西光被切
24.5.15改定/5.19追加

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▼主な登場人物(主人公である清盛と後白河は除く)

◆藤原成親:保延4(1138)〜安元3.7.9(1177.8.4)。中納言藤原家成の息子。父の中納言家成が富裕な受領であり、鳥羽院の寵臣であった関係から、若くして後白河近臣となる。また父家成の下に平清盛が通って出世した関係で、平氏とも関係が深く、成親の妹は清盛嫡男の重盛に嫁ぐ。『愚管抄』に「フヤウノ若殿上人ニテ有ケル」と評される美貌を持ち、後白河院の寵愛を受けて昇進を重ね、頭中将を経て仁安1(1166)年公卿に列せられ、安元1(1175)年正二位権大納言に至る。しかし出世欲が強く、平治の乱(1159年)では藤原信頼に与同し解官され、妹婿平重盛のとりなしで許され、応保1(1161)年には平時忠らが謀った憲仁親王(のちの高倉天皇)立太子事件に関わり解官された後許され、また嘉応1(1169)年成親の知行国尾張の目代藤原政友が山門(延暦寺)領美濃国平野荘の神人を凌轢するという事件を起こし、延暦寺の訴えにより解官、備中国に配流されたが、これも後白河院の強力な保護により復任されるなど、浮き沈みが激しい人物である。安元36月清盛に捕縛され備前国へ配流後解官。7月配流先で殺される。

◆西光:生年不詳〜治承1(1177)。俗名藤原師光、もとは阿波国(徳島県)の在庁官人。信西(藤原通憲)の乳母子で、院北面の武士で左衛門尉に至る。平治の乱での信西死去に伴い出家するも、以後も院の倉預を勤め、後白河法皇第一の近臣と称された。治承1(1177)年、子の加賀守師高・目代近藤師経が加賀国の天台座主の荘園を停止したことから、延暦寺との間に紛争となり、国司師高が流罪となったのに対し、西光は法皇に讒訴して天台座主明雲を流罪に処すなど反撃して騒動を起こした清盛に捕縛され斬首。この当時は六位ではあるが無官。

◆平康頼:生没年不詳。明法道(法律)の家柄である信濃権守中原頼季の子。若くして平保盛(平清盛の甥)の家人となり目を掛けられ平姓を許される。仁安元年12月(11671月)に尾張国司となった保盛の目代として尾張に赴任し、平治の乱で敗死した源義朝の墓を守る寺を建てるなどして注目され、後白河院近習に抜擢され、北面の武士として上皇に仕える。美声であり上皇から今様を習うなどして目を掛けられ、検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、平判官と称した。

◆俊寛:生没年不詳。村上源氏右大臣源顕房の曾孫(村上天皇七世の孫)。父の木寺法印寛雅の跡を襲い仁安(116669)ごろから法勝寺執行として膨大な法勝寺領を管掌  し、院関係の仏事を勤め、長く後白河院の近臣を勤めた。母は宰相局(摂津源氏源国房の娘で八条院ワ子内親王の乳母)で姉妹には大納言局(八条院女房で平頼盛の妻)がいるなど、鳥羽―近衛流王統にも近く、平氏にも近い人物。

