小教訓

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▼主な登場人物 

●平重盛:11381179.9.2(治承3729)。清盛の嫡男で母は高階基章の娘。保元の乱(1156)では父に従い源為朝と戦って名を挙げ五位に叙せられ、平治の乱(1159)では源義朝のいる大内裏を攻めて戦功をあげ伊予守に任じられる。長寛1(1163)年には後白河上皇の蓮華王院造営の賞により公卿に列した。このころから後白河上皇の近臣となり,仁安2(1167)年には権大納言に出世するとともに、東国、西国の山賊・海賊追討を命じられた。これは諸国の軍事権を平氏が手中にしたことを意味するもので、その後の重盛は平氏の家督と院の近臣との立場にあって政界に重きをなした。嘉応2(1170)年の「殿下乗合事件」で子息資盛が関白藤原基房の従者に恥辱を受けると、その報復を行ったのは「玉葉」によると重盛であり、院近臣としての行動をよく物語っている。安元36月の「清盛のクーデタ」当時は内大臣で左大将を兼ねる重臣だったが、事件で後白河院政暴走の首謀者の一人とされ配流・殺害された権大納言藤原成親が妻の兄で嫡男維盛と三男清経の妻に成親の娘を迎えるなど縁が深かったため、左大将を辞任し、さらに翌々年治承3年には内大臣も辞して、7月病死した。

<物語のあらすじ> 

新大納言成親卿は一間に押し込められ、今にも命が失われるのかと恐れているところに、大きな足音とともに後ろの障子がさっと開けられ、怒りの形相の清盛と対面した。清盛は「そもそもそなたは平治の乱の折に死罪になる所を内府(重盛)の取り成しで助かった御恩を忘れて、何の遺恨あって我が一族を滅ぼそうとするのか。畜生の行いに等しい」と成親を非難し、成親が「人の讒言だ」と認めないと、西光の陳述書を取り寄せて自ら読み上げてその書を成親の顔にたたきつけ、腹心の部下経遠・兼康に命じて成親を庭に引き据えさせて拷問した。小松の内府ははるかに後になって牛車の後ろに子息権介少将維盛を乗せて、四五人の衛府の武人と随身に三人を召し連れただけで兵を一人も召さず、落ち着き払って西八条邸に参上。清盛の腹心平貞能が「これほどの大事に軍兵を召されず参上とは何事か」と問われると、「私事を天下の大事とはそれこそ何事ぞ」と返して、ただちに成親の押し込められた小部屋を見つけ、すがりつく成親に「私が参ったからには御命までは取らせません」と言い切り、父禅門の前に参上した。内府が言うには「院のご寵愛深き成親卿を死罪とすることは良くお考えあれ。都の外に出せば済むことだ。先年故少納言入道信西が執政の時、死罪を復活し、さらに宇治の悪左府頼長の遺体を堀出して実検せられたことなどはあまりに行きすぎたご処置であった。平治の時に信西の遺体を掘り起こして首をはねて大路を渡したことは、先の保元の処置が身に及んだと思われる。成親なんどはさせる恐ろしき朝敵とも思えず、もし死罪にすればこんどはこの禍が我等平氏に降りかからん。どうみても今夜首をはねることは慎むべきだ」というものであった。父の禅門も得心したのか、その夜の死罪は留められた。そして内府は中門の辺りにたむろす侍どもに、「入道の命があっても大納言の命を奪うことはならぬ」と申しおき、さらに「今朝経遠・兼康が大納言につれなく当たったことは残念だ。内府がこれを聞いてどう思うかも考えなかったのか」と釘を刺して退出した。大納言の供の者の急報を受けた中御門烏丸の大納言の宿所は大騒動となり、まず大納言の8歳になる男子と10歳になる女子とを隠すべく車に乗せ、北山の辺・雲林院にひとまず入れた。宿所に残った者たちは何をするでもなく、翌朝になると下人どもは賓客の座に集って舞い踊るなど、末世の様となってしまった。

 

<聞きどころ>

この句も「西光被切」と同様に、あまり節を変化させることなく、「口説」を中心として淡々と語る所に特徴がある。三つの段に別れる。

 最初は西八条の小部屋に捕らわれた新大納言のありさま。大納言の罪状を読み上げ最後は腹心の部下に庭に引き据えさせて拷問するという凄惨な場面なのだが語りは常に抑えられており、「口説」で清盛と大納言のやりとりを淡々と語り、拷問せよと命じられた経遠・兼康が大納言の耳にささやく場面で「初重」に節を変え、大納言が演技でおめき叫ぶさまを「三重」で中国の賢臣たちが次々と讒言によって罰せられていく様になぞらえながら、朗々と歌い上げ、最後に「初重」に替えて汗と涙にむせぶ大納言の様をかたって初段を終える。
 次の段は大納言を救うべく参上した内府の有様。
 ここも「口説」を中心に淡々と進行するが、内府が大納言を誅すべきではないと力説する場面だけは多用な節を使って印象的に語り上げる。
 院の寵臣は死罪とするのではなく都の外に出すだけで良いと「口説」で淡々と語った後節を一転し、「中音」⇒「初重」にて中古の無実の罪で流罪となった人々の例を語り、節をそこから雰囲気を一転させて「指声」⇒「折声」を使って急ぎ今夜命を取ることはないと訴え、最後に「素声」で保元・平治の処置の誤りを淡々と述べて、「口説」に移ってさせる朝敵でもないのだから死罪とすべきではないと語った後、判断を誤ると子々孫々に祟ると「折声」⇒「中音」で朗々と清盛を諭して禅門を思いとどまらせて終わる。そして西八条を退出する前に侍たちや特に経遠・兼康らに入道がさらに死罪に拘って命じてもそれに応じるなと釘をさす場面も「口説」でさらっと語り終える。
 最後の段は残された大納言家の有様。

