福原院宣

平家物語topへ 琵琶topへ

<主な登場人物>

◆文覚:1139(保延5)?−1205(元久2)? 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠。俗名は遠藤盛遠。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19歳で出家した。文覚は空海を崇敬し、1168年(仁安3)その旧跡である神護寺に住み、修復に努め、1173年(承安3)神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流され、伊豆蛭が小島に流罪となっていた頼朝の知遇をえる。中宮徳子の皇子出産に伴う特赦で1178年(治承2)許されて帰京。のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天 など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。しかし1192年に法皇が没し、1199年(正治1 頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、1199年(正治元)には佐渡に流され、1202年(建仁2)許されて帰京したが、1205年(元久2)後鳥羽上皇に謀反の疑いを持たれ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した

 

源頼朝:1147(久安3)−1199(正治1)。清和源氏河内流の棟梁・源義朝の3男。1159年(平治113歳で平治の乱に参加、従五位下・右兵衛権佐の官位を受けたが、敗れて捕らえられ、1160年(永暦1)伊豆国に配流された。以後20年間を伊豆の地に流人として過ごす。1180年(治承45月の以仁王事件の余波を受け、生命の危険にさらされた頼朝は、8月、機先を制して平家方の武士を討ち、反平家の挙兵に踏み切る。石橋山の戦に敗れて海路安房国に逃げのび、安房・上総・下総の武士の糾合に成功し、さらに武蔵の武士も傘下に加えて、9月に鎌倉に入り、10月には富士川の戦で平家軍を破り、瞬く間に東国に一大勢力圏を築いた。以後関東の経営に専念する一方で、後白河法皇との接触を強め、1183年(寿永2)平家が木曽義仲によって都を追われた直後、後白河によって公認され、同年11月、義仲が後白河法皇に反逆(法住寺殿合戦)するや否や、即座に後白河法皇救出の軍勢を派遣し、京都への進出を遂げた。以後、後白河院を権威と仰ぎ、院を守護する臣下としての立場に終始一貫している。1185年(文治13月の壇ノ浦での平氏滅亡後、対立した弟義経の勢力や旧平氏勢力追討を旨として諸国に守護・地頭の配置を朝廷に認めさせ、公領・荘園の税の一部を兵糧米として徴収し、国々の軍事検断権を取得1189年(文治5)には奥州を独立的に支配していた平泉藤原氏を滅ぼして、東国を拠点とする武家政権を樹立した。状況は二回のみで後白河拝謁を目的とした1190(建久1)年、二度目の1195(建久6)年には、娘大姫を後鳥羽天皇に入内させようとして失敗。正治1.1.13(1199.2.9)死去。死因を記す史料はない。

 <物語のあらすじ>

 1183年(治承3)伊豆に流された文覚は、流人兵衛佐頼朝の下に足しげく通って、内大臣重盛の死によって平氏の世は傾いた。早く謀反を起こして日本国を従えろと頼朝を煽る。躊躇した頼朝が、「自分は勅勘を受けての流人であり、御坊もまた勅勘を受けての身だ。人のことを言っている場合か」というので、文覚は、「ただちに新都福原に上って平家討滅の院宣を貰い受けてくる。都合7・8日で戻る」と言い捨てて、弟子たちには伊豆山神社に七日参籠すると言い置いて、直ちに上京。後白河法皇の近臣の前右兵衛督藤原光能にあって後白河に頼朝に院宣を下されることを奏上。なんと7日で伊豆の頼朝の下に、後白河の平氏討滅の院宣を渡す。頼朝は石橋山の合戦の時も、この院宣を錦の袋に入れて首に懸けて戦った。

 

 <聞きどころ>

 「読物」という特殊な節回しの出てくる句。節回しは比較的淡々としていて、冒頭の文覚と頼朝の謀反を巡るやりとりと文覚が院宣を福原まで取りに行くくだりは、「天の与うるを取らざれば却ってその咎を受く」と謀反を強く文覚が勧めたくだりだけが「折声」の切々とした語りに成る以外は、「口説」「素声」で淡々と語る。節回しが一転するのは、その院宣の内容を読み上げた部分。ここが「読物」。この節は、音域は「拾」の「上音」「下音」の音域で、昔の祝詞を朗々と読み上げる様を再現したもの。最後は「初重」で重々しく終る。

<参考>

 この頼朝の謀反の背景には、文覚が介在して、後白河法皇の院宣が下されていたという話は、『平家物語』の創作。文覚の経歴にある伊豆流罪と京都帰還の年次を見ればこれは明らか。文覚が伊豆に流されたのは1173年(承安3)、許されて帰京したのは1178年(治承2)。頼朝の蜂起は1180年(治承4)8月。頼朝蜂起の時にはその二年前に文覚は帰京している。1173年(承安3)から1178年(治承2)の時期に二人が共に伊豆にいたのだから交流があった可能性は高い。文覚は元々清和源氏摂津流の当主源頼政の家臣であり、伊豆は頼政の知行国だからだ。そして頼朝蜂起に際して彼は以仁王の令旨を掲げて蜂起したと『吾妻鑑』は記している。『平家物語』は、神護寺再興を願って文覚が後白河に強訴した年次を、1173年(承安3)から1179年(治承3)に繰り下げ、頼朝蜂起の直前に文覚が伊豆にいたかのように偽装して、頼朝蜂起の背景には後白河の平家討滅院宣があったと記した。このように物語を創作したのは、有史以来朝敵が勝利したことはないにも関わらず頼朝が内乱に勝利し、朝廷から関東支配権と全国の軍事検断権まで認められた事実を背景に、内乱の当初から後白河と頼朝が結びついて内乱を主導したとすることで、有史以来の例外を説明しようとしたものか。もしくは、本来、鳥羽―近衛―(後白河)−二条と続いた「正統王朝」の後継者・以仁王が、王位をこの流れに引き戻そうとして起こした反乱を、この背景を記さないことで、この以仁王反乱も後白河の画策であるかのように『平家物語』が描いたことと繋がるか。『平家物語』の主人公は後白河であるから。