法王被流

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<物語のあらすじ>

 治承3年(1179年)閏729日。小松内大臣平重盛死去(42才)。ここに法王と平氏をつなぐ最後の絆が失われた(「医師問答」「無文」「金渡」)。その後福原に隠棲していた清盛は、治承3(1179)年1114日に数千騎の軍兵を率いて上京し、109日の除目で仁安元年(1166年)以来の平重盛の知行国・越前が没収されて院の分国となったことなどを非難し(「法印問答」)、16日には、関白・太政大臣以下の公卿・殿上人43人の官職を止め、多くの後白河院側近を流罪や解官して(「大臣流罪」)しまった。そして1120日。院の御所・法住寺殿を軍兵が取り囲み、法王は「すでに今後二度と政務に介入しないと誓ったのに何事か」と問うと、先右大将宗盛は「世が静まるまでの間、鳥羽殿へ遷幸せよとの父の禅門からの命である」と答え、直ちに法王は、法住寺殿から鳥羽殿に移された。その御遷幸のありさまは惨めで、公卿・殿上人は一人も供奉することを許されず、北面の武士で金行という力者法師一人だけが随行。法王の車の尻には法王の乳母・紀二位殿一人が乗っていた。鳥羽殿についても身の回りの世話をする者も一人もいなかったが、大膳大夫平信成一人が紛れていたので、法王は「今夜にも殺される」と思い、行水のための湯を沸かすことを信成に命じた。法王が一人鳥羽殿へ流されたことを聞いた静憲法印(少納言信西の子息)は清盛の西八条邸に行って鳥羽殿へ参殿したい旨を伝えた所許されたので直ちに鳥羽殿へ向かい食事などの世話をした。法印は法王に「何事にも限りあり。平家たのしみ栄えて20余年。去れども悪行法にすぎて、すでに滅びようとしている。諸神諸仏が君を御守護しているので、君の世は再びめぐり兇徒は水の泡となって消え失せるべし」と慰めた。高倉天皇は関白以下多くの臣下が流されただけではなく、法王までも鳥羽殿に押し込められた事態を嘆かれ、食事もとらず寝ることもせず、ただひたすら法王を守るための神事に勤しんだ。

 

<聞きどころ>

 「口説」「素声」「中音」を多用して淡々と事態の推移を語る。法王の御遷幸のありさまや鳥羽殿での法王のありさまは「中音」の節で美しく語られ、静憲法印が法王を慰める場面だけは「折声」「指声」の特殊な節回しを使って強調するが、最後は宮中で高倉天皇が法王の無事を祈るところが「中音」で美しく語られて句を締める。

 

<参考>

 この後白河法王押し込め事件の背景は、『平家物語』は、亡き重盛が年来の領国としてきた越前国が没収され院御領とされたことしか語っていない。しかし当時の公家の日記などに見られる両者の対立はこれだけではない。関白・近衛基実が没して後は、その妻で清盛の娘の盛子が管理していた摂関家領(白河殿領)の行方の問題があった。摂関家領を盛子が管理するのは遺児基通成人までの措置であったが、実質的にはまだ年若い盛子が管理するのではなく、父の平清盛が事実上摂関家領を管理していた。そして遺児基通成人の後は彼を藤原氏の氏長者として摂関家領を継承させて関白につけ、其の後見人としての清盛の発言権を強める目論見であったと思われる。しかしその盛子が重盛に先立つ7月17日に死去した。そこで清盛は、まだ成人していない基通に代わって盛子が准母となっていた高倉天皇へ摂関家領を移してしまった。高倉の権威にすがって自領を守ろうとしたのだ。この措置に怒った摂関家氏長者の松殿基房は事態を後白河法王に訴えた。院はこの所領争いに介入し、高倉天皇領となった摂関家領を院が管理することとし、院近臣・藤原兼盛が白河殿倉預に任じられて後白河院の管理下に入れてしまった。在位中の天皇の所領は院が管理するという権限を行使したのだ(以上『山槐記』『玉葉』などによる)。さらに109日の除目では、清盛の推薦する20歳の近衛基通ではなく、基房の子でわずか8歳の松殿師家が権中納言に任じられた。これは師家がいずれ氏長者となり、後白河院の管理下に入った摂関家領を継承することを意味した。法王がその強権を発動したのだ(以上『玉葉』『百錬抄』による)。こうして摂関家領を巡る争いは、高倉と後白河との争いともなった。関白以下の院近臣の処分は高倉天皇の宣命・詔書によって執行されており、この句の最後の天皇が法王の無事を祈ったという話は作り話の可能性がたかい。そして同じく、「故二条院は賢い王であったが、天子に父母なしと言って常に院の命を覆しておられたからだろうか、世を継ぐ正統な皇子も得られず、しかも二条院の跡を受けた六条院もまた跡継ぎもないまま御年13にてお隠れになった」との一節は、この法王押し込めは高倉の命によるもので、やがて高倉もそして後を継いだ安徳も早世して、この王統は亡びることを暗示したものである。