 
ここは滅びゆく者への讃歌なのか、「中音」「初重」「三重」が多用され美しく語られるが、最後の大納言が捕らわれた翌朝になっての大納言邸のすさんだ投げやりとなった所従たちのありさまを「三重」で朗々と悲し気に歌い上げて終わる。

  <参考> 

 

 成親が捕縛された当日の重盛の動向については、古記録では確認できない。

『愚管抄』には次のように記される。

西八条の館の公卿の座に重盛・頼盛がいたところに、成親が「何事かお召しがあったので参りました」と訪れ、「退出いたしますときにゆっくりと御挨拶申し上げます」と言っていたところを、捕縛されてしまったので、驚いた重盛が成親を監禁する部屋を訪れ慰めたと。

しかしこの話は慈円による作り話と考えられる。すでに後白河の命で叡山討伐のために平家の諸兵が駆り集められ、それがそのまま院近臣捕縛に転用されたのだから、平家家督を継ぎ、近衛左大将でもある重盛が戦支度もせずに、西八条邸の対もしくは渡殿に設けられた公卿の座に着座しているわけがない。清盛を批判する立場と「平家物語」が記し、後に都落ちの際に平家から離脱する頼盛とが二人ともに戦支度もせずに公卿の座にいたというのはあまりに作為的である。

 むしろ523日に後白河院から叡山討伐を命じられた左右大将である重盛・宗盛は、福原の父清盛の意向次第と即答を避けたが、おそらく念のために、平家本拠である六波羅第にその軍勢の主なものを集めていただろう。したがって529日深夜に清盛が西光を捕らえさせて西八条邸に連行させ、さらに翌朝61日に大納言成親も西八条邸に招いて捕縛したときには、平家家督で左大将である重盛は、その弟で右大将である宗盛とともに、平家主力軍を率いて、本拠地六波羅にいた可能性が高い。
 清盛が西八条邸にて院近臣を捕縛拷問にかけたことは当時右大臣の九条兼実が日記「玉葉」に記している。清盛は隠居所である摂津福原から率いてきた腹心の部下からなる手勢を、別邸である西八条邸に入れ、ここを拠点に隠密裏に手勢を動かして院近臣を捕縛したのではなかろうか。

 「平家物語」が成親や西光など主だった院近臣を捕縛したあとになって西八条邸に重盛が平服で兵も連れずに参上したと記したのは、根拠としては、清盛が529日深夜に西光を捕らえて拷問し、翌61日早朝に成親も西八条邸に招いて捕縛した後、院近臣捕縛を聞いて重盛が六波羅から駆け付けたという事実に基づき、なおかつ清盛の後白河の権威をも無視しての行動に批判的な重盛という立場を強調するためにとった仮構であると思われる。

 そして先に見たように清盛が院近臣を、宣旨ではなく独断で捕縛し処罰したのは、暴走する後白河院政を停止し、高倉と後白河の共治を推進するためであったのだから、清盛が近臣捕縛の後に院の御所法住寺殿を攻めて院を捕縛すると意図するわけもなく、成親の死罪と院捕縛を断念させようとする重盛の「小教訓」でのパフォーマンスそのものが「平家物語」作者の創作だと思われる。

 

 確実な史料で確かめられる重盛の行動は、兼実の日記「玉葉」の62日の条に記された「左大将重盛平に申請と云々」と、65日の条に記された「内大臣左大将を辞すると云々。その息少将維盛を使いとなすと云々。」だけである。
 前者は重盛が、成親の備前配流が決まった時、赦免もしくは処罰するなら自分に預けよと平身低頭して懇願したということであり、後者はそれがならなかったために抗議として左大将を辞任したということを意味している。

 史書で確認できる重盛の行動は「平に申請」なのだから、「小教訓」が語るような、古今の例を引いて院近臣を処罰することの無益さを父清盛に偉そうに説教教訓を垂れるというものではありえない。むしろ次の句「少将乞請」における門脇中納言平教盛の行動こそ、実際に重盛がとった行動であった可能性が高い。配流先にせっせと物資を送ったということと合わせて。
●「源平盛衰記全釈16 巻5−3」名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第57巻第2号あんどを参照。