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 物語の背景

  治承四年(1180)2月21日、高倉上皇は一宮言仁親王に譲位。4月22日言仁親王即位(安徳帝)。この直後の428日、諸国源氏に対して後白河院第二宮以仁王の平氏追討令旨が発せられるが、この企ては直ちに熊野別当湛増の裏切りによって都に通報され、515日直ちに追討の兵が宮の御殿に発向された。辛くも逃げた宮は三井寺に入るも、この企てに比叡山延暦寺は味方せず、味方した南都の興福寺などの僧兵は発向に手間取り、宮と反乱の主力である摂津源氏源頼政勢と三井寺の衆徒は南都へ撤退。途中宇治平等院で追討軍に追いつかれ、激戦の末に頼政らは自刃、宮も南都逃亡の途中追っ手に追いつかれて殺害され、反乱は短期間で鎮圧された。「鵺」の段は、この反乱の顛末が語られ乱後の始末が終わったあとに出てくるもの。

物語の要旨

  以仁王の乱の主力である源頼政の来歴を述べ、高齢になってから四位となりさらに三位となった経過を、歌を詠んだことがきっかけだとの説明で語る。そして彼の主な事績として、二度の鵺退治を挙げる。一つは近衛天皇の時、主上は夜な夜なおびえ 給えるので、堀川天皇のときに主上が夜な夜なおびえ給わったとき、源氏将軍源義家が御殿の廊下に立って空中に向かって大きく弓の音を発てると主上の怯えが収まったとの先例に従って、源平両家の兵の中から頼政が選ばれ、見事に東三条の森のかたより立ち上って皇居の上を覆った黒雲の中に潜む化け物を退治したこと。この鵺に似た化け物は、頭は猿、胴体は虎、尻尾は蛇という、まさしく化け物であったと。さらに二つ目には、二条天皇の時にも同じようなことがあったので、またしても先例に任せて頼政が選ばれ、同じく東三条の森の方より立ち上って皇居の上を覆った黒雲の中に潜む鵺を射殺したとの話をあげる。この時の鵺は、文字通り鵺と呼ばれた鳥のようであった。さらにこの二つの事例に際しても、主上のお褒めに預かって御刀や御衣を賜る際に、直接頼政にこれらの品物を渡した公卿が、即興的に和歌の上の句を読んだのに対して、頼政はすぐさま当意即妙の下の句を返して喝采を浴びたとしるし、武芸に秀でていただけではなく、和歌の道にも秀で、武士なのに三位という公卿の地位まで上った頼政が、いかなる理由から反乱に加わって、その身も一族も、さらには以仁王までの失ったことは、意味のわからないことであると、物語の作者は嘆いて終る。

この物語の意図するもの

  この物語の中で頼政は、「昔より朝家に武士をおかるることは、逆反の物をしりぞけ、違勅の物をほろぼさんがためなり」との特徴的な言辞を述べる。つまり、武家とはそもそも王家の守りとして生まれたものであり、朝家に仇をなすものを討伐するのが生業であるとのべたのだ。そして、「かかる変化のものつかまつれと仰下さるること、いまだ承りそうらわず」と述べてこれは武士の仕事ではない一旦は拒否の姿勢を見せたが、勅命に逆らうわけにはいかないので、仕方がなく引き受けるが、「(あやしきものを)射損ずるものならば、この夜にあるべしとは思わざりけり」と、それでも名誉を重んじる武士としては、射損じた場合は首掻き切って自害する覚悟をのべ、もし一の矢で化け物を射損じた時は、二の矢で自分を推薦した公卿の首を射ぬくとの覚悟をもって、「南無八幡大菩薩と心のうちに祈念して、(矢を射る)」と神の御加護を祈念しながら矢を射たと、物語は語る。
「朝家への反乱討伐ではなく変化の物の退治に命を掛けざるをえない武士の悲哀が描かれる」句として多くの武士に愛された所以である。

  しかし、これは物語作者が物語の言外に込めて、聴衆である武士に対して、「武士は王家の守り」「王家あっての武士」という命題を囁くための仕掛けに過ぎない。この物語の真の意図は、「なぜ保元平治の乱において一貫して平清盛らとともに鳥羽・近衛・(後白河)・二条と続く王統を支え、清盛の推薦によって治承二年(11781224日に宿願の三位となり公卿に列する出世を遂げた源頼政がなぜこのような反乱に加担したのかという問い」に応えるところにある。
 その答えは、「変化のものから頼政が守った王は誰か?」。ここがポイントである。そしてそれは近衛と二条だ。
 ではこれが何を意味しているのだろうか?
 これは保元・平治の乱以来の戦乱の原因である王家分裂の様を直視しなければ、その意味はわからない。

