座主流

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▼主な登場人物 

◆明雲:1115-1184 天台座主。六条・高倉・安徳天皇の護持僧。後白河法皇・平清盛の戒師。円融房ともいう。村上源氏の権大納言源顕通の子。梶井門跡最雲法親王の弟子。仁安2(1167)年に天台座主であった快修を追放して天台座主となる。安元3年の白山騒動に伴う山門強訴の張本とされて一旦は伊豆流罪とされたが、護送中に瀬田の辺りで延暦寺大衆に奪回された。一時は朝廷は武士等に命じて叡山焼き討ちを図ろうとしたが、平清盛によって後白河近臣の西光・成親らが捕縛されて処刑されたことにより、流罪の沙汰は沙汰止みとなり、明雲は大原に籠居した。治承3(1179)11月、清盛が院の近臣の官を解き院政を停止すると同時に、明雲は僧正に任じられ再び座主に就任、同4年四天王寺別当、養和1(1181)年白河六勝寺別当となり、同2年大僧正に任じられた。寿永2.11.19(1184.1.3) 後白河上皇の法住寺殿に参籠中に源義仲が御所を襲い、馬に乗って法住寺殿を脱出した明雲は義仲の兵の流れ矢に当たり没した。「平家の御持僧」(『愚管抄』)といわれて、清盛の信任厚く、内乱時に延暦寺の反平氏勢力を抑える役割を果たしたが、平氏の盛衰と運命を共にした。

<物語のあらすじ> 

治承元年5月5日、天台座主明雲は宮中の法会や講義に召される資格をはく奪され護持僧の資格も奪われた。これは、加賀国に座主の御坊領があったが国司師高がこれを停廃したことを恨んで衆徒に訴訟を起こさせ内裏に神輿を振り入れさせた張本だとの西光法師父子の讒奏による。明雲は座主を辞し、12日には検非違使を派遣して水と火の使用を禁じ、白河の里坊に幽閉。18日には公卿が参内してその罪科を定めた。左大弁藤原長方は「法家の勘定でも死罪一等を減じて遠流とある。明雲は法皇に菩薩浄戒を与えるなど公家や法皇の師であるから還俗させて遠流を減刑するのがしかるべき」と論じ多くの公卿もこれに賛同したが、法皇の憤りが深いのでなお遠流と定まる。前の太政大臣入道清盛も院参して意見を陳じようとしたが法皇に面会も断られ、明雲は還俗させられて遠流と定められた。21日、配所は伊豆国と定まり、この日のうちに都を追い出すべしとて、流罪の囚人を都の外に追い立てる検非違使の役人が前座主のいる白河の御坊(粟田口青蓮院)に向かい、都を出でて粟田口のほとりの一切経谷の御坊に入れた。山門の大衆は御敵西光父子の名を書いた札を金毘羅大将の足に踏ませて命を召せと呪詛。23日、 前座主は一切経谷の別所を出でて打ち出の浜を経て瀬田川河口の粟津まで向かった。山門の大衆は比叡山の東麓東坂本に降りた。

 

<聞きどころ>

「座主流」は巻の2の冒頭の句であり、一連の叡山訴訟におよぶ騒動の原因をすべて天台座主に帰して流罪に処するという後白河法皇の暴挙の次第を語り、この暴挙により清盛による後白河近臣団の排除という宮廷クーデタに至るものであるにもかかわらず、比較的淡々と決まった節回しで事態の推移を語るという形になっている。
 座主が罪を問われるまでは、「口説」⇒「下げ」で淡々と語り、続いて「中音」にて新たな天台座主が決まったことを語ったあと、再び「口説」⇒「下げ」で前座主の罪科を決める公卿会議に至るさまをさっと語り、「折声」⇒「指声」で前座主を重科に処することに反対する長方の言説を印象的に語ったあと、「口説」に移って流罪と決まるまでを淡々と語る。その後「中音」⇒「初重」の美しい節で明雲が天台座主に登るまでを語り始めて、「口説」⇒「初重」に戻ってここも淡々と語る。途中明雲が座主となったとき未来の座主の名を記したという巻物を見る場面だけ「峯声」で印象的にかたるだけ。
 続いて前座主が伊豆国へ流罪と決まりその日のうちに都の外粟田口まで移り山門の大衆は御仇西光父子の呪詛を始めたまでは、「素声」⇒「口説」でさらっと語る。
 節が美しく一変するのは別れを惜しんだ澄憲が粟津まで送った場面で「中音」⇒「初重」⇒「三重」で朗々と語る。
 最後に山門の大衆が前座主を取り返すか否かと詮議し山を下るまでは、「口説」⇒「下げ」⇒「中音」⇒「拾呂」⇒「下音」⇒「上音」と節を様々に変化させて印象的に語って
、大衆が山を下ってその先に何が起こるのだろうとの不安を「拾」の節で暗示しながら終える。

 

 

 <参考>

 

