一行阿闍梨

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▼主な登場人物 

●一行禅師:683727 中国の唐代中期の僧で、真言宗の伝持八祖の一人。俗姓は張、名は遂。諡(おくりな)は大慧(だいえ)禅師。一行阿闍梨(あじゃり)とも呼ばれる。生れは、魏州の昌楽(河南省南楽県)とも、鉅鹿(きょろく)(河北省鉅鹿県)ともいわれる。禅・天台・戒律のほかに道教にも通じ、唐の第九代皇帝・玄宗の帰依を受けた。またインド僧善無畏(ぜんむい)・金剛智(こんごうち)から密教を学び、善無畏の『大日経』7巻の翻訳の手助けをし、その注釈書『大日経疏』20巻を撰述。算法・暦法にもくわしく『大衍暦(たいえんれき)』52巻を作成した。この『大衍暦』は、日本でも 764(天平宝字 8)から90余年使用されている。

<物語のあらすじ> 

十禅師権現の前で詮議した大衆は粟津まで向かって前座主を取り返すことに決し、 その雲霞の如くの有様に追立の検非違使の役人は皆逃げ散ってしまった。国分寺にいた前座主を輿に載せて山に向かおうとするが前座主は「草鞋を履いて歩いて上る。皆供をせよ」と拒否したが、西塔の住侶・戒浄坊の阿闍梨祐慶に睨まれ「そのような気弱なお心だからこのような目に会う。はやく輿に乗り給え」と言われて急ぎ輿に乗った。大講堂の前に前座主の輿を据えて大衆は勅勘を被って流罪となった人をまた貫主にするには如何にすべきかを詮議したが、戒浄坊の阿闍梨祐慶が「我その張本とされて禁獄・流罪さらには首をはねられようとも今生の面目冥途の思いでなり」貫主の罪を免ずるため戦おうと宣言されるや、一同これに決した。大衆は前座主を東塔の南谷・妙光坊に入れ奉り「昔大唐の一行阿闍梨は玄宗皇帝の護持僧であったが楊貴妃との浮名が立ったのを咎められ果羅国へ流罪となった。しかし無実の罪によって遠流の重課を被ることを天が憐れんで九曜の形を現じて一行阿闍梨を護った」との故事を挙げて、真言の九曜の曼荼羅こそこれなりと、前座主を護り通すことを大衆は誓った。

<聞きどころ>

「一行阿闍梨」もまた三つの段に分かれる。

 最初の十禅師権現前での大衆の詮議の場。基本は「口説」で淡々と語るが、瑞相を見せよとの祈りに応じて十禅師権現が童に取りついて示現するところは、権現のご託宣は「折声」⇒「指声」で印象的に語り、さらに衆徒が示現を疑いそれぞれが投げ入れる数珠をみな元の持ち主に戻せと祈ると、「中音」で権現が乗り移った童がその数珠を次々と戻すさまを朗々と語り、権現の示現に喜んだ大衆が次々と粟津に発向する様を「初重」で重々しく語って、雲霞の如くに押し掛ける大衆に警固の検非違使も逃げ惑うさまを「三重」で朗々と語って終わる。

 二段目の国分寺での前座主と大衆のやり取り。ここも「口説」「素声」で淡々と話を順に語っていくが、途中山へ戻ろうとの大衆の要求に前座主が応える場面は「折声」⇒「口説」⇒「初重」⇒「素声」と次々と節を替えて印象的に語る。さらに尚も説得を受け入れない前座主に対して戒浄坊の阿闍梨祐慶の登場場面は「口説」で武装した彼の姿を淡々と語ったあと、阿闍梨が前座主を睨みつけて「そのような弱い心だから難に会うのだ」と怒鳴りつける様を、「強下」⇒「剛声」⇒「口説」との節の変化で印象的に語った後、「強下」で驚いた前座主があわてて輿に乗るさまを語った後、そのまま「拾」に移って戒浄坊の阿闍梨祐慶を先頭に皆をして一気に山上へ輿を掻き揚げるさまを語り通す。

 三段目の山上の大講堂の前での今後の詮議の様は、冒頭詮議に入った様を「口説」で語ったあと、またも戒浄坊の阿闍梨祐慶が登場して詮議を先導する様を「下げ」⇒「折声」⇒「口説」⇒「拾」と立て続けに節を替えて、「たとい禁獄・流罪・斬首となるとも本望だ。前座主の無実の罪をすすごう」との祐慶の呼びかけを一息に語り、この呼びかけに大衆が同心したであろうとの思いを余韻を残して語り終える。そして「大唐の一行阿闍梨が無実の罪で流罪となったおり、天が憐れんで九曜の形を現じて一行阿闍梨を護った」との故事を、「口説」⇒「三重」で朗々と印象的に語り終え、最後に真言の本尊こそこの九曜星であるから前座主を守り通すとの決意を「初重」で重々しく語って終える。