 <物語のあらすじ> 

 安元元年12月(11761月)に加賀国司となった近藤師高は在任中に加賀国にあった比叡山延暦寺の荘園などを次々と奪い取り、比叡山末寺の白山権現と騒動を起こした(「鵜川軍」)。このため叡山の大衆は加賀守師高を流罪、目代近藤師経を獄に繋げと要求したが朝廷は聞き入れず(「願立」)、大衆は安元三年413日(1177年5月12日)に神輿を連ねて内裏に強訴に及んだ(「御輿振」)が、宮門を守る平重盛の兵に矢を射かけられて大勢が射殺され御輿に矢があたり、大衆は御輿を捨てて逃げ帰る。叡山の神罰を恐れた朝廷は加賀守を流罪として目代を禁獄とし、御輿に矢を射かけた武士たちを獄に入れた(「内裏炎上」)。荘園争いは叡山の勝利に終わったかと思えたが、院近臣西光らは逆襲に転じ、天台座主明雲は「加賀国にあった座主御坊領を廃止されたことを恨みに思って大衆らを扇動して朝廷に強訴させた」と後白河に訴え、座主の資格をはく奪し処罰すべしとした。朝廷の議定は反対論が強く紛糾したが後白河院の怒りが収まらず、結局座主を罷免され伊豆国へ流罪ときまる。山門の大衆は衆議を行い先座主取り戻すべきと決し、山を下りて護送の検非違使の兵を追い散らして奪還してしまう(「座主流」「一行阿闍梨」)。
 安元3年
521日、叡山の大衆が先座主を取り戻したことに怒った後白河に対して西光は、厳罰あるべし、座主を戻さなければ叡山を攻めるべきと進言し、成親ら近習は叡山攻めを決定し武士の動員に入った。この状況を見て、平家打倒の主力と期待された多田行綱は謀反が早晩もれ処罰されると考えて、その前に自ら訴えてしまえと決心し、安元3年5月29日の夜遅く、京の西八条にある清盛館を尋ね、法王が叡山を攻めるとして兵を集めているのは、実は平家打倒の謀議の結果だと暴露してしまう。怒った清盛は、翌61日の早朝に院御所に使者を出し、「院近臣らが平家一門打倒の謀議を行ったと聞く、法王はこの企てに加わらないように」と申し入れさせ、直ちに兵を動かして院近臣の捕縛に動いた。まず新大納言成親の館に使者を送り「打ち合わせたい」と申し入れ、「叡山攻め中止の話」と思って参上した成親を一室に押し込め、その後、謀議に参加した院近臣らを次々に捕縛。西光は逮捕されると直感して院御所に参上する途上で捕縛され、西八条の清盛邸に連行された。清盛は怒りに身を震わせ、西光の顔を靴を履いたまま踏みつけにして「そなたら下郎をお上が召し使われることがおかしい。罪のない天台座主を流罪に貶め、さらに平家一門を滅ぼそうと企てるとは」と罵ると、西光は「そなたこそ下郎ではないか。殿上の交わりを嫌われた人の息子でありながら太政大臣まで上るとは過分である」と逆襲した。清盛は西光を厳しく詮議して自白させた後斬首し、一味を悉く召し取って、西光の息子・加賀守近藤師高・目代近藤師経・左衛門尉師平や郎党らを死罪に処した。

 <聞きどころ>

 

「西光被切」は三つの段に別れる。
 最初は後白河の怒りに呼応して成親以下の近習が山門攻めを決定するまで。基本は「口説」で淡々と語られるが、途中西光が山門への厳罰を進言した場面は、「強下」⇒「中音」という印象的な節回しで、山王権現の神慮も憚らず讒臣はこうして王者の判断を誤ったほうに導くものだと、朗々と語り、朝廷が山攻めを決定したことで大衆の中にもこれに呼応するものがあるとも聞こえて前座主は心細く過ごしたが「流罪の沙汰はなかった」とさらっと語り終える。
 第二段は成親の平家打倒の陰謀が多田蔵人によって清盛に通報される場面だが、多田蔵人の不安を「口説」で淡々と語り、西八条に参って案内を乞う場面だけを「強下」でおどろおどろしく語って次の場面に期待させ、これへの清盛の対応は「素声」で素っ気なくさらっと語り終えてしまう。そして入道が筑後守貞能を召して謀反人を討つべく一門に触れまわせと「口説」でさらっと語ったあと、右大将宗盛以下の軍勢がはせ集まるさまを「強下」⇒「拾」でテンポよく語り上げる。
 第三段は翌
61日に後白河近臣が次々と取り押さえられる場面。
 
冒頭院の御所に使いを出して上皇の動きを抑えつつその意向を探る場面は「口説」でさらっと静かに語り終え、そのまままず成親卿を西八条に呼び出し小部屋に押し込むまでも淡々と「口説」で語るのだが、その時の成親卿一行のきらびやかな様だけを「中音」で朗々と歌い上げ、大納言が小部屋に押し込まれその供の者たちは牛や車を打ち捨てて逃げかえるさまを「強下」でおどろおどろしくかたって場面を一転させ、「折声」で多くの近習たちが捕らえられたことをつげ、一転場面を変えて、捕らわれると思い急ぎ院御所に参上しようとした西光が途中軍兵に押しとどめられて馬から引きずりおろされ縛られて西八条に連行される様を、「指声」⇒「口説」でさらっと語り終え、そのまま入道相国が西光を縁の際に引き据えさせて履物を履いたままその顔を踏みつけ、その罪状を並べ挙げるさまを、そのまま節を変えずに「口説」でさっと語り、顔色も変えずにそれに反論する西光の様を、「強下」⇒「素声」で、ここもさらっと語り終えてしまう。そして西光が松浦太郎重俊の拷問により様々白状させられた後に五条西朱雀で切られたこと、嫡子師高も配流先の尾張で斬られたこと、さらに禁獄中の次男師経やその弟師平や郎等らも次々と六条河原で斬られたことを「口説」でさっと語った後、「強下」⇒「中音」と節を一転させて最後にこれらは山王権現の神罰だと朗々と語って終える。

