西光被切

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▼主な登場人物(主人公である清盛と後白河は除く)

◆藤原成親:保延4(1138)〜治承1.7.9(1177.8.4)。中納言藤原家成の息子。父の中納言家成が富裕な受領であり、鳥羽院の寵臣であった関係から、若くして後白河近臣となる。また父家成の下に平清盛が通って出世した関係で、平氏とも関係が深く、成親の妹は清盛嫡男の重盛に嫁ぐ。『愚管抄』に「フヤウノ若殿上人ニテ有ケル」と評される美貌を持ち、後白河院の寵愛を受けて昇進を重ね、頭中将を経て仁安1(1166)年公卿に列せられ、安元1(1175)年正二位権大納言に至る。しかし出世欲が強く、平治の乱(1159年)では藤原信頼に与同し解官され、妹婿平重盛のとりなしで許され、応保1(1161)年には平時忠らが謀った憲仁親王(のちの高倉天皇)立太子事件に関わり解官された後許され、また嘉応1(1169)年成親の知行国尾張の目代藤原政友が山門(延暦寺)領美濃国平野荘の神人を凌轢するという事件を起こし、延暦寺の訴えにより解官、備中国に配流されたが、これも後白河院の強力な保護により復任されるなど、浮き沈みが激しい人物である。

◆西光:生年不詳〜治承1(1177)。俗名藤原師光、もとは阿波国(徳島県)の在庁官人。信西(藤原通憲)の乳母子で、院北面の武士で左衛門尉に至る。平治の乱での信西死去に伴い出家するも、以後も院の倉預を勤め、後白河法皇第一の近臣と称された。治承1(1177)年、子の加賀守師高・目代近藤師経が加賀国の天台座主の荘園を停止したことから、延暦寺との間に紛争となり、国司師高が流罪となったのに対し、西光は法皇に讒訴して天台座主明雲を流罪に処すなど反撃して騒動を起こした

◆平康頼:生没年不詳。明法道(法律)の家柄である信濃権守中原頼季の子。若くして平保盛(平清盛の甥)の家人となり目を掛けられ平姓を許される。仁安元年12月(11671月)に尾張国司となった保盛の目代として尾張に赴任し、平治の乱で敗死した源義朝の墓を守る寺を建てるなどして注目され、後白河院近習に抜擢され、北面の武士として上皇に仕える。美声であり上皇から今様を習うなどして目を掛けられ、検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、平判官と称した。

◆俊寛:生没年不詳。村上源氏右大臣源顕房の曾孫(村上天皇七世の孫)。父の木寺法印寛雅の跡を襲い仁安(116669)ごろから法勝寺執行として膨大な法勝寺領を管掌  し、院関係の仏事を勤め、長く後白河院の近臣を勤めた。母は宰相局(摂津源氏源国房の娘で八条院ワ子内親王の乳母)で姉妹には大納言局(八条院女房で平頼盛の妻)がいるなど、鳥羽―近衛流王統にも近く、平氏にも近い人物。

 <物語のあらすじ> 

 安元元年12月(11761月)に加賀国司となった近藤師高は在任中に加賀国にあった比叡山延暦寺の荘園などを次々と奪い取り、比叡山末寺の白山権現と騒動を起こした(「鵜川軍」)。このため叡山の大衆は加賀守師高を流罪、目代近藤師経を獄に繋げと要求したが朝廷は聞き入れず(「願立」)、大衆は安元三年413日(1177年5月12日)に神輿を連ねて内裏に強訴に及んだ(「御輿振」)が、宮門を守る平重盛の兵に矢を射かけられて大勢が射殺され御輿に矢があたり、大衆は御輿を捨てて逃げ帰る。叡山の神罰を恐れた朝廷は加賀守を流罪として目代を禁獄とし、御輿に矢を射かけた武士たちを獄に入れた(「内裏炎上」)。荘園争いは叡山の勝利に終わったかと思えたが、院近臣西光らは逆襲に転じ、天台座主明雲は「加賀国にあった座主御坊領を廃止されたことを恨みに思って大衆らを扇動して朝廷に強訴させた」と後白河に訴え、座主の資格をはく奪し処罰すべしとした。朝廷の議定は反対論が強く紛糾したが後白河院の怒りが収まらず、結局座主を罷免され伊豆国へ流罪ときまる。山門の大衆は衆議を行い先座主取り戻すべきと決し、山を下りて護送の検非違使の兵を追い散らして奪還してしまう(「座主流」「一行阿闍梨」)。

