奈良炎上

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 <主な登場人物>

◆平重衡:11571185.7.21(保元2−文治1.6.23)。平清盛の五男。母は時子。宗盛・知盛・徳子の同母の弟。応保2(1162)年に叙爵し、尾張守、左馬頭、中宮亮などを経て、治承3(1179)年左近衛権中将、翌年蔵人頭と累進。極官が正三位左近衛権中将であったため,「本三位中将」ともいわれた。文武兼備の人物で、蔵人頭として朝儀・公事をよく処理する一方、源平争乱が勃発すると、武将として奮迅の活躍。主に病気がちの兄知盛に代わって平家本隊を指揮し、治承45月に以仁王・源頼政の挙兵を鎮圧、同年12月には興福寺・東大寺攻撃の総大将となって大仏殿以下を焼き打ち。翌年3月墨俣川の戦で源行家を撃破し、平家都落ちののちも、寿永2(1183)年閏10月の水島合戦、翌月の室山合戦などでも勝利を収めた。しかし、翌年2月、一の谷の戦で捕虜となり、鎌倉に護送された。源頼朝に厚遇されるが、興福・東大両寺の衆徒の強い要求によって奈良に送られ、南都焼き打ちの張本として木津川畔で斬首。

 <物語のあらすじ>

 以仁王の反乱に味方した南都興福寺に対しても咎めあるべしとて、藤原氏長者である摂政基通からなんども「申し開きせよ」と使者が出されたが興福寺大衆は聞き入れず、入道相国が派遣した鎮撫の武士にも乱暴狼藉を働いた。そこで入道相国は大将軍に重衡、副将軍に通盛をあて都合4万の兵で南都を攻めさせた(「玉葉」では治承4年―11831225日)。1228日、南都の大衆7千余人も奈良坂・般若寺坂に城郭を構えて両軍は対陣。戦は夜に入り、明りを求めた大将軍の命で民家に火をかけたところ、吹き寄せた風に炎は煽られ、奈良の寺々に次々と燃え移り、興福寺・東大寺などの大伽藍を、戦を避けて逃げ込んだ僧侶や稚児・童などとともに焼き尽くしてしまった。堂舎とともに焼け死んだ者は3500余人、戦死したものは千余人。大仏も、頭部は焼けただれて落ち、体も焼け溶けて山のようであった。

 <聞きどころ>

「奈良炎上」は、口説⇒中音⇒口説⇒拾⇒口説⇒折声⇒中音・初重・初重中音⇒三重・初重・初重中音⇒折声⇒口説⇒中音と曲節の変化に富んだ句。特に後半の合戦の始まりを「拾」で語り始め、夜明りの火が伽藍に燃え広がり多くの僧俗が焼け死ぬ場面は、拾⇒口説⇒折声⇒中音・初重・初重中音⇒三重・初重・初重中音⇒折声と、きわめて変化に富む美しい語りとなっている。

<参考>

「平家物語」では南都が以仁王の乱に加担した咎で追討を受けたとしか記さないが、以仁王の乱鎮圧後も興福寺や園城寺には厳しいとがめはなく、治承412月の近江源氏の反乱に際しては、またも園城寺と興福寺が加担し、このため園城寺は1211日に焼き払われた。これに対して興福寺が末寺や荘園の武士らを動員して都に攻め入り、平家の拠点である六波羅を焼き討ちするとのうわさも流れ、平家は次に興福寺をも焼き払う計画を立てていたことは『玉葉』治承41222日条にも「悪徒を捕り搦め、房舎を焼き払ひ、一宗を魔滅す」と記されている。つまり南都焼き討ちは計画的であった可能性が高い。このことは「平家物語」の古い形を残す「延慶本平家物語」にも「寺中に打ち入りて、敵の龍りたる堂舎・坊中に火をかけて、是を焼く」と書かれていることからも伺われる。ただし標的は興福寺だけであって、周囲の東大寺までも焼き払い、その南にある元興寺や新薬師寺、そして春日大社付近まで火が及んだのは想定外であったと思われる。

そして堂舎の焼亡と共に焼け死んだ人の数であるが「平家物語」では、大仏殿一千七百余人、興福寺八百余人、ある御堂には五百人・三百人などで総計三千五百余人としているが、「吾妻鑑」の治承5年正月18日条に記される、修学のため南都に滞在中にこの焼き討ちに遭遇して関東に帰還した印景という僧侶の報告では、百余人と記されている。

「平家物語」では計画的であった興福寺焼き討ちを伏せて、明りとりのための放火による火が風に煽られて燃え広がったと「過失」を強調し、堂舎とともに焼け死んだ者の数を一桁多く35倍にして悲惨さを強調したと言えよう。

しかし、権力者がこのような大虐殺と言える強硬措置をとったということは、それだけ南都興福寺の勢力の向背が平家政権にとって死活の位置を占め、もし南都の反乱を放置しておけば、次は、現在平氏方についている叡山の勢力までもが反乱に加担しかねないという状況だったと考えられる。いわば平家政権の終わりの始まりともいえる事態。「平家物語」は奈良焼亡を指して「世の終わり」と評したが、この「世」が「平氏の世」であれば、まさに正鵠を射ている。

 

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