飛脚到来

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 <物語のあらすじ>

 木曽の源義仲が平氏打倒の狼煙を上げた(「廻文」)。清盛は信濃の北の越後の豪族、平維茂の子孫の城太郎・四郎を頼んで高倉院死去の直後の21日には城太郎助長を越後守に任じ木曽追討を図った。一方29日には、河内源氏の源義基・義兼父子の反乱が伝えられたので直ちに追討軍を送り、討ち取った。しかし義基の首が都大路を渡された211日の翌日には、鎮西(九州)より宇佐大宮司の飛脚が到来し、「豊後の有力豪族緒方三郎惟義をはじめとして九州一円の豪族たちはみな平家を叛いて源氏に同心」と知らせ、さらに16日には伊予国より飛脚が到来し、「去年冬に、伊予の有力豪族河野四郎道清など四国の主だったものが平氏に背いたが、備後の有力豪族額入道西寂が兵を率いて河野四郎道清を討伐した。しかし本年115日に道清の嫡子・河野四郎道信らが額入道西寂を備後の鞆に襲って討ち果たした」との知らせをもたらした(「飛脚到来」)。その後四国の一党は河野四郎道信に従い、熊野の湛増もまた平家を叛いたとの噂ももたらせられ、東国・北国がことごとく平氏に背いただけではなく、南海・西海までもことごとく反平氏の狼煙が上がった(「入道死去」冒頭)。

 <聞きどころ>

15分ほどの短い句だが、冒頭は木曽義仲の謀反に続いて謀反を起こした河内源氏を首尾よく打ち取り、義基法師の首を都大路を渡したまでを、「口説」・「素声」・「口説」と淡々と語るが、天皇薨去の直後に(諒闇の時)に反逆者の首を渡したのは堀川院崩御の時の源義親以来の出来事であると「強下げ」で重々しく語ったあとで「拾」に転じ、鎮西からは緒方三郎以下の九州勢の謀反を知らせる飛脚が到来し、さらに伊予からは河野四郎の謀反を知らせる飛脚が到来し謀反が全国に広がるさまをさっと語り終える。この場面転換の妙は見事。

 

<参考>

 

 「飛脚到来」で語られ高倉院薨去の直後におきた反平氏の動きは、事実は高倉院薨去の半年以上前の出来事であったり、半年以上後の出来事であったりした。
 実際には義仲の謀反は、前年治承
4年の以仁王の反乱直後に始まっており、9月には信濃全域を抑えたうえで隣国の上野国多胡郡も抑え、11月には信濃に戻って越後侵攻と北国侵攻を呼号していた。しかし平氏が城氏の四郎助茂を越後守に任じて義仲追討を命じたのは、高倉院崩御から半年余り後の8月(養和元年)のことであった。同様に河内の源義基追討も前年治承4年の冬のことであったし、さらに伊予の河野四郎道清の謀反も治承4年の秋のことであり、備後の有力豪族額入道西寂が兵を率いて河野四郎道清を討伐したのが治承51月のことであった。さらに豊後の緒方三郎惟義らの謀反も高倉院薨去の半年以上あとの養和元年秋以降のことであった。
 「平家物語」は、これらの高倉院薨去の前後に散在して起きた平氏への謀反の動きを、河内石川の源義基の首が治承
529日に都大路を渡されたという事実(「吾妻鑑」による)をもとにして、全部治承5年正月の高倉院薨去の直後の出来事であるかのように歴史を作り替えて、平氏政権の権威の源であった高倉院が薨去したことが平氏没落の直接の原因であったかのようにして彼の死を強調した。