御産
▼主な登場人物 ◆平徳子:久寿2(1155)〜建保1.12.13(1214.1.25)。太政大臣平清盛と従二位平時子の娘。高倉天皇の元服に伴い、承安1(1171)年12月26日、後白河法王の猶子として高倉天皇の女御となる。翌年2月10日中宮。治承2(1178)年皇子(安徳天皇)誕生、4年皇子の即位により国母となる。文治1(1185)年3月24日壇の浦での一門滅亡時に入水するが助けられて京都に戻り剃髪。法名真如覚。その秋に大原寂光院に移り、一門の菩提を祈る。徳子の没年は所説あり。『平家物語』(覚一本)は建久2年(1191年)2月に没したとする。『皇代暦』『女院小伝』『女院記』などの記述から、建保元年(1213年)に生涯を閉じたとするのが通説。角田文衛は、建保元年(1213年)12月12日に殷富門院(亮子内親王)が絶入(気絶)した事実(『明月記』12月14日条)を徳子と取り違えたとし、同年の『明月記』に徳子死去の記述が全く見えないことから、『平家物語』の「延慶本」「四部本」の記述から、徳子は大原から法性寺(延慶本)もしくは法勝寺(四部本)の辺りに移り住み、承久の乱後の貞応2年(1223年)に亡くなったとする。
<物語のあらすじ> 承安1(1171)年12月26日に高倉女御として入内した徳子であったが、高倉の他の后は次々と皇女を生むが徳子には何年も懐妊の兆しさえなく周囲が気をもむ。ようやく入内6年を経て懐妊。治承2(1178)年11月12日の寅の刻(午前4時頃)から中宮が産気づいたとのことで、産所である六波羅池殿には、後白河法王を始めとして、関白・太政大臣以下の公卿・殿上人のほとんどが押しかけ、先例に従って非例の大赦があるとの専らの噂であった。小松の内大臣重盛は落ち着いたもので、すこし時を置いてから産所に御衣40領・銀剣7つ・御馬12疋などの祝いの品を持参して参上。安産・皇子誕生を祈願して、多くの高僧貴僧が様々な術法を駆使し、護摩の煙が御所に満ち打ち鳴らす鈴の音や修法の声が満ちて、いかなる怨霊も退散すると見えたが、一向に安産の気はなく中宮は陣痛に苦しむ。なすすべのない清盛・二位尼はただおろおろするばかり。しまいには法王までが自身で千手経を寝所の際で読み上げて怨霊退散を祈りだす。しかし法王の祈りの甲斐あってか、目出度く安産となり皇子誕生となった。皇子ご誕生との中宮亮重衡の声を聴いて、産所に集まる一同はどっと安堵の声をあげ、清盛はただただ嬉し泣き。小松内大臣重盛は落ち着き払って、皇子の枕元に金で鋳た銭99文を置いて長寿を祈り、災禍を払うために桑の弓・ヨモギの矢にて四方を射た。
<聞きどころ> 後白河法王を始め、関白太政大臣以下の公卿殿上人が産所にあつまって、いまかいまかと皇子誕生をまつ緊迫した場面が、「拾」を中心とした節で語られる。そして後白河自身が千手経を読み上げて怨霊退散を祈るくだりでは、怨霊退散を叫ぶ後白河の言葉を「折声」の特異な節回しで強調。皇子誕生後に内大臣重盛が皇子の長寿を願って枕元で祈る場面は「中音」で美しく語り、句を締める。
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