飛脚到来
<物語のあらすじ> 木曽の源義仲が平氏打倒の狼煙を上げた(「廻文」)。清盛は信濃の北の越後の豪族、平維茂の子孫の城太郎・四郎を頼んで高倉院死去の直後の2月1日には城太郎助長を越後守に任じ木曽追討を図った。一方2月9日には、河内源氏の源義基・義兼父子の反乱が伝えられたので直ちに追討軍を送り、討ち取った。しかし義基の首が都大路を渡された2月11日の翌日には、鎮西(九州)より宇佐大宮司の飛脚が到来し、「豊後の有力豪族緒方三郎惟義をはじめとして九州一円の豪族たちはみな平家を叛いて源氏に同心」と知らせ、さらに16日には伊予国より飛脚が到来し、「去年冬に、伊予の有力豪族河野四郎道清など四国の主だったものが平氏に背いたが、備後の有力豪族額入道西寂が兵を率いて河野四郎道清を討伐した。しかし本年1月15日に道清の嫡子・河野四郎道信らが額入道西寂を備後の鞆に襲って討ち果たした」との知らせをもたらした(「飛脚到来」)。その後四国の一党は河野四郎道信に従い、熊野の湛増もまた平家を叛いたとの噂ももたらせられ、東国・北国がことごとく平氏に背いただけではなく、南海・西海までもことごとく反平氏の狼煙が上がった(「入道死去」冒頭)。 <聞きどころ> 15分ほどの短い句だが、冒頭は木曽義仲の謀反に続いて謀反を起こした河内源氏を首尾よく打ち取り、義基法師の首を都大路を渡したまでを、「口説」・「素声」・「口説」と淡々と語るが、天皇薨去の直後に(諒闇の時)に反逆者の首を渡したのは堀川院崩御の時の源義親以来の出来事であると「強下げ」で重々しく語ったあとで「拾」に転じ、鎮西からは緒方三郎以下の九州勢の謀反を知らせる飛脚が到来し、さらに伊予からは河野四郎の謀反を知らせる飛脚が到来し謀反が全国に広がるさまをさっと語り終える。この場面転換の妙は見事。
<参考>
「飛脚到来」で語られ高倉院薨去の直後におきた反平氏の動きは、事実は高倉院薨去の半年以上前の出来事であったり、半年以上後の出来事であったりした。
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