横田河原合戦

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 主な登場人物>

◆城長茂:?−建仁1.2(1201)。平貞盛の15番目の養子と伝えられる平維茂(秋田城介・鎮守府将軍とも伝えられる)の子孫と称する越後の豪族。伊勢平氏とは同族。父は城九郎資国。城資永の弟。当初は資職と称す。兄・資永の死去後の治承5(1181)6月、1万余の軍勢を率いて信濃国に進軍し、横田河原(長野市)で木曾義仲と戦うが敗北。越後支配権を失い会津四郡に引きこもる。同年8月、越後守に任命されるが木曽義仲から越後を奪えず。義仲滅亡後の元暦1(1184)年春以降、越後に進攻した鎌倉方の軍勢に捕らえられ、囚人として鎌倉に送られた。その後奥州征伐に参陣により、御家人となった。しかし頼朝没後の正治3(1201)1月、鎌倉幕府の打倒を企て京都で挙兵するが失敗し、同年2月に討たれる。長茂の京都での挙兵に呼応して、甥の資盛などが越後国で蜂起するが幕府軍に討たれて、一族は滅亡した。

<物語のあらすじ>

1181年(治承5)の初頭に平家政権の後ろ盾の上皇(高倉院)と政権の重鎮・清盛を失い(「新院崩御」「入道死去」)、さらに同じく閏2月に平氏と摂関家や後白河院との間を取り持った大納言藤原邦綱を失って(「祇園女御」)平氏政権は危機に陥り、院政を開始した後白河院は法住寺に御所を移し、流罪となっていた腹心の公卿らを次々と都に召し出した。しかし平氏は、尾張に進んだ源氏勢を墨俣にて押し返し、7月に改元があって養和となった(「祇園女御」)。伊勢大神宮に朝敵撲滅の祈りの使いを送ったが旅の途次で使節が病死したり、同じく朝敵撲滅祈願を行った大阿闍梨が病死したり、さらには朝敵撲滅を命じられた高僧が「平家こそ朝敵」と判断して平家調伏の法を行うなど、この年は平家に不吉なことばかりおきた。これは翌養和2年(1182年)となっても続き、2月には金星が昴星団に侵入し、諸国兵乱の兆しが見えた。法王が叡山大衆に命じて平氏討滅を図っているとの噂や、逆に平氏が大軍を催して叡山を攻めるなどの流言も頻発。平家が蜂起した源氏に反攻を開始したのは養和25月に改元して寿永となった後。越後の豪族城助茂(改め長茂)を越後守に任じ、長茂は、越後・出羽・会津4郡の勢を催して信濃に発向し、信濃横田河原(後の川中島)にて両軍は睨みあった。しかし木曽方の井上の謀で赤旗を掲げた木曽勢が城勢に近づいてから奇襲するという策をとったため城勢は越後に敗走。しかし平家は対抗措置をとらず、宗盛が大納言から内大臣となる儀式に熱中し、翌寿永2年(1183年)となってからも、主上(安徳)が院の御所に行幸したり、従一位となった宗盛が内大臣を辞するなど、平家政権の強化に努めたが、宣旨や院宣もみな平家の指図とみなされて従うものはなかった。

 <聞きどころ>

  冒頭では、伊勢への戦勝祈願の勅使が途中病に倒れ、朝敵調伏命じられた僧が平家調伏を行う、さらには昴星に金星が侵入するという凶兆、さらに山門の大衆が法王を擁して平家追討に立ち上がる噂など、平家没落を象徴する出来事が「口説」「素声」で淡々と語られるが、その中でもこれらが凶兆であることは「強下」「折声」「指声」でさりげなく不気味に語られる。合戦場面は「拾」「素声」でサラッと語り、最後は翌年寿永二年正月になっても平氏は諸行事を何事もなかったかのように挙行する様を「口説」と「強下」でサラッと語ったあとで、南都北嶺の大衆や熊野金峰山の僧徒、伊勢大神宮の神官まで源氏に心を通わせ、平家が出す宣旨や院宣すら、天皇や院の命令とは受け取られないという末期の様を「中音」で朗々と語り上げる。