この話は、「玉葉」や「愚昧記」、そして「顕広王記」などの公卿の日記の記述、さらには鎌倉時代の法律書『清獬眼抄』に引用された「後清録記」という弁官の役人の日記の記述などに示された、実際に起きた事件とその経過に沿った形で「平家物語」には記されている。つまりこの物語は、これらの当時の公家の日記という一次史料に基づいて書かれているという事。

だがそれでも、「平家物語」作者による創作部分も挿入されている。

それは、明雲流罪が決まった時清盛入道が院参して流罪猶予を奏上しようとしたが風邪を理由に会うこともできなかったという部分だ。

この安元35月の明雲の罪状を決める陣定で明雲配流猶予となったが後白河の意向で流罪となったという事件は、「平家物語」では陣定を18日とし、後白河の意向で再度流罪となったのは21日としていて間に時間を入れているので、この間に清盛入道が院参して意見をいうことは可能なように設定しているが、実際の時間軸は、流罪猶予を決めた陣定が20日、そして後白河の意向で流罪と決めたのは21日のことだ。そして流罪を決めた当日にすぐさま検非違使に命じて都の外に移送している。

これでは清盛が院に抗議する時間の余裕もないし、陣定の決定順守を訴えて20日に院参したとしても、この日に清盛が福原から上京した形跡は、公家の記録には見当たらない。

清盛が座主流しに関して上京し院参した確実な日時は、「玉葉」で確認できる527日で、これは21日に前座主が叡山大衆に奪取されて叡山に移され、これに激怒した後白河法皇が武士たちに叡山焼き討ちを命じ、命じられて困った平重盛と宗盛が、福原の入道の意向を確かめてから返答するとした動きを受けてのことであった。

当時の資料で確認できる範囲では、清盛は座主明雲流罪の決定には、まったく関与していない。

この記事は、「源平盛衰記」や「源平闘擾録」が叡山の訴状を添えて、尚も朝廷が前座主流罪を強行しようとしていることに対して朝廷に訴えて訴訟を構えるに際して、叡山が深い関係にあった平清盛に仲介を頼んだという事実を踏まえ、のちに清盛が、叡山が座主を讒奏したと訴えていた西光を捕らえて処罰した事実から、清盛が座主流し事件の当初から関わっていたように装ったものだ。

なお「平家物語」に描かれた座主流罪は西光の讒奏だという話は、山門側の作り話。

実際「源平盛衰記」や「源平闘擾録」に記された西光讒奏の場面での西光の非難は座主に向けられたものではなく、山門大衆の行動を非難したものだし、座主を、公卿たちの流罪猶予の決定を蹴ってでも流罪としたのは、外でもない後白河法皇なのだから(「平家物語」も法皇の憤り深しと語る)、山門の非難の矛先は法皇に向けられるべきだが、そもそも山門存在の意義は、王法仏法の鎮護にあるため、直接王家のトップである後白河を非難するわけには行かないので、その最側近の西光法師が座主を讒奏したという形で朝廷に訴えたものと考えられている。

●「平盛衰記全釈14 巻5−1」名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第55巻第2号 2019年、松下健二著「明雲流罪事件の再検討」学習院大学人文科学研究所「人文14号」2015年刊 などを参照。

 24年3月17日の会で質問が出た。
 なぜ明雲を護送した人たちは逢坂の関を越えて近江に出て、すぐそこから船に乗って琵琶湖を渡って行くという道を取らなかったのか。ここで語られた道ではまさしく比叡山の麓を行くわけだから、山門大衆が前座主を奪い取りやすいところだ。この道を行かねばならない定めがあったのかと。

 この道を護送使がとった理由は二つ考えられる。
 一つは東国への遠流だから、都を出てその東の逢坂の関を越えたところが「関の東」つまり広い意味での東国なので、ここを通って東国に遠流するのが定めであった可能性が高い。後に流罪となった文覚上人の場合も、逢坂の関を越えて近江に至り、さらに鈴鹿の関を越えて伊勢に出て、安濃津から船で伊豆に渡っている。
 もう一つは法王の命令でわざと比叡山山麓を巡った可能性だ。「愚昧記」によるとすでに5月16日に大衆が明雲を奪取しようとすれば構わず首を切れとの院の命令が出ているとのこと。つまり比叡山山麓を護送の列が通ることでわざと山門大衆に襲わせ、前座主を殺し、叡山の荘園を根こそぎ奪おうとの思惑が後白河法王にはあった可能性が高い。実際23日に大衆に前座主を奪い返されて後、武士に命じて東西坂本を封鎖して叡山攻めを画策すると同時に、叡山の僧綱を派遣して大衆に前座主を戻せと要求するとともに、「玉葉」によれば、5月28日 叡山とその末寺の荘園を諸国司に命じてこれを注進せしめた。これはこの荘園を停廃のためか?  と記され、後白河はあくまでも叡山と事を構えた後に、その荘園を奪い取ろうとしていた可能性が高い。座主の流罪は、このための呼び餌とも言える。

 以上のようにお答えした。