 <参考>

この話は、「平家物語」作者による創作部分の多い語りであることが、「玉葉」や「愚昧記」、そして「顕広王記」などの公卿の日記の記述、さらには鎌倉時代の法律書『清獬眼抄』に引用された「後清録記」という検非違使の役人の日記の記述などに示された、実際に起きた事件とその経過と比較してみると良くわかる。

★諸史料による事件の経過(※以下は出典史料)。太字は平家物語がカットした事実
川合康「鹿ケ谷事件」考2012年立命館大学人文学会編「立命館文学」624号:における「鹿ケ谷事件」事実経過の一覧を加除訂正)

520日 明雲罪状を決める陣定(還俗・流罪の猶予)※『玉葉』安元三年五月二十・二十一日条

521日 院は明雲伊豆配流を決定

  ※『顕広王記』安元三年五月二十一日条、『愚昧記』安元三年五月二十一日条。

522日 夜院は源頼政に国兵士を付けるよう要求したが頼政は異形の郎等二人しかつけなかった ※『玉葉』安元三年五月二十三日条。

523日 明雲配流。両送使と国兵士五、六騎で京を出発。※『清獬眼抄』所収『後清録記』安元三年五月二十三日条

     叡山大衆2000人が近江国分寺中路で待ち構え明雲を比叡山に連れ去った。※『顕広王記』安元三年五月二十三日条、『玉葉』安元三年五月二十三日条。

     上皇逆鱗。※『百練抄』安元三年五月二十三日条には「上皇逆鱗」とある。

    頼政を召して叱責 ※『玉葉』安元三年五月二十三日条。

    源兼綱・多田行綱に大衆を追わせたが途中で引き返してきた

  ※『清獬眼抄』所収『後清録記』安元三年五月二十三日条 『百練抄』安元三年五月二十三日条

    延暦寺に武力攻撃の意思を固め  ※『玉葉』安元三年五月二十三日条。

    重盛・宗盛に東西坂本に出陣を命じたが、両人とも「先可下仰入道(平清盛)、随其左右之由、両人被遁申一」と、福原の清盛の意向にしたがうと述べて兵を動かさなかった。

    ※『顕広王記』安元三年五月二十四日条。

524日朝 宇平内左衛を御使として福原に遣わした ※『顕広王記』安元三年五月二十四日条。

527日 夜清盛が入洛  ※『玉葉』安元三年五月二十七日条。

528日 叡山とその末寺の荘園諸国司に命じてこれを注進せしめた。これはこの荘園を停廃のためか? 僧綱をもって登山せしめ明雲を差し出すべき由を伝えさせた。院と清盛が対面 東西坂本を固めて延暦寺に武力攻撃をかけることを合意 清盛は「内心不悦」。

    ※『玉葉』安元三年五月二十九日条(人伝云)。

529日夜半清盛は西光を搦めとる

  ※『顕広王記』安元三年五月二十九日条。『玉葉』安元三年六月一日条。

61日 権大納言成親捕縛

  ※『玉葉』安元三年六月一日条。『顕広王記』安元三年六月一日条、

 閑院内裏を始め洛中に軍兵が満ち溢れさらに多くの「院近習者」が処罰されるとの憶測が流れる

 ★武士洛中に満ち禁裏に雲集す。ただし院中は寂莫と云々(『玉葉』安元三年六月一日条)。

62日未明 西光五条坊門朱雀で斬首 成親は備前国へ配流 左大将重盛平に申請と云々。

 ※『愚昧記』安元三年六月二日条、『顕広王記』安元三年六月二日条、『玉葉』安元三年六月二日条。

 ★あるいは言う、西光尋問せらる間、入道相国を危ぶむべきの由、法皇および近臣ら謀議せしむるの由承伏し、またその議定に預かった人々の交名を注進と云々(『玉葉』安元三年六月二日条)。

63日夜 法勝寺執行俊寛・近江入道卜部基仲・山城守中原基兼・検非違使左衛門尉惟宗信房・同平資行・同平康頼の院近習六人を捕らえ、また木工頭平業房と式部大夫藤原章綱の二人も連行した。山城守中原基兼・左衛門少尉平佐行・平康頼・惟宗信房,以上四人任を解却せしむと云々(※『顕広王記』安元三年六月三日条。※『玉葉』安元三年六月四日条)。

