源氏揃

平家物語topへ 琵琶topへ

 ▼主な登場人物

以仁王:1151(仁平元)−1180(治承4)。後白河天皇の第3皇子。母は権大納言三条季成の娘高倉三位成子。異母兄に守仁親王(二条天皇)がいる。三条宮、高倉宮とも称す。幼少のおり天台座主最雲の弟子となったが、師の没後(応保2年―1162216日)還俗し,65(永万1―二条天皇死去の年)元服。若くして英才の誉れが高く、母の家柄も良く、近衛天皇の姉で二条天皇の準母である八条院の猶子であり皇位継承の有力候補と目されたが,異母弟憲仁(高倉天皇)の母建春門院平滋子の妨害により、親王宣下も受けられぬ不遇をかこった。治承4年源頼政の勧めで最勝親王と自称し、平氏追討の令旨を各地の源氏に発するも、発覚したため頼政らと挙兵したが、治承4526日山城(京都府)綺田(かばた)で討ち死に。30歳。

源頼政:1104(長治元)−1180(治承4)。父は仲政(仲正)、母は藤原友実の女。白河院以来、朝廷に仕え兵庫頭・従三位に至る。官途の始まりは、保延2年(1136年)蔵人に補任、その後従五位下に叙位した後、仁平3年(1153年)3月美福門院昇殿を許される。久寿2年(1155年)兵庫頭に任官。摂津源氏渡辺党を率いて、保元の乱には天皇方に属して功あり、平治の乱では平氏方に属した。平氏政権下で右京権大夫となり、宮廷・京都の警衛に任じ、治承2年(1178年)1224日、従三位に至り内昇殿を許された。しかし1180年(治承4)後白河上皇の皇子以仁王を奉じて平氏打倒の兵をあげたが、平氏に討たれて526日宇治平等院で戦死した。76歳。頼政は射芸の達人として名があり、また和歌において当時の第一流に属し、今日に『源三位頼政集』を伝えるほか、多数の和歌を残している。

八条院ワ子内親王:保延3(1137).4.8―建暦1(1211).6.26。鳥羽天皇の第3皇女。母は贈太政大臣藤原長実の娘得子 (美福門院) 。同母の弟が近衛天皇。保延4 (1138) 年内親王宣下。久安2 (1146) 年には准三宮の宣旨をこうむり、本封のほか1000戸を与えられた。保元2 (1157) 年落飾。皇太子守仁の準母となり守仁即位後には応保1 (1161) 12月八条院と称した。后位につかない内親王で院号宣下のあった初例。父鳥羽上皇に寵愛され、1140年(保延6)に、その所領12か所と安楽寿院領などを譲与され、これらの所領と、1160年(永暦1)生母美福門院の死に伴って継承した遺領とをあわせ、その総計は230か所に上り(八条院領)、当時の皇室の荘園の大部分を所有。1155年(久寿2)弟近衛の死去直後には女帝として即位も検討され、政界に隠然たる勢力を持っていた。墓は京都市右京区鳴滝中道町にある。

<物語のあらすじ>

 治承4年(1180221日、高倉天皇は退位し、東宮(言仁親王)が践祚。422日には即位の礼が行われ、平氏と深く結びついた高倉王朝が成立した(「厳島御幸」「還御」)。この頃三条高倉に、一院後白河の第二皇子以仁王が宮を構えていた。この人は永万元年(1165年)1216日に密かに近衛河原の大宮(近衛天皇皇后多子)の宮で元服し、次期天皇にも目された人物であったが、妨害にあって高倉宮で閑居していた。或る夜、近衛河原に住む源頼政が高倉宮を密かに尋ねそこで恐ろしい話をした。「君は天照大神から48世の末、皇位にもつかせ給うべき人なのに、位にもつかず30才にもならせ給うことを、心憂しとはおぼしめさずや」と語り、謀反を起こし平家を滅ぼすためにその令旨をくだされば、諸国の源氏は喜んで、夜を日についで都に上り、平家を滅ぼすことだろうと宮に勧めた。宮は即答されなかったが、後日、人相見の達人と称される少納言維長が「位に付くべき相あり」としたので頼政の誘いを承諾し、まず熊野に隠れ住む源義盛を召して八条院蔵人として行家と改名させ、東国の源氏らに令旨を持たせた。行家は、428日に都を経って5月10日には伊豆北条に着き流人兵衛佐頼朝に令旨を奉った。しかし、熊野別当湛増の裏切りによって謀反は事前に露見してしまった。

 <聞きどころ>

 比較的淡々とした句。蜂起するであろう諸国源氏の名を列挙した部分と、熊野湛増が源氏方と戦って敗れる様は、「拾」という軽快な節で一気に語るが、高倉宮の優れた資質を説いた部分は「中音」で美しく、また頼政が諸国源氏の窮状を訴えた場面は、まず「折声」で切々と訴えたあとは、「口説」「素声」で淡々と語る。この語りの節の変化が楽しめる。