 

  <参考> 

 この話も当時の公家の日記などの諸記録による事実経過をほぼ同じである。

 ただし叡山大衆が近江国分寺に至った前座主一行に追いついた際に、「平家物語」では前座主を護送していたのは検非違使の二人の役人たちとその配下だけとしているが、当時の記録(清原季光日記の「後清録記」)によると「国兵士五六騎」がいたと書かれており、さらに「玉葉」では頼政の異形の郎等二人とも記されている。これは前座主配流先とされた伊豆国の知行国主である源頼政の郎等と知行している伊豆国の兵士なのだが、この護衛の兵たちを物語から削除したところが事実と異なる。

 「玉葉」によると朝廷から前座主を守護すべく国兵士を多数出せと命じられたが、山門の大衆の乱行を恐れて出さず、異形の郎等二名などを出したにすぎす、この弱腰が大衆による前座主奪回を許したと朝廷から指弾された(玉葉安元三年五月二十三日の条)という。

 おそらく頼政は山門側に同情的であり、山門大衆と事を構えるのを避けるために、わざと小勢での警備に留めたものと思われる。

 「平家物語」は前座主警固に頼政勢がついたとの事実を削除し、413日の山門強訴にたいして頼政が御所の北門を守護していたが、大衆との激突を避けるために、東門を多勢で護る平重盛勢を突破するように大衆を説得したとの作り話を出している(「神輿振」)。

 これは後に見るように頼政は以仁王を担いで高倉−平家王朝に反旗を翻すのだが、こうした政権におもねらない気骨の武将という姿を「平家物語」は採用したからに他ならない。

 なお一行阿闍梨が楊貴妃との関係を疑われて流罪となったというのは事実ではなく、中国の記録にはまったくない。第一、二人は同時代と言っても年齢の差が大きく、一行が亡くなったときの楊貴妃の年齢が9才で二人が密かに関係を持ったなどありえないからだ。

 また「覚一本平家物語」や、もっとも古い形と考えられる「延慶本平家物語」での一行阿闍梨説話の形は、不思議な形をしている。

 ここで取り上げられた「一行」という唐の聖人は、天台座主明雲になぞらえられて二人ともに無実の罪で流罪となったもので、一行が天の采配によってその命を守られたように、明雲もまた守られるであろうという寓意を込めたものであることはあきらかだ。

 だが二つの平家物語双方ともに、「座主流し」の最後に明雲が叡山大衆によって奪取されて山に戻されたあとにこの話が挿入され、一行が天の采配で守られているしるしとして「九曜」の形が現じたと語って、これが真言の本尊たる九曜の曼荼羅だと語って突然話を閉じてしまっている。

 実はここは「源平盛衰記」での一行阿闍梨説話の形と比較すると良く理解できる。

 「源平盛衰記」では一行の無実が明らかとなったとき、彼を讒奏した者が捕らえられて処罰されたとの話を語って終わっているのだ。

 つまり「一行阿闍梨」の説話は最後に一行を讒奏した者が捕らえられて処罰されるものだったので、本来の「座主流」の形は、明雲流罪も「これを画策した」と叡山が主張する西光法師が清盛に捕らえられて斬首されて流罪の沙汰はなくなるのだが、「座主流し」の最後に「一行阿闍梨説話」を挿入したのは、明雲もやがて「一行」のように、彼を讒奏した者が捕らえられて処罰され、流罪が沙汰止みになるだろうと、次の段「西光被斬」を暗示して終わる形なのだ。

 しかし「延慶本平家物語」では、「一行阿闍梨説話」は人々に良く知られているものと判断して最後の一行の讒奏者が捕らえられて処罰され、一行が許されたという部分を省略した形で語り、「覚一本平家物語」でもこの形は踏襲されたが、「源平盛衰記」の作者は、この部分を省略したのでは話がつながりにくいと判断して、一行の讒奏者処罰の話を復活させたものと思われる。

 なおこの説話は日本で生まれた可能性が高い。平家物語より少し前の文治4(1088)年書写の高山寺蔵の「宿曜占文抄」や「宝物集」にはすでに一行が火羅国に流されたとの説話があり、これらを参考にして「平家物語」が一行説話を創作したものと思われる。

 そして「一行」は唐でも有名な高僧で、彼の死後に、彼が様々な予言をしたとの説話が作られているように人々に人気の高僧だったので、日本でも人気の高僧となり、彼が楊貴妃と関係して流罪となったという和製の説話は、人々に大いに広まったものと思われる。

(●松下健二著 「一行阿闍梨」は明雲の隠喩か:延慶本「平家物語」を読み直す 学習院大学人文科学研究所「人文15号」2016年刊参照)