 業房については院の再三の懇願によって放免 ※『玉葉』安元三年六月四日条。

  章綱はいったん放免したのち再び捕縛し拷問した。 ※『玉葉』安元三年六月六日条。

65日 内大臣左大将を辞すると云々。その息少将維盛を使いとなすと云々。 ※『玉葉』65日の条

66日 明雲の召喚宣旨が出される

 ※『愚昧記』安元三年六月六日条、『玉葉』安元三年六月十一日条。

69日 師高配所の尾張で殺される ※『百練抄』安元三年六月九日条。

618日 成親と子息成経らが正式に解官 ※『玉葉』安元三年六月十八日条。

 権大納言成親・左少将尾張守盛頼・右少将丹波守成経・越後守親實 ら四人の解官、今日宣旨が下された。また除目も行われた。

79日 成親は備前国で殺された

 ※『顕広王記』安元三年七月九日条、『百練抄』安元三年六月二日条。「顕広王記」安元三年七月九日条。

 

★暴走する後白河院政を停止した清盛の行為を平家打倒の陰謀に対する私怨の暴挙にすり替えた「平家物語」

諸史料によって事件の経過を見ると、清盛が西光・大納言成親を捕縛した背景には、後白河の命令に従って彼らが比叡山延暦寺を攻めようと動いたことが直接の原因だとはっきりわかります。

だが「平家物語」は、上の経過の中の太字部分を削除し、特に「523日に重盛宗盛に比叡山攻めを命令したが福原の清盛の意見を聞かないうちは返答できないと言われ、後白河が福原の清盛に使いをだし、その結果清盛が528日に院と対面し、叡山攻めを不承不承承知して下がった」、この部分を全面カットして、ここに鹿ケ谷の陰謀にて平家打倒の主力とされた多田行綱が露見を怖れて、先に清盛に平家打倒の陰謀がある旨を暴露、このため清盛は院近臣の捕縛に動いたという話を挿入したので、「物語」では清盛による院近臣の捕縛・処罰は私怨による制裁とされてしまった。

この鹿ケ谷陰謀の件は後の歴史書である慈円の『愚管抄』に初めて出てくる話で、「玉葉」6月2日の条に西光が平家打倒の陰謀があったと白状したとの記述が(情報源不明で)なされ、のちに610日の条に「西光の白状は真実」との記事もあるが、ここでも根拠が示されないので事実とは確認できない。

むしろこの清盛による院近臣捕縛の動きが横暴を極める後白河院政を止めるために行われたという事実を隠し、「平家打倒」の陰謀が露見した故に、この陰謀に参画した院近臣を捕縛したという筋書きに替えるために「平家物語」作者もしくは「愚管抄」作者の慈円が「鹿ケ谷事件」を創作したと考えるほうが妥当だと思う。

★何の権限があって清盛は院近臣捕縛と処罰を行えたのか?
−浮かび上がる天皇の命に基づく院近臣捕縛ー

また、「平家物語」のこの事件の記述を読むと、大きな疑問がわいてくる。
 それは、無官とは言え院近臣の西光を勝手に捕縛して首を切らせ、同時に尾張に流罪となっていたその息子前加賀国司近藤師高や獄に繋がれていた同じく息子の前加賀国司目代の師経らをかってに死罪としたばかりか、同じく院近臣大納言成親らを次々と捕縛して流罪にしたという「平家物語」の記述を信用すると、どういう権限があって清盛はこのようなことを出来たのかが疑問となるからだ。

通常罪ある者を捕縛するに際しては、この権限を持つ検非違使庁の役人が捕縛に動き、その罪人が官位などを持つ場合には、院宣や宣旨という最高権力者の命令があって行われ、さらにその罪科の決定は、公卿たちの合議体である陣定で行われるというのが通常だ。