 <参考>

以仁王の謀反については、「平家物語」は頼政の子息仲綱が平宗盛に理不尽な扱いを受けたこと(「競」巻4−6)など平氏の横暴が原因で、頼政が以仁王を焚き付けたとする。しかし、以仁王は、異母兄二条天皇の死の直後に密かに近衛河原の大宮の御所で元服し、直後に八条院の猶子となるなど、近衛―二条の正統王朝を継ぐ王位継承者に擬せられていた。以仁王謀反を背後で支えた人物は、元服を陰で行った近衛天皇・二条天皇皇后の藤原多子とその兄徳大寺実定らと、天皇家の荘園の大部分を握る、二条準母の八条院である。頼政が以仁王擁立に動いたのは、彼自身の官途が八条院・近衛の母である美福門院蔵人に始まることからも明らかなように、頼政は、美福門院―八条院、すなわち近衛―二条を主君と仰ぐ武士であった(「鵺」巻415)。彼らにとって言仁(安徳)即位により、以仁王即位は絶望的である。したがって八条院の傘下にある源氏棟梁頼政の力を以て諸国源氏を蜂起させ、高倉王朝―平氏政権を打倒しようとしたものと思われる。八条院が陰の主役であることは、以仁王令旨を運んだ源行家を八条院蔵人に任じたことで明らか。藤原多子と徳大寺実定がこの謀反に関わった傍証は、謀反鎮圧後に都が摂津福原に移された後に、秋の月見に二人が京の近衛河原の宮で月見をしながら昔を懐かしむという情景(巻5−2「月見」)が平家物語に挿入されていることに示されている。

★〜以仁王の令旨〜(『吾妻鏡』)

  下 東海東山北陸三道諸國源氏并群兵等所

   應早追討C盛法師并從類叛逆輩事

 右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣。奉

 最勝王勅偁。C盛法師并宗盛等、以威勢起凶徒亡國家。惱乱百官万民、虜掠五畿七道。幽閉皇院、流罪公臣。断命流身、沈淵込樓。盜財領國、奪官授職。無功許賞、非罪配過。或召鈎於諸寺之高僧、禁獄於修學之僧徒。或給下於叡岳絹米、相具謀叛粮米、断百王之跡、切一人之頭、違逆帝皇、破滅佛法、絶古代者也。

干時天地悉悲、臣民皆愁。仍吾爲一院第二皇子。尋天武天皇舊儀、追討王位推取之輩、訪上宮太子古跡、打亡佛法破滅之類矣。唯非憑人力之搆、偏所仰天道之扶也。因之、如有帝王三寶神明之冥感。何忽無四岳合力之志。然則源家之人、藤氏之人、兼三道諸國之間堪勇士者、同令与力追討。若於不同心者、准C盛法師從類、可行死流追禁之罪過。若於有勝功者、先預諸國之使節、御即位之後必随乞可賜勸賞也。

 諸國宣承知、依宣行之。

   治承四年四月九日

                 前伊豆守正五位下源朝臣仲綱

■読み下し文

下す

 東海、東山、北陸、三道諸国の源氏並びに群兵等の所へ

 応えて早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討の事

  右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣ず

 最勝王(以仁王)の勅を奉りて称(い)う。清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て凶徒を起し、国家を亡す。百官万民を悩乱し、五畿七道(全国)を虜掠す。皇院(後白河法皇)を幽閉し、公臣を流罪とす。命を断ち、身を流し、淵に沈め、樓(牢)に込める。財を盗り、国を領し、官を奪い職を授く。巧無きに賞を許し、罪あらずに過(とが)を配す。あるいは諸寺の高僧を召し釣(こ)め、修学の僧徒を禁獄す。あるいは叡岳(延暦寺)の絹米を給い下し、謀反の粮米を相具す。百王の跡を断ち、一人の頭を切り、帝皇に違逆し、仏法を破滅し、古代を絶つ者なり。

 時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う。よって吾一院の第二皇子たり。天武天皇の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討し、上宮太子(聖徳太子)の古跡を訪ね、仏法破滅の類を打ち亡ぼさんや。ただ人力の構へを憑(たの)むにあらず、ひとへに天道の扶(たす)けを仰ぐ所なり。これによって、もし帝王三宝神明の冥感あらば、何ぞたちまち四岳合力の志なからんや。然らば則ち、源家の人、藤氏の人、かねては三道諸国の間、勇士に堪えらる者、同じく与力し追討令(せし)む。もし同心せずにおいては、清盛法師の従類になぞらい、死流追禁の罪過に行うべし。もし勝功あるにおいては、まず諸国の使節に預かり、御即位の後、必ず乞いに随(したが)い勧賞を賜わるべきなり。

諸国承知して宣に依てこれを行え。

 治承四年四月九日

             前伊豆守正五位下源朝臣仲綱