富士川

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<主な登場人物>

◆平維盛:1157(保元2)−1184(元暦1)。平重盛の長男。母は官女とされるが、出自など詳細は不明重盛の嫡男は次男の資盛(母は二条院内侍であった藤原親盛の娘、少輔掌侍)。小松中将と称す。右中将・蔵人頭を歴任。舞の優美さで世人の称賛を得る。1172年(承安2)、14歳で藤原成親の次女・新大納言局を正室に迎える 1180年(治承4)、源頼朝追討の総大将として臨んだ富士川合戦で、水鳥の羽音に驚き敗走。1183年(寿永2)礪波山の戦では源義仲に敗れ、平家都落ちの因を作る。1185年(文治1)屋島の陣を脱し、高野山で出家。滝口入道立ち会いのもとに那智で入水と『平家物語』は伝えるが、『源平盛衰記』は、頼朝を頼り東下、相模で没したと記す。平氏一族における立場は終始微妙で、晩年の行動は謎が多い

 ◆藤原忠清:?−1185(文治1)。平氏の家人。景綱の子。別名忠景。伊藤五とも称す。伊勢を本拠とする平氏累代の家人の家に生まれ、保元の乱に参戦。1179年(治承3)政変後には従五位下上総介に任ぜられた。また坂東8カ国の侍を奉行したとされ、翌年の源頼朝挙兵の際、大庭景親に指示を下している。富士川の戦には副将として参戦、平氏の不利を察知して総大将の平維盛に退却を勧めた。平清盛の死後出家、平氏都落ちには同道せず京に留まったが、1184年(元暦1)、平田家継らの蜂起に参加。翌年志摩で捕らえられ京で斬首された。一族と共に平氏軍制の中核を占めた家人であった。

 ◆齋藤実盛:?−1183(寿永2)。斎藤河合則盛の子。越前国南井郷(福井県鯖江市)に生まれる。13歳のときに長井庄庄司齋藤実直の養子となり、武蔵国長井(埼玉県熊谷市)に移り住む。源義朝に仕えて長井斎藤別当と称し、源頼方と源義朝の源家主流争いに際し、義朝の長男義平に殺された頼方の次男(後の木曽義仲)を助けたとの逸話が残る。保元の乱(1156)・平治の乱(1159)に参加し、敗走する義朝に最後まで従ったが、途中で別れ越前に戻ったと伝わる。のち平家に仕える。1180年(治承4)源頼朝が兵をあげると、石橋山でこれと戦い安房に追う。1180年(治承4)10月富士川の合戦では、東国の案内者として維盛に従うが、鎌倉武士の勇敢さを述べて平家の士気を阻喪させる。1183年(寿永2)源義仲追討のために大将軍維盛の下で北国に発向し、加賀篠原で討死。

 

 <物語のあらすじ>

 大庭景親の頼朝謀反の報を受け、福原では直ちに追討軍を派遣することとし、平維盛を大将軍とした追討軍が9月18日に福原を発向。1016日には駿河清見が関に着き、先陣は蒲原・富士川に進んだ。兵の数は7万騎とも号した。維盛はこのまま足柄山を越えて坂東へと主張したが、軍目付の上総守忠清は追討軍の劣勢を伝え、このまま援兵が来るのを待つと主張。追討軍はそのまま富士川を前に布陣した。頼朝も軍兵を整えて鎌倉を発向し、足柄山を越えて、駿河国黄瀬川(沼津市)に着陣。甲斐・信濃の源氏も浮き島が原(黄瀬川と富士川の間の砂丘地帯)に布陣した。野山には源氏の旗印が翻り、その兵20万とも号した。大将軍維盛は東国案内者として従軍した齋藤実盛を召して情勢を聞いたところ、実盛は「我ほどの武者は東国には大勢いる。東国武者は親が討たれてもその屍を乗り越えて戦う。甲斐・信濃の源氏等は案内を知っておるから富士の裾から我軍の搦め手(後ろ)に回るやもしれぬ」と申し、平家追討軍の兵どもはみな恐れおののいた。1023日。明日両軍の矢合わせが決まり、その夜富士川の辺の浮島沼にたくさん棲む水鳥の一斉に飛び立つ羽音に驚いた平家追討軍は、すわ夜襲と浮き足立ち、取るものもとりあえず逃げ散った。翌朝24日に源氏軍が川を渡って押し寄せた(以上「富士川」)。平家陣の様子を見に行かせたところもぬけの殻であった。頼朝は駿河を甲斐の一条次郎忠頼に、遠江を安田三郎義定に預けて、相模国に戻った(「五節之沙汰」冒頭部分)。

 

 <聞きどころ>

  比較的淡々とした句。「口説」で淡々と経過を語り、維盛が齋藤義盛に情勢を聞く場面は、「素声」で一息に語り、頼朝や甲斐源氏が布陣する様と、水鳥の羽音に驚いた平家が退却する様は、「拾」でさっと語る。経過の「口説」、語りの「素声」、軍場面の「拾」の節回しの転換が楽しめる。

 

<参考>

 

 富士川合戦の「水鳥の羽音」の話は諸資料によって異なる。『源平盛衰記』:日付なし、平家軍は水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去る。『平家物語』:1023日、平家軍は水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去る。『吾妻鏡』:1020日、平家の諸将は包囲されるのを恐れていたところに水鳥の羽音がしたので撤退した。語り物諸本とこれらを史料とした史書・『吾妻鑑』では水鳥の羽音の逸話は「実話」として語られる。ところが公家の日記では少し異なる。『山槐記』(公卿中山忠親の日記):1019日、平家軍は水鳥の羽音に驚き、自ら陣営に火を放って撤退した。『玉葉』(大臣九条兼実の日記):1018日、羽音の記述はない。開戦前に平家側数百騎の兵が源氏に逃亡したため平家は撤退をした。『吉記』(権大納言民部卿吉田経房の日記):日付不明、羽音の記述はない。敵の軍勢が多いのをみて撤退した。撤退時に敵からの放火と疑われる火災が起こり、それにより混乱があった。

 通常九条兼実の日記が重視され、「水鳥の羽音」の逸話は平家物語の創作とされることが多いが、同じく同時代人である中山忠親の日記に「水鳥の羽音」の話があるのだから、史実であり、九条兼実や吉田経房はこの逸話よりも、平家源氏の相互の力関係に力点を置いて日記を書いたと見るべき。

ただし齋藤実盛が東国の兵の強さについて語り追討軍を震え上がらせたとの逸話は、史実か否かを確かめる史料は存在しない。また『源平盛衰記』や『延慶本平家物語』では、坂東武士の強さを語る部分はあるが、『覚一本平家物語』や『百二十句本平家物語』のように甲斐信濃源氏が搦め手に回る話はない。

確かなことは、関東は常陸の佐竹氏を除いてすべて頼朝になびき、甲斐・信濃の源氏等もこれに同調して反平氏の旗を立てて挙兵しており、この流れの中で、伊豆や駿河・遠江の武士の中で、あえて平家追討軍に合流しようとした武士は極少数であったということ。大庭景親らが相模・武蔵の武士の協力を得て頼朝を安房に追いやった事実から、平家の大軍が姿を現せば、関東や駿河・遠江の兵が馳せ集まってくると情勢を楽観視したことが間違いであったか。