だが「平家物語」の記述ではこのような法に従った手続きはまったくなされていない。

この清盛の権限がどこに根拠があったのか。

左大臣九条兼実(事件当時は右大臣)の日記『玉葉』を調べてみると、彼も清盛の行動を聞いて同様な疑問に思ったようで、院や天皇に近いものにこの点を問いただしている。

その答えは、

@    6月4日の条:院近臣の捕縛を記したあとで

 大夫史隆職(たかもと)が伝えるには、3日夜仰せ下さるることあり。上卿は源大納言定房、職事頭権中将光能朝臣、停任のこと行わるという。

と記した。この記事は院近臣の捕縛と位官停止は上からの命令(天皇の宣旨)が下され、その上卿と執行官が任命されたということを示している。

この記述に続けて「件事入道申院、自院以親宗御教書、仰遣光能朝臣、被催上卿之所」と兼実は記す。現代語訳をすると「この件は入道が院に申し上げて、院の御教書が親宗によって出され、光能朝臣に上卿をするよう仰せ遣わされた」と。そしてこれに続けて、「(光能は)皆悉く障りを申し(上卿となることをしぶり)て、暁に及んで定房卿が出仕してこれを行う」と記し、最初院の命令は親宗の御教書で光能が上卿で行えと命じられたが、光能はいろいろ障りを述べて動かず、明け方になって定房卿が上卿となって光能に実行させたと、院の命令がなかなか実行されないとの裏の事情を暴露している。

A    611日の条:読み下すと

「大夫史隆職来たりて言う(6日に明雲召喚宣旨が出た)俊寛僧都停任と云々。余問曰、成親卿は停任はなかった、これは如何かと。申して言う。これは禅門私の意趣によってその志を遂げた。すなわち停任せられず。自余の輩は「自上有御沙汰」と云々と。」

 6日に前座主明雲召喚の宣旨(天皇の命)が出たということと、俊寛僧都は停任になったということを大夫史隆職が報告に来たので、兼実が質問した。「成親(処罰のときには宣旨による)停任はなかった。俊寛らの時は(宣旨による)停任が行われた。この違いは何によるのか」と。これに対する大夫史隆職の答えが「成親(らの場合)は禅門の私の意趣によってその処罰が行われたので(宣旨による)停任は行われなかった。その他の者の場合は「上より御沙汰あり」」と答えた。

 

 同じ大夫史隆職の答えが64日の場合は「院の御教書」による「宣旨」であり、611日の場合は「上の沙汰」となっている。

 従来ここは川合康「鹿ケ谷事件」考におけるように、「院=上」で解釈され、清盛による院近臣捕縛・処罰は後白河院の承認を得て行われたと理解されてきたが、「上」という言葉は単に地位の上の人ではなく「上=おかみ=天皇」を意味する特殊用語だ。

 つまり大夫史隆職は清盛の院近臣の捕縛・処断は、成親(無官の西光も含むと思われる)の場合は清盛の「私の意趣」で勝手に行われたが、他の院の近臣捕縛・処罰は、64日の段階では「院の御教書」による「宣旨」の発行によって行われ、院の承認の下に行われたと認識していたが、11日の段階では「御教書」も「宣旨」もすべて高倉天皇の意志にによって行われたと、その認識を改めたということだろう。

 

 この「大夫史隆職」とは誰のことか。

 「大夫」とは五位の位階を持った人物という意味。

そして「史隆職」とは「史」つまり「左大史・左少史・右大史・右少史」の役所の役人で「隆職」の名を持った人物、おそらくは左大史でもあり兼実家の家司をつとめていた小槻隆職(おづきたかもと)のことと考えられている。

 左大史は、朝廷の書記官とでもいうべき「弁官」の下にある役所の中の左弁官局のトップを務める四等官。公文書の起草・記録・保管を役職とし、公卿が重要な決定を陣定で行うに際し、その法的根拠や先例を調べて決定案文を作成することを主な任務としていた。このため様々なことを公卿から相談される立場にあり、院の院宣や天皇の宣旨の起草も彼らの仕事であった。

 このため直接その任になくても同僚からこの場合の院近臣捕縛・処罰に関わる公文書作成の経緯と内容を知りえていたと思われる。

 

 この左大史小槻隆職にしても清盛の院近臣捕縛・処罰の動きは素早く、事態を正確に認識するには時間がかかったということであろう。

 64日の小槻隆職の認識は誤りであったが、事情通の彼が誤るには理由があった。御教書を書いた親宗とは権右中弁従四位下平親宗のことであり、右中弁すなわち朝廷の書記官である弁官の役人が上に代って御教書を発行し、その内容は、当時蔵人頭であった右中将正四位下藤原光能に対して院近臣を捕縛せよとの命令を上卿として出せというもの。だが光能がなかなか障りを盾に命令を受けないので、明け方になって大納言源定房が代って上卿となって命令を出し、光能はその命令を実際に執行する職事に任じられたのが実際に起きたことだ。弁官の高官が御教書を出して宣旨を出させたのだから、形式的にはこれは、高倉天皇の御教書による宣旨の発行なのだが、当時は後白河院政下にあったので、院の命令が天皇の命令の形式をとって発行されたと小槻隆職は、通常の例に則って理解し、院に清盛が伺いを立ててその命令を出してもらったと理解し、兼実に報告したわけだ。しかし上卿に指名された光能が渋ったのは、この命令が後白河院政をつぶすものであるからで、院近臣でもある光能が渋った所に、この御教書−宣旨の主体が高倉天皇にあったことを示していたが、64日の段階では小槻隆職はこのことに気が付かなかった。

