岐への島流しで六代の運命が暗転した様を、「口説」⇒「強下」⇒「中音」と節を転換しながら語り終える。

 

<参考> 六代が庇護者である頼朝・文覚を失った後、承久の兵乱によって後鳥羽上皇らが流罪となったあとに捕らえられて処刑されたと「平家物語」諸本にはある。とりわけもっとも古態を示すと考えられている「延慶本平家」においては、第六巻の下の末尾に「六代御前被誅給事」と題して、諸国の山寺を巡って修行していた六代が文覚が流罪となったと聞いて高雄に戻ったところ捕らわれ、駿河国の千本松原にて斬られたと記す。その直前に「文学被流罪事」と題して、文覚が正治元年正月の頼朝の死の直後に後鳥羽に代って二の宮(後の後高倉院)を皇位につけようと画策して2月捕らわれ、佐渡へ流されたと記しているので、六代処刑はその直後という位置づけだ。また「覚一本平家」とほぼ同時代の「120句本平家」では、その最後の120句目を「断絶平家」と題して、「覚一本」の「六代被斬」とほぼ同じ内容の事を記し、最後に「それよりして平家の子孫は絶えにけり」と記して物語を終える。「覚一本平家」ともっとも大きく異なることは、六代処刑の場を鎌倉の六浦坂としていることだ。

 この「延慶本平家」と「120句本平家」が「六代被斬」をもって物語の最後としていることから、本来の「平家物語」は、「六代被斬」を最後としているものと考えられている。

六代処刑は歴史的事実ではない!

 物語にとって極めて重要な句なのだが、六代が斬られたという事実そのものは確認できない。 六代が斬られたということは、「平家物語」諸本と、後世に作られた年代記「鎌倉年代記裏書」や「武家年代記裏書」などや系図のみ。「鎌倉年代記」は1331年ごろ成立と考えられており「裏書」はその翌年書かれたとされている。また「武家年代記」は花園天皇を今上と記していることからその在位13081318年ごろに書かれたと考えられており、どちらも鎌倉時代の終わりから室町初期。頼朝の死(1199年)から数えれば、100年以上後の記録であり、史料価値は低く、結局六代が斬られたとは、多くの公卿の日記にもないし、幕府の歴史を記した「吾妻鑑」にも記されていない。

 また六代の動向をもっとも詳しく伝えるのは「吾妻鑑」であり、その記述は以下の通りだ。

1:文治元年(11851217日。「遍照寺奥の大覚寺北の菖蒲沢で維盛嫡男(字六代)を捕らえたが、神護寺の文覚上人が「わが弟子ゆえ、鎌倉に子細を知らせてその命が来るまで待てと北条につたえた」。

2:文治元年1224日。「文覚上人の弟子が飛脚として到来して申すには、その祖父重盛の芳心に免じて文覚に預ける。平家正統で少年と雖も許しがたいが、文覚上人の申し状ももっともなので暫く上人に預けるとの御書が北条に届いた」。

3:建久5年(1194421日。「故小松内府孫、維盛嫡男六代禅師、京都より参向。高雄上人文覚の書状を帯びてなり。偏に将軍の御恩によって命を長らえ、関東に対して巨悪を存ぜず出家遁世した由を因幡前司大江広元に伝えたと」。

4:建久5615日。将軍家(頼朝)六代禅師を招いて対面したもう。異心なくば、一寺の別当職に補すべき由を仰せられた」。

 「吾妻鑑」によれば、頼朝は六代の命をその祖父重盛が頼朝助命に奔走した芳心に免じて許して文覚上人に預け、さらに出家した六代が文覚の関東に異心なき旨を記した書状を帯びて鎌倉に来たると対面し、一寺の別当職にも補すと提案したということだ。「吾妻鑑」には六代が斬られたとの記事がない。

