公卿揃
<物語のあらすじ> 親王の乳母には平時忠の妻・師佐殿が選ばれた。しかしこのお産にはいくつも異例のことがあった。まず法王自ら怨霊退散の加持祈祷を行ったこと。さらに皇子誕生の際には御殿の棟から甑(こしき)を南に落とす手はずになっていたのに間違って北に落とし、再度やり直したこと。さらに難産に直面して途方に暮れた入道相国のありさま(と一転して皇子誕生と聞いて嬉し泣きし、御所に戻る法王に砂金千両・富士の真綿二千両も進上する)。立派な振る舞いをしたのは小松の内大臣重盛で、不本意であったのは、妻を亡くしたばかりで大納言も右大将も辞していたために乳母にもなれなかった平宗盛。さらに不思議なことには親王の穢れを払うために宮中に呼ばれた陰陽師の一人が、雑踏の中を通ろうとして途中で靴を踏み抜かれ、さらに冠まで落として立ち往生したことがあった。だが皇子誕生を祝って六波羅を関白・太政大臣以下の公卿殿上人がこぞって駆けつけた(その名前を列挙)。 <聞きどころ> 「御産」の句で皇子誕生を控えた緊迫した場面を語り終えたあと、このお産には異例のことがあったことを、口説と素声を主体に淡々と語る。その後、皇子誕生の祝いのために六波羅を訪れた公卿の名前を「拾」の節で、一気に語り終える。 <参考> 後白河王統を引き継ぐ高倉に第一皇子が生まれた場面。これで後白河―高倉―言仁(安徳)と続く直系皇統が成立し、高倉・言仁(安徳)は平氏の血を引くこともあって、この皇統を、武家最大の勢力である平氏と関白・太政大臣以下の公卿殿上人がこぞって支える構造が生まれた。政局の安定した様が「御産」と「公卿揃」で描かれている。だがこの背後にはきな臭い流れも存在した。すでに成人した高倉と後白河との間には意見の齟齬が生じて、それが政治的対立に至っていた。しかも後白河と平氏を結びつけた絆である後白河后平滋子(建春門院)はすでに安元2年7月8日(1176年8月14日)に死去している。そして両者の対立は、延暦寺との間の荘園争いで法王とその側近らが武力を行使してでも座主を追い落としてその荘園を奪おうとしたのに対し、高倉の意を受けた平清盛が強権を発動して、院近臣の多くを捕縛して流罪(死罪)とした事件(1177年・治承元年「座主流」「西光被流」)に既に現れていた。しかも高倉には、言仁誕生以後に、相次いで平氏の血をひかない皇子が三人も誕生していた。坊門信隆の娘・藤原殖子を母に持つ第二皇子・守貞親王(後高倉院)(1179-1223)が言仁誕生の翌年に。同じ年には、平義輔の娘を母に持つ第三皇子・惟明親王(1179-1221)が、さらにその翌年には、藤原殖子を母にもつ第四皇子・尊成親王(後鳥羽天皇)(1180-1239)が次々と誕生していた。高倉と後白河の対立がさらに激化すれば、高倉(もしくは言仁)を引きずり降ろし、高倉の他の皇子に皇位を挿げ替える政治的激動すら生まれかねない状況だった。「公卿揃」の冒頭に記された異例の事態はそれを暗示する。
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