 しかしその後の事件の推移を見れば、例えば木工頭平業房の場合は院の再三の懇願によって放免された(「玉葉」64日の条)し、式部大夫藤原章綱の場合は院の再三の懇願によっていったん放免したのち再び捕縛した(「玉葉」66日の条)例などを見れば、院近臣捕縛の宣旨は院の命令ではないことは明らかで、そうなればこれは院と並ぶ権威である高倉天皇の意志だと断じざるをえない。

 小槻隆職は611日の段階ではこのように事態を正しく把握して認識を変更し、俊寛僧都等の停任の報告に対する兼実の質問に、成親らの場合は清盛の私怨によったが、他の者の場合は「お上の命令」によったと報告をしたわけだ。 

 清盛の院近臣捕縛・処罰の動きは素早く、かつ隠密裏に行われたので、事態を正確に認識するには時間がかかったということであろう。

 ともかくも清盛による院近臣捕縛・処罰は彼の「平家打倒の陰謀」に対する「私怨」ではなく、高倉天皇の命を受けた上で、暴走する後白河院政を停止するためなされた行為であったと思われる。

 ただし院近臣の間で行われた諸決定の経緯は外部からは不明なので、まず非合法であるが院の最側近である西光法師を捕縛して(無官なので勝手に捕縛できる)拷問に処し、様々な事情を白状させて、その「自白」に基づいて、院近臣筆頭である大納言成親を捕縛して西光の自白の裏を取り、その後他の院近臣を捕縛し処分していったというのが実情ではなかったか。

 先の諸史料による事件の経過の中でも、『玉葉』安元三年六月一日条に「武士洛中に満ち禁裏に雲集す。ただし院中は寂莫と云々。」とあるように、武士は禁裏に雲集していたのであり、これは清盛の行動の背景には高倉天皇の命令があったことを暗示し、天皇が反対勢力に奪われないように軍勢が守護していたことを示している。

 しかし高倉天皇の宣旨によって院近臣の捕縛と処分が進められたがこれが天皇の意志によるとは一般には認識されないまま、618日の権大納言成親・左少将尾張守盛頼・右少将丹波守成経・越後守親實ら四人の解官で宣旨による首謀者の正式な処罰が行われ、この時すでに西光は斬首され(その子息らも)、成親らは配流先に護送され、すべては終わっていたのだ。

 おそらく多くの者が事態は高倉天皇による後白河院政の暴走への牽制と警告であったと、ここで初めて認識したのではなかったか。

 

 ★避けられた天皇と院との決定的対立−院近臣処罰を宣旨でなく清盛の私的処罰にした理由ー

 またこれは従来も指摘されていたことだが、院近臣の解官は宣旨つまり天皇の命令で行われているが、彼らの処分、つまり死罪・流罪などの処分に関する宣旨は一切出されてはおらず、彼の処分を定める陣定めも開かれてはいない。

 つまり院近臣の処分はすべて清盛の独断によって行われたのだ。

 ではなぜ処分が宣旨によって行われなかったのか。 

 ここは従来誰も説明していないが、清盛による院近臣の捕縛・処分が天皇の宣旨によってではなく、清盛の独断で行われたのは、これによって高倉天皇と後白河院の決定的な断絶を回避しようと清盛が考えたからではなかろうか。宣旨で院近臣の処罰が行われてしまえば、天皇の命で後白河院政そのものが否定されたことになるからだ。これを避けるために処分はすべて清盛が独断で行った。

 この安元36月の事件以後、朝政は後白河院・高倉天皇・関白藤原基房の連携で行われたことが、院近臣処分がすべて清盛の独断で行われたことの意味を明らかにしている。しかし院・天皇の共治の形を取ってはいたが、主導権は高倉天皇にあり、後白河院はしばしば都を離れて安芸厳島詣でや熊野詣でに明け暮れたことは、この事件以後事実上高倉天皇親政が始まったと認識できる。

 

 ★ではなぜ高倉天皇は父後白河法皇の院政停止に動いたのか?