<参考>

 実際の横田河原合戦が行われたのは平家物語が記述する寿永元年年9月(1182年)ではなく、その1年と少し前の治承56月(1181年)のことである。
 平家物語の古態をしめす『延慶本平家物語』では治承五年
(1181)頃と判断できる記述をし、信頼できる一次資料である九条兼実の日記『玉葉』では、治承5年7月1日の条に「治承五年(1181)六月十三日」と明記されている。
 『覚一本平家物語』がこの合戦の年次を
1年と少し後に動かして記述したのは、横田河原合戦の敗北の前に何もしない平家を他所に見て、義仲は北陸道全体を支配下に置いて京都へ攻め上る体制を築き上げて一気に攻め上ったと、読者に平家の無策を強調するためであろう。
 そして横田河原合戦での木曽勢の奇襲は、『延慶本平家物語』では赤旗を掲げた木曽勢は密かに川をわたり、城勢の背後にある山(妻女山)裾を巡って城勢の背後から近づいて友軍を装って奇襲したと詳細に記されているのに、『覚一本平家物語』はこうした合戦の詳細を省いていることからも、『覚一本平家物語』は、語りが何世代も語り継がれた後の世になって「劇的効果」を狙った「後世本」である証拠と思われる。
 平家の反乱に対する対応の事実は、一つは横田川原合戦敗北直後に何度も北陸道へ追討軍を差し向けたが現地勢力の反乱で不首尾と終わり(養和元年
8月・平通盛、養和22月・平教盛)、そのうえ養和2年・寿永元年は大飢饉で、追討軍を差し向ける余裕すらなかったということである。

  また横田川原での源氏追討軍・城軍の敗戦にも関わらず、平家は平宗盛を大納言に還着させてさらに内大臣に就任させ、翌年には従一位になったあと内大臣を辞めたり、さらに安徳天皇の元服の儀式と上皇御所への朝勤を行うなど、「華麗な儀式に執着する」さまは「かえってふがいない」と平家物語は評しているがこれは違う。
 これは高倉院の死去・清盛の死去、そして大納言邦綱の死去にともなう政権の体制固めだった。
 平氏政権を支えていたのは院政を行う高倉院であり、彼亡き後の5歳の安徳ではこの穴は埋められない。しかたなく王家一の人である後白河院の幽閉を解いて院政を開始してもらったが、彼は反平氏であり、彼を監視することが必要だ。そこで清盛嫡男の宗盛を内大臣従一位という朝廷の高官に任じた後で内大臣を辞任し、清盛のように公卿会議の外からそれを監視しかつそれを動かす体制を作ろうとしたものと思われる。
 しかし戦の経験も政治闘争の経験もない宗盛では清盛の跡を埋めることは不可能である。
 清盛が後白河院を監視統制できたのはその武力だけではなく、後白河院自体が天皇となり院ともなって王家一の人として権力を振るえたのは、清盛の政治的支持があったればこそなのだ(保元平治の乱)。或る意味後白河院は清盛には頭が上がらない。
 しかし宗盛はこうした清盛の権威を保持していない。彼は後白河院に可愛がれて出世した公卿にすぎないからだ。
 そしてこの時期平家は清盛の息子たちを次々と公卿としたが、公卿としての経験のない彼らでは、大納言邦綱のように、平氏と後白河院や摂関家の間を周旋し、彼らの立場も是認しながらも平氏の利益をとるという芸当はできるはずもなかったのだ。

 そして安徳を鳥羽院の前例に則って、わずか6歳で元服さえ院の御所への朝勤を行ったということは、早く安徳に親政を行ってもらい平氏政権の後ろ盾の権威となってほしいとの平氏の願望をしめす行為と言えよう。