王位をめぐる王朝分裂

  保元の乱(保元元年:1156年)の以前、近衛天皇が即位するに際して、王家の中に対立があった。それは王家一の人である鳥羽上皇と、その長子・崇徳天皇との間の対立である。
 鳥羽は崇徳の次には、自分の愛妾である美福門院の生んだ第九皇子を据えたいと考えたが、崇徳は自身の第一皇子を次に据えたいと望んでいた。そこで鳥羽は崇徳に、弟の 九の宮を次に即位させるが、それは皇太子として即位させると約束し、退位後の崇徳が王家一の人として院政を敷けるかのような約束を与えて崇徳を退位させ、 九の宮を即位させたが、約束を違えて皇太弟として即位させたため、王家一の人は相変わらず鳥羽であり、崇徳は院政を敷くことができなかった。
 しかしこの対立はすぐには表面化しなかった。なぜなら即位した九の宮(これが近衛)は病弱であり、妻との間に無事跡継ぎが生まれるかどうか不安だったからだ。
 そこで美福門院は、崇徳の一の宮を自身の養子にし、同時に鳥羽の第四宮(これが後白河)の一の宮をも養子として、近衛が万が一跡継ぎのないまま死んだ場合の、次の跡継ぎを用意したからだ。
 崇徳はこの自分の一の宮が近衛のあとに付くことに一縷の望みを託した。
 しかし、近衛が死の病の床についたとき、次の主上として鳥羽が指名したのは、鳥羽の四の宮で美福門院の養子となっていた宮の父親であった。なぜならば養子の宮はまだ13歳であり、即位などできる状態ではなかったからだ。そこで鳥羽と美福門院は、次の天皇の父親である鳥羽の四の宮を即位させたのだ。
 驚き悔しんだのは崇徳である。
 自身の一の宮即位の望みを絶たれた崇徳は、彼の元に集まる摂関家主の左大臣藤原頼長らを語らい、摂関家の家人で有力武士である清和源氏の武力を動員して乱を興し、鳥羽四の宮を引きずりおろして、自身の一の宮を皇位につけようと画策した。
 この企ては鳥羽が死去したことをきっかけに発動され、即位した四宮(後白河)方の平清盛や源義朝らの大軍勢が崇徳の館を囲み遅い、崇徳方の軍勢を打ち破って乱を終結させた。その結果崇徳は淡路に島流しとなり、与党の公卿武士らは死罪となった。これが保元の乱であった。
 この結果後白河親政が行われたのだが、政治の実権は鳥羽腹心の藤原信西に握られ、やがて二年後の保元三年(1158年)8月に15歳となった後白河の一の宮(二条)が即位するとともに、名実ともに朝政は二条を正当な王者と担ぐ廷臣たちが藤原信西を中心として担うこととなり、次第に後白河側近らは政治の中枢から排除された。
 この状況に不満を持ち、信西を殺して政治の実権を握り、後白河院政を強化しようとしたのが、後白河寵臣の藤原信頼と彼が軍事力として頼む源義朝らであった。
 反乱は二条を支える有力武士である平清盛の熊野詣での最中に決行され、反乱軍は信西を殺し二条天皇と後白河上皇をも自らの陣営に確保して、反乱は成功したかに見えたが、 一度は藤原信頼らに味方して二条天皇・後白河上皇を信頼方に引き渡した二条側近が裏切って、天皇と上皇を御所から脱出させ、急を知って駆け戻った清盛 の元に逃げた。そして清盛らの軍勢と、清和源氏の中で義朝に従わない源頼政らが加わった大軍勢が形成され、反乱は短時日のうちに鎮定され、首謀者の信頼と義朝は敗死した。これが平治の乱である (平治元年:1159年12月)。
 この乱失敗の後、一時的に後白河院政が確立されたが、成人した二条と後白河の王家一の人を巡る対立が表面化し、双方の側近が争って二条を皇位から引きずりおろそうとの策謀まで組まれたのであった。

  その対立のさなかに二条がわずか21歳で死去 (永万元年:1165年7月)。跡継ぎはわずか三歳の皇子六条。後白河は自らの愛妾である建春門院・平滋子所生の第七皇子を皇位につけようと画策し、平清盛らの賛同も得て、六条即位、皇太子にその叔父である 4歳の後白河第七皇子という変則的な形ができあがった。そしてその後わずか3年を経て六条は退位させられ(仁安三年:1168年2月)、目出度く後白河第 七皇子(これが高倉)が即位し、後白河院政が再び強化された。

  だがこの安定も長くは続かなかった。
 高倉が成人するとともに(治承元年:1177年)、ここに再び後白河と高倉の王家一の人を巡る争いが激化し、平氏の武力に支えられた高倉に有力公家もついてしまい、次第に後白河派は劣勢に。そして後白河派公卿による高倉引きずりおろしの陰謀 (鹿ケ谷の陰謀)も露見して失敗する中、高倉の中宮で清盛の娘徳子の腹に高倉第一皇子が生まれ(治承2年11月12日)、やがてこの高倉第一皇子を即位させ(治承四年 :
1180年4月22日、2歳)、高倉が王家一の人として院政を敷いた際に、これを邪魔する可能性のある後白河院が鳥羽殿に清盛によって幽閉され 、院の近臣39人の官も解かれる(治承三年11月)。

  これが冒頭に述べたように、以仁王反乱直前の状況であった。
 そして以仁王とは、二条がまたも病弱で跡継ぎの不安が生じたおりに、美福門院の娘で近衛の姉であった八条院が、二条の次の天皇候補として養子にしていた人物であったが、後白河第 七皇子の母の権勢のために、以仁王は元服も親王宣下もないまま捨て置かれたのであった。
 このままでは、鳥羽―近衛―二条―(六条)と続いた王家主流は今や跡形もなく消えてしまう。

  この王家を支えた八条院や近衛・二条の妃であった藤原多子とその兄 ・徳大寺実定らの公卿は危機感を持ち、八条院蔵人として出仕を始めた腹心の部下である源頼政の軍事力と諸国に潜んだ清和源氏の軍事力に頼んで起こしたのが、この反乱だった。

  源頼政がその嫡流である清和源氏源経基流は、その氏の始原の時から、藤原摂関家と王家主流と濃密な血縁関係を持ち、この両家の忠実な家人であった。したがって王家が分裂する中でも彼らは、より正統と考えられる王家に忠義を尽くしたのだった。八条院蔵人としてその官を始めた頼政にとって正当な王家とは、八条院の父である鳥羽に始まり、八条院の弟・近衛―二条と続いた王家だったのだ。

  「鵺」の句は、この以仁王の反乱とそれへの頼政の加担の背景・目的を象徴的に表した句だ。