この一連の加賀の荘園停止事件の少し前、安元2年(1176年)6月の平滋子の死去によって、後白河院と高倉天皇・平氏との関係は悪化の兆しを見せ始める。1023日、四条隆房が後白河院の第九皇子(後の道法法親王)(116 - 1214)−母:三条局 法印少僧都・仁操女)を抱えて参内、112日には平時忠も第十皇子(後の承仁法親王)(1169 - 1197):母:紀孝資女(遊女))を連れて参内し、2人とも高倉帝の猶子となった。九条兼実は「儲弐(皇太子)たるべきの器か」(『玉葉』1029日条)と憶測しているが、これは後白河院による高倉帝退位工作の一環と考えられる。

つまり安元2年9月に14歳となった高倉天皇は元服し、ここに親政を行える条件が整った。

この成人した天皇が院政を廃止して親政を行おうと動いたのではないか。

この事態を危惧した後白河は自身の第九・第十皇子を高倉の猶子として、子のない高倉に替えて彼らを即位させられる体制を整えて、高倉親政開始を牽制したのではないか。

安元36月の清盛による院近臣捕縛にいたる院と延暦寺の争いのきっかけとなった、加賀国における座主荘園の停止がいつであったかは不明だが、その一環とみられる国司による叡山末寺白山の荘園の管理者の館が襲われて焼かれ、山王権現に納められるべき税が横領された事件は、「平家物語」では白山末寺を国司が焼き討ちした事件として描かれているが、それは安元28月のこととして記されている。

この日時が正しければ、まさしく高倉天皇元服前後の話である。

ただし当時右大臣であった九条兼実がこの事実を知ったのは、叡山の神輿が内裏に強訴するとの話を聞いた安元33月になってからのことであり、高倉天皇もこの事件を知ったのは同様であったと思われる。

つまり院が強訴に対して武士に防禦させ結果として御輿に矢を射てしまい、国司を処罰しなければならなくなって、その報復として天台座主を流罪に処するという動きを横で見ていた高倉天皇が、自身をも退位させようと画策する父後白河院政に疑問を持ち、その停止を画策し、岳父に当たる清盛に相談していた。しかし清盛も後白河院政停止までは決断できなかったが、529日まさに院の命令で比叡山攻めが決行される事態に直面した清盛は、この高倉天皇の相談を奇貨として、院近臣捕縛・処罰⇒院政の事実上の停止へと動いたのではなかろうか。

「平家物語」は後白河院政の暴走は描きながらも、こことは断絶した形で、後白河と院近臣による経家打倒の陰謀(鹿ケ谷事件)をでっち上げ、その主力と目された多田行綱が露見を怖れてこれを清盛に暴露したので、清盛は直ちに私怨によって、院近臣捕縛・処罰に動いたと描き、平家による二度目の暴挙(一度目は嘉応2−1170年の殿下乗合事件)として物語を創作したものと思われる。

「西光被切」の話の大部分は「平家物語」作者の創作だったのだ。

ということはこの話を受けて次にくる「小教訓」の前提が崩れてしまうので、ここで平重盛が私怨によって院近臣を捕縛・死罪に処し、さらに後白河院までも攻め滅ぼそうとしている父清盛を諫めて阻止したという話自体もまた、「平家物語」作者による創作とならざるを得ない。

「源平盛衰記全釈16 巻5−3」名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第57巻第2号 2021年、川合康「鹿ケ谷事件」考:2012年立命館大学人文学会編「立命館文学」624号 などを参照。

★追加(24.5.19)