 また「平家物語」は六代が斬られたということで平家嫡流がすべて亡んだとするが、「覚一本平家」にも記されている重盛の子で左大臣・藤原経宗の猶子となっていた宗実が、処刑を恐れて東大寺の俊乗房・重源に帰依して出家したが、鎌倉へ送られる途中で食を絶って死んだと「平家物語」には記されている。

 しかし、この宗実の動静自身が後世に作られた伝説であり、「吾妻鑑」文治元年(1185年)1217日・26日の条によれば、平家滅亡後に北条時政の手勢に捕らえられたが、猶父・経宗が源頼朝に宗実の助命と身柄の引き渡しを求めて認められたと有るので、「平家物語」の宗実伝説は嘘で、「延慶本」が伝えているように、高野山に上って生蓮房となのり、念仏聖となったと考えられている。

 平家嫡流と雖も出家した宗実は許されたのだ。そもそも公卿や僧侶は、平家一門であっても命は取られず流罪に処せられ、のちに許されて公卿なら元の官職に復帰してさらに栄達し、僧侶であれば著名な僧になっている。そして女性はまったく処罰されず、清盛の娘たちもみな、その生をまっとうした。ということは、出家した六代もまた許されたことは「吾妻鑑」に記されたとおりで、この頼朝の決定が覆されて六代が頼朝死後に処刑されたとの確実な史料が現れない限り、六代はそのまま名もなき僧侶として一生を終えたというのが、事実であったと思われる(上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実』<上>p170参照)。 

「平家物語」諸本が記す、六代が斬られたという話は、物語作者の虚構とみなす外はない。

小松家はすでに平家嫡流ではない!

 資料の系図にあるように、たしかに六代は、清盛−重盛−維盛−六代となり、平家が都で出世した端緒を開いた正盛から数えれば六代目の嫡流と系図だけからは読める。
 しかし清盛の嫡男は、正妻(継室)の時子の生んだ宗盛であり、重盛の母も正妻だが、早くに亡くなており、重盛は長男ではあったが、その母の実家高階家も正六位相当で有力な貴族ではない。
 だが、清盛が父忠盛の跡を継ぎ、さらに保元・平治の乱を通じて立身出世を遂げていくに従って、父清盛とともに戦場に立って戦いを勝利に導いた長男・重盛は、父の立身出世に伴って出世し、
30歳の仁安2年(1167年)には従二位・権大納言に上り、東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下された。つまりこの時重盛は、清盛の後継者として、国家的軍事・警察権を正式に委任され、さらに丹後・越前を知行国として、経済的にも一門の中で優位にあった。そして翌年には清盛が病で出家・隠居すると、重盛が名実ともに平氏の棟梁となったのだ。また安元3年(1177年)には40歳にして左近衛大将・内大臣と高位に上った。
 だがここが重盛の頂点であり、前年の安元
2年(1176年)6月に、長男維盛と三男清経にその娘を妻として迎えていた大納言藤原成親(後白河法皇の有力廷臣)が平氏打倒を企てたとして流罪・刑死すると、後白河とのつながりを失った重盛の政界における力は失われ、平家棟梁の地位も弟の宗盛に奪われた。そして内大臣となった翌年病で辞任し、その翌年に42歳で死去した。

 諸国武士の反乱が広がった時平家棟梁として動いたのは宗盛であり、嫡流家は宗盛家であって、重盛亡き後の小松家は傍流となり、諸国武士反乱に際しては、小松家はその軍団を率いて常に最前線での戦いを強いられ、駿河富士川の合戦・越中砺波山の合戦敗北によってその軍団の中枢も失い、都落ちした平家が盛り返して摂津福原に陣を構えたときには、小松家当主であった資盛がその残った軍団を率いて迫りくる義経勢を摂津三草山で迎え撃ったが打ち破られ、小松家軍団そのものも解体された。

