都帰

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 <物語のあらすじ>

  1183年(治承4)62日、平家は、摂津福原への遷都を断行した。安徳天皇を始め中宮・高倉院を始め、太政大臣以下の公卿殿上人はみな新都に移り、旧都の公卿らの建物の多くは取り壊されて新都に移された。後白河法皇は鳥羽殿から出され、福原の板屋に押し込められた(「都遷」)。しかし新都で新帝・安徳の大嘗祭を挙行しようにも、新都には大極殿も八省院もなく、様々論議を引き起こす中で、結局大嘗祭の挙行は延期され、旧都で新嘗祭だけが挙行された(「五節之沙汰」)。

こうして南都の諸寺や比叡山だけではなく、多くの寺社からも遷都反対の声が上がる中で、1183年(治承4)122日(事実は1123日出発。26日入洛)ににわかに還都が宣言され、新院が旧都に還ると、摂政や太政大臣以下の公卿・殿上人の多くが供奉し、平家一門もみな旧都に還ってしまった。だが旧都の屋敷の多くは壊されて新都に移されていたので、住むところもなく、寺社の回廊や拝殿などに仮住まいするしかなかった。突然の遷都の理由は、「旧都は南都北嶺に近く、春日の神木や日吉の神輿を持ち出して無法行為をする。福原はこれらとは多くの山や川に押し隔たれて遠いので、さようのこともなかろうと、入道相国が計らった」と言われている。1223日、近江源氏が反乱したが、平家は知盛・忠教を大将軍として打ち破り、近江を超えて美濃・尾張に進出し、畿内近国の反乱は平定した。

 <聞きどころ>

「都帰」は短い句。前半突然の都帰りのさまを淡々と、「口説」「素声」でかたるが、新都福原は波音がうるさく高倉院はこのため病が重くなったと非難する部分は「中音」で、さらに旧都に戻ったものの多くの公卿は住むところもなく、寺社仏閣の回廊や宝殿に仮住まいするとの惨憺たるありさまを「折声」で強調する。後半は近江源氏謀反討伐談で「拾」の節でさらっと終わる。

<参考>

 遷都の様を語る「都遷」(巻5−1)では遷都の理由はまったく語られず、福原の平家別荘に突然移ったあとで、新都造営の打ち合わせが行われ、和田の松原の西の野を宮城の地とし、一条から九条の区画を設けるべきことが審議されたと記すのみ。そして現地を調べるとその地は五条までしか取れず、されば播磨の印南野か摂津の児屋野かなど論議が紛議し、結局、里内裏として清盛別荘を改造することに落ち着いたとしか語られていない。この「都帰」で初めて遷都の理由が述べられたわけだ。「平家物語」成立以後最近までは、遷都の理由は南都北嶺の横暴を防ぐためとの「平家物語」の主張が広く受け入れられてきたが、近年はこれと異なる背景が考察されている。それは確かに和田の地は五条までしか条坊都市を造営することができないが、国際貿易港である和田の湊を抱えたことにこそ意味があったのではとの考察である。すなわち高橋昌明は、日宋貿易を国家政策の中軸とし、その国際貿易港・和田湊を中心に据えた新都を、平家一門と親平家の公卿らだけの都とし、後の鎌倉幕府のような武家のための政権を築こうとしたのではと推測している。そして清盛の失敗を教訓として源頼朝は、より都から遠く源氏の基盤の中心である鎌倉に武士の都を建設し、鎌倉もまた和田と同様な国際貿易港としようとしたのではないかと推察している(高橋昌明著『平清盛 福原の夢』講談社選書2007年)。
 突然の還都の理由について「平家物語」は、新院高倉の病気と南都北嶺など寺社の反対を上げているが、実際には、高倉がそもそも遷都に反対であり、これを梃として遷都反対派=後白河派が様々理由をつけて和田京造営もつぶした。その上に東国における源氏反乱を放置しては畿内の安全も脅かされると判断した清盛が、急遽決断したと考えられている。事実還都の直後近江・美濃・尾張の源氏を追討平定したのはその表れ。しかし反乱は拡大し、木曽義仲は越後勢を打ち破り北国に進出し、瀬戸内・九州にも反乱は拡大した(「飛脚到来」「巻6−6」)。