 叡山の大衆が先座主を取り戻したことに怒った後白河に対して西光は、厳罰あるべしと進言し、座主を戻さなければ叡山を攻めるべきと進言し、成親ら近習は叡山攻めを決定し武士の動員に入った。

 この状況を見て、平家打倒の主力と期待された多田行綱は謀反が早晩もれ処罰されると考えて、その前に自ら訴えてしまえと決心し、安元三年5月29日の夜遅く、京の西八条にある清盛館を尋ね、法王が叡山を攻めるとして兵を集めているのは、実は平家打倒の謀議の結果だと暴露してしまう。怒った清盛は、翌61日の早朝に院御所に使者を出し、「院近臣らが平家一門打倒の謀議を行ったと聞く、法王はこの企てに加わらないように」と申し入れさせ、直ちに兵を動かして院近臣の捕縛に動いた。まず新大納言成親の館に使者を送り「打ち合わせたい」と申し入れ、「叡山攻め中止の話」と思って参上した成親を一室に押し込め、その後、謀議に参加した院近臣らを次々に捕縛。西光は逮捕されると直感して院御所に参上する途上で捕縛され、西八条の清盛邸に連行された。清盛は怒りに身を震わせ、西光の顔を靴を履いたまま踏みつけにして「そなたら下郎をお上が召し使われることがおかしい。罪のない天台座主を流罪に貶め、さらに平家一門を滅ぼそうと企てるとは」と罵ると、西光は「そなたこそ下郎ではないか。殿上の交わりを嫌われた人の息子でありながら太政大臣まで上るとは過分である」と逆襲した。清盛は西光を厳しく詮議して自白させ、一味を悉く召し取って、西光の息子・加賀守近藤師高・目代近藤師経・左衛門尉師平や郎党らを死罪に処した。

 <聞きどころ>

   多田行綱が謀反を清盛に告げる場面や西光が清盛に悪口雑言を吐く場面は、それぞれ6ページにもおよぶ長い「素声」で語られ、新大納言成親が清盛邸に呼び出される場面なども淡々と「口説」で語られる。しかし「中音」の朗々とした語りや、「折声」「指声」など変化に富んだ語り口で飽きさせない。

 <参考>

 当時の公家の日記などで確認できることは、院近臣らの咎は「罪もない天台座主を流罪に処した」謀議である。そして事態の推移は、後白河らが叡山攻めを決定し武士らを動員した際に、衛門府を統括する大将である平重盛・宗盛は叡山攻めを命じられて、判断を当時福原に隠棲していた清盛に仰ぎ、急きょ上京した清盛は院に面会して叡山攻めを諌めた。しかし院の決意は固く、清盛は西八条の館に退出。平氏の兵が動いたのはその直後で、まず西光が首謀者として捕縛され、その自白によって一味が平氏打倒の謀議を行ってきたことが露見。翌日以後順次院近臣が捕縛されたという経緯であった。しかも多田行綱裏切りの話は公家の日記に全く見えず、この話を最初に記した文献は、天台座主慈円の『愚管抄』である。したがってこの院近臣を排除した話は、本来は院と院近臣の悪政を平家が処断した事件を、平氏横暴の事件に仕立て上げるために、一連の叡山との騒動の前に、「平氏打倒の鹿谷謀議」を造作して入れ、それを一味の多田行綱が後難を恐れて曝露したとの話に変えたとみられる。