新院崩御

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 <主な登場人物>

◆高倉院: 応保1.9.3(1161.9.23)〜養和1.1.14(1181.1.30)。後白河天皇と建春門院滋子の皇子。諱は憲仁。母滋子の姉は平清盛の妻時子である。3歳で清盛の娘で関白基実の妻盛子の猶子となる。仁安元年320日、二条天皇の皇太子・順仁親王即位(六条)と728日二条崩御に伴い、1010日、6歳で立太子。同3219日即位。父・後白河院の院政のもとで成長。承安2(1172)年清盛の娘徳子(のちの建礼門院)を中宮に迎える。治承2(1178)11月、生後間もない第一皇子言仁親王を皇太子とする。翌年1115(1179.12.22)の平清盛のクーデタによる後白河院政停止・院近臣39人の解官・配流で、高倉親政となる。治承四年221(1180.3.25)第一皇子言仁へ譲位、高倉院政開始し、3月には厳島神社へ御幸する。6月2日(1180.7.3)、福原遷都を実行し新政に着手するも、生来の病弱に加えて病を患い、翌年治承五年114(1181.2.6)19歳にて崩御。詩歌管絃に優れ、特に笛は堪能であった。

 <物語のあらすじ>

1183年(治承4)122日(事実は1123日出発。26日入洛)に新政立て直しのために、にわかに還都が宣言されて、旧都平安京に戻り、1223日の近江源氏の反乱も鎮圧し、1228日には従わない南都の寺院を焼き討ちして反乱を平定した(「都帰」「奈良炎上」)。翌治承五年正月を迎えたものの、病床に伏していた高倉院は、正月14日に六波羅池殿にて崩御。その日のうちに遺骸は東山清閑寺の法華堂に移され、葬られた。御年は数えで21歳。

 <聞きどころ>

「新院崩御」は短い句だが比較的ゆったりと語られる。新院崩御の場面は中頃から。その前に東国の兵乱と南都焼亡により新年の行事も行われない様を「口説」で淡々と語る。その中でも高倉の病状悪化のため院政を再開した後白河が長く幽閉されていたことを嘆く場面と興福寺別当永圓の死の場面を「折声」「指声」で語り、治承5年正月が時代の転換点であることを強調。その後永圓の歌を「上歌」で美しく語ったあと、「口説」で新院死去の様を淡々と語る。最後に新院崩御を惜しむ句を「中音」で朗々と詠ずるが、その中に澄憲法印と或る女房が新院を偲ぶ場面を「指声」で語り、二人が読んだ歌を二首「上歌」と「下歌」で歌い上げる場面が印象的。

 

<参考>

 「平家物語」では高倉院を、生来病弱の上に、岳父清盛と実父後白河院の対立の中で翻弄され、病を得て失意のうちに崩御した悲劇の天皇として描く。しかし清盛のクーデタは、後白河院政を終わらせて高倉親政を始めるためのものであり、清盛は平氏の血を引く高倉を盛り立ててその親政を支えようとしたと見れば、悲劇の主人公ではなく、岳父清盛の協力を得て、新たな治世を行おうとした天皇と見ることが可能。しかしその新政がいかなるものを目指したかは史料がまったく残らないので不明であるが、彼を支えた岳父清盛が、重盛を畿内近国の総官として軍事指揮権を掌握し、中国との貿易を盛んにし、瀬戸内航路の整備と国際貿易港和田湊を整備し、この和田湊を抱える福原一帯を新都としたことを念頭に考えれば、高倉新政とは、日宋貿易を中核として中国の新たな文明を導入し、武士が主体となって諸国の荘園公領を治める、後の鎌倉武士政権の先駆けとなったような政治であった可能性が高い。

 

高倉院の病状について「平家物語」はまったく記さないが、実際には治承4年12月には容体もかなり悪く、そのため平氏は後白河院に要請して院政を復活させていたくらいだ。右大臣九条兼実の日記『玉葉』治承5 年正月13 日条には、高倉院の崩御直前の病状を「御面手足頗る腫れ給ふ。又殊に熱気を厭はしめ給ふ。遙に火気を去り御衣を薄くす。猶以て重しとなす」と伝え、これは後で見る清盛の症状とも、清盛の腹心大納言邦綱の症状とも酷似。また翌日の『玉葉』の条には、高倉院の崩御を記し、葬儀について「今夜最略儀を用ひられ、隆季卿、兼光朝臣等奉行すと云々。今夜御斎会終り、夜に入り始め行はる。上卿一人も参らず」と、崩御のその日のうちに土葬されている。墓所は京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある後清閑寺陵。旧法華堂の基壇である。

左図:高橋昌明「平清盛 福原の夢」より