 六代の父維盛は重盛の長男ではあるが母は名も伝えられない官女で正妻ではない。重盛の正妻は三男清経らの母である藤原経子(中納言家成娘。成親妹)。次男資盛の母は二条院の内侍(下総守藤原親盛娘)で、重盛の嫡男は三男清経だ。維盛が相次ぐ敗戦で当主を退いたあと、重盛家当主は資盛であった。このとき維盛は戦に加わらずに讃岐八島におり、敗戦後にはその陣を抜け出して高野山に至り出家していた。平家が最後を迎えたとき、重盛の家である小松家は平家嫡流家ではなく、さらに六代の父である維盛も小松家当主ではなかったのだ。平家嫡流家は宗盛家であり、その軍団の長として戦ったのが知盛であり重衡であった。したがって壇の浦合戦の敗北により平家嫡流が亡びたというのであれば、それは宗盛とその嫡男清宗の死によってであり、さらにその軍団の長の重衡の死によってであった。

 平家滅亡をもって物語を終えるのであれば「大臣殿被斬」と「重衡被斬」の二句を最後とすべきなのであり、「平家物語」が史実に依拠して書かれたのなら、この二句が最後となるはずだ。

 「平家物語」では清盛が「悪人」なのは「天皇家に取って代わろうとした人物だからだ」と冒頭の「祇園精舎」で語り、その清盛の態度を終始批判し修正し来たのが、清盛の子息重盛であり、その重盛が死去したことで清盛は暴走して後白河を幽閉し、果てはその子孫は滅亡に追い込まれたとする。そして重盛の子・維盛も又父と同様に平家の滅亡を予見して、都落ちの際に西国に同道することを躊躇い、そして「一の谷合戦」以前からその滅亡を予感して病となり、「一の谷合戦」に加わらず、その敗北後は、八島の陣を抜け出して高野に上り出家し、那智の浦で入水したと描いた。

 「平家物語」作者にとって、重盛−維盛の流れこそ、清盛の暴走を諫め平家の滅亡を予見した人物として位置付けられていた。
 したがってその「予見」どおりに平家が壇の浦合戦で敗北して亡びた跡には、その「平家の滅亡を予見した」流れそのものの滅亡も又、描かれなければならなかったのだ。

 したがって維盛の嫡男たる六代もまた処刑されたことで、平家嫡流は滅び去ったと記さないと、物語の流れが終わらなかったのだ。

 「平家物語」の最後が「六代被斬」になっていること自体が作者の虚構である。

 だが実際には、清盛が支えた王家は、最初は後白河であり、次はその妻である平滋子所生の皇子=高倉天皇を支持して、この平家と結びついた高倉を廃位して、他の息子にすげかえようとした後白河を幽閉し、高倉王朝を、高倉ー安徳(高倉の妻・平徳子所生の皇子)へと継承させることで安泰としようと動いたのだ。
 もし高倉がわずか21歳で夭折せず、息子安徳が成人して親政を行えるまで上皇として後見していたならば、後白河に権力が戻ることはなく、平家もまた朝敵とされ滅ぼされることはなかったのだ。

 平清盛が天皇家をないがしろにし、それに取って代わろうとしたという「平家物語」の主張そのものが虚構だ。
 そして重盛が清盛の行動を批判したというのも作者の虚構で、良く知られた「殿下乗合」で摂政殿の行列に無礼を働いてその場で打ち据えられた平資盛の仕返しとして、摂政殿の行列を襲って辱めたのは、「平家物語」の描いたように清盛ではなく、事実は重盛であって、その重盛の暴走を諫めたのが父清盛であったというのが事実であるように、重盛の実際の立ち位置は、後白河に重用された平家「嫡流」との奢りから、しばしば他の公卿に対して暴走するものであり、彼が失脚したのは、彼が縁戚関係を深く結んでいた大納言成親が、後白河の意向を組んで平家打倒に動いたことが露見して流罪ー処刑されたことにより、その成親を通じて後白河腹心であった重盛自身の平家一門の中での権威喪失によるものであった。

 重盛−維盛の流れこそ平家一門の中で、「清盛批判派」であったという設定そのものも「平家物語」作者の虚構である。