 今回二度目に「西光被切」を語っていて、不思議なことに気が付いた。
 それはこの句は全体としては、清盛が西光を捕らえて斬ったのは平家を滅ぼそうとする陰謀に加担したからとしているが、句の端々をよく見るとそうではなく、西光が罪もない天台座主を陥れ流罪に処したことが清盛が彼を処断した原因であるとする箇所がいくつも出てくる。冒頭の叡山大衆が先座主を取り戻したことに怒る後白河院に西光が「厳罰に処するべき」と言った場面では「山王権現の神罰がただちに下ることにも気が付かず身を滅ぼした」と断じ、清盛が捕縛した西光にその罪科を問う場面でも、西光が罪もない天台座主を陥れ流罪に処したことが悪行の主たることとして挙げられ、その付けたしのようにして「あまつさえ、当家滅ぼそうとする企てに加担」としている。さらに句の最後で西光斬首とその息子たちの処刑を語ったあと、彼らが滅びる原因を中音で朗々と語る場面でもまた、「西光が罪もない天台座主を陥れ流罪に処したこと」により山王権現の神罰が下ったとしている。
 「西光ら院近臣がが罪もない天台座主を陥れ流罪に処したこと」が原因で清盛が彼らを処断したことは、公家の日記で事実経過を確認すれば明らかで、「平家物語」は座主が取り返されたことに怒った法皇に叡山に厳罰をと西光が勧め、武士たちに叡山を攻めるべきとなったと語った後、物語は唐突に平家打倒の陰謀をあげ、その主力に擬せられた多田行綱の裏切りに話を移し、これを知った清盛が怒って院近臣を処断した方向に話を持って行っている。平家物語では、左右の大将である平重盛・宗盛に軍勢を催して東西坂本を固め叡山を攻めよとの命が下され、彼らが「まず父禅門の意見を聞いてほしい。我らはその意見にしたがう」と答えたので、法皇は福原の清盛に直ちに使いを出し、日を置かずに上洛して院御所に参った清盛を院が強引に叡山攻めを承諾させたという事実、そしてこの時清盛は内心納得していなかったという事実が、物語では完全に削除されている。
 であるのに、句の端々に清盛が院近臣を処断したのは、彼らの横暴とりわけ罪もない天台座主を陥れて流罪に処したことが原因だとの記述がでてくることが、とても不思議だ。
 この理由を考えているうちに、平家物語成立の謎が解けたように思う。
 清盛の院近臣処断が彼の悪行ではなく天皇の命で暴虐極まる院政を停止した善行と考えられ、さらにこの2年後の清盛による院押し込めと院近臣団の一斉流罪⇒高倉親政の発足も高倉の命に基づいたと考えられ、さらに物語の冒頭に平家悪行の始めとして記された殿下乗合事件。つまり重盛の嫡子資盛が摂政殿の行列に無礼を働いてその場で暴行を受け、この仕返しを清盛が行ったという事件も、公家の資料で経過を調べてみると、行列との出会いそのものが偶発的で、摂政側は暴力を振るった随身を重盛に差し出したが重盛は、当時の規則に従って受け取らず、検非違使に出頭させるという正しい処置をとり、仕返しを行ったのも重盛でも清盛でもなく、面目を失ったと考えた平家郎等の勝手な行動であったと捉えられるので、平家物語が平家の悪行として挙げた行為のすべて消えてしまう。
 この「西光被切」が事実どおりに描けば、暴走する後白河院政を止めた善行として語られることになり、平家物語全体も史実に則ればそのまま平家は善行を行ったのにも関わらず壇の浦で滅ぼされたという話に変わってしまう。そして逆に悪行が目立つのは後白河院の方である。
 と考えると物語の最後の小原御幸で後白河院が、平家の生き残りである建礼門院徳子に「わたしのわがままであなたの一族を滅ぼしてしまった」と謝るのは、平家と後白河院の物語全体の事実に沿った捉え方としてはとても正しい。
 つまり平家物語は最初は、平家の善行を讃え、にも関わらず滅ぼされた彼らの怨念を鎮めるものだったのではないか。
 こう捉えると平家が滅びた翌年に都を襲った大地震が平家の怨念の所業と捉えられて、天台座主慈円の下でこの怨念を鎮めるための大寺院が建立されたとき、ここで作られた最初の平家物語が平家の善行を讃えるもので、名称としては「治承寿永物語」というものであったのではないか。
 しかしのちにこの物語を平家の悪行を語たり、それを滅ぼした源氏将軍家を讃える物語に変更する必要が生じた。
 これはつまり源氏将軍家が作った鎌倉武士政権を後鳥羽上皇が滅ぼそうと動いて敗れ島流しにあった時だ。
 上皇の歌の師である慈円は「愚管抄」を著し、天皇家は武家に支えられてこそ存在するとして上皇の挙兵を諫め、天皇家をないがしろにした平家を滅ぼした源氏将軍家を讃えた。
 この「愚管抄」に示した歴史観を広めるためにすでに存在した「治承寿永物語」を平家の悪行を指弾し、源氏将軍家を讃える物語に替える必要が生じた。
 このとき最初の物語に平家の悪行の記述が挿入されたが、物語の細部までも一貫してこの視点で描くことをしなかったので、各所で語りに破綻が生じたままになった。
 そしてさらにこうしてできた平家悪行の物語、平家滅亡の物語としての「平家物語」が語り伝えられている中で、どんどん平家の悪行が誇張して語られ、さらにその悪行を戒める平家内部の善人として重盛が造形されて、今の形の平家物語が成立したのではないか。
 こういう平家物語成立の事情についての仮説が成立した。