入道死去

平家物語topへ 琵琶topへ

 主な登場人物>

◆平清盛:元永1(1118)〜養和1.2.4(1181.3.20)。平忠盛の長子。実は白河法皇の落胤で、母は祇園女御またはその妹という説もある。忠盛の正妻・池禅尼(藤原宗子)の生んだ男子は家盛(保安4年・1123年頃出生?久安5315日・1149424日病死)と頼盛(長承2年・1133年出生)。二人の正妻の子を差し置いて家督を継いだことにはそれなりの理由があるか? 平治の乱後急速に出世。翌永暦1(1160)年正三位・参議となり公卿に列し、永暦2 (1161)年権中納言、長寛3( 1165)年権大納言、永万2( 1166)年正二位内大臣、仁安2( 1167)年従一位太政大臣と位人身を極める。しかし三カ月後太政大臣を辞任し、以後は朝廷の官職に着かず、子息や縁戚の公卿を通じて朝廷を動かす。

 ◆二位殿・平時子:大治1(1126)〜文治1.3.24(1185.4.25)。平清盛の正妻。父は桓武平氏高棟王流・堂上平氏の一族、中級貴族で正五位下・検非違使・兵部権大輔の平時信(?−1149726日)。清盛との間に、宗盛、知盛、重衡、徳子らをもうけ、承安1(1171)年娘徳子が高倉天皇に入内したため従二位に叙せられ、二位尼と呼ばれる。この一族は、時子が平清盛の正妻となり、妹滋子(1142年− 1176814日)が後白河院の寵愛を受け憲仁(高倉天皇)を生んだことにより勢力を拡大。時子の兄・時忠(1130年−1189312日)は清盛の腹心として権大納言にまで出世。清盛亡き後は平氏の精神的支柱となり、文治元年324日、長門国(山口県)壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、安徳天皇を抱いて入水した。

 

<物語のあらすじ>

  東国・北国・南海・西海と謀反が続く中で、治承5年(1181223日、平宗盛を総大将とした平家主力軍を主体とした東国・北国追討軍派遣が決定され27日に発向としたが、28日清盛急病につき中止。清盛の病は重くて高熱を発し、うわごとを発するのみ。枕元に侍る妻二位殿が遺言を促すと、「源頼朝の首を墓前に備えよ。我が死後の造塔や供養も無用」と言い残し、閏2月4日に落命した。御年64歳。7日に火葬に伏して、摂津の国・経の島に納めた。

 <聞きどころ>

 冒頭に四国・熊野の反乱など東国・北国に続いて南海・西海まで反乱が広がったため、宗盛を総大将とした東国討伐軍の発向を「口説」で語った後、入道相国の病に伏した様と、その後高熱で入道が苦しむ中で二位尼や周囲が右往左往する中で入道が死去するまでを、地獄の焦熱地獄に例えながら語るが、この部分は、「素声」⇒「口説」⇒「中音」⇒「口説」⇒「折声」⇒「口説」と変化に富んだ節で語る。句の最後の入道相国の葬儀の様子を交えつつ彼の死を評価する場面は、「中音」⇒「三重」⇒「初重」⇒「中音」とさらに高音で変化に富んだ美しい句で締めている。

<参考>

「平家物語」に記された清盛の病状は、高熱だけだが、確実な史料である左大臣九条兼実の日記『玉葉』では、治承5 2 27 日の条に、「邦綱卿二禁を煩ひ、禅門頭風を病む」と記した。「二禁」とは「腫物・面皰(ニキビ)」のことであり、「頭風」とは「激しい頭痛」のことであり、激しいめまいや首のしびれを伴うものをいう。『玉葉』では清盛にも大納言邦綱(1122−養和1.2.23(1181.4.8))にも高熱のことは記されないが、清盛と邦綱の病状は共に、『玉葉』に示された高倉院の病状「御面手足頗る腫れ給ふ。又殊に熱気を厭はしめ給ふ」と共通している。この点を基礎にして、さらに邦綱は清盛の腹心として、高倉院や貴族たちと清盛との間を周旋することを任務としていたので、病床の高倉院をしばしば見舞って相談していた邦綱が高倉院の病をうつされ、さらにその病が二人でしばしば密談する清盛にも感染したものとし、彼らの病状からその原因は、溶血性連鎖球菌(溶連菌)の飛沫感染によるものではないかと、東北大学の赤谷正樹は推測する(「清盛の死因−藤原邦綱の死との関連を中心に」日本医史学雑誌第62巻1号(20163月)掲載 http://jsmh.umin.jp/journal/62-1/62-1_note_1.pdf)。この感染症は、医学事典によれば「菌が人の扁桃腺に侵入し、晩秋から春にかけて流行するが、現代では、ほとんど一年中みられる。昔は電撃性猩紅熱と呼ばれる悪性型が猛威をふるった。激烈な中毒症状と経過の早さで恐れられたが、抗生物質のおかげで近年はまれである。潜伏期間は二日から五日。咽頭痛ではじまり、悪寒がして三十九度から四十度ぐらいの高熱がでる。大人よりもこどもに多く、咽頭痛・高熱・発疹を主症状とする」ということである。平氏政権の権威の源泉と平氏政権の指揮官、そして参謀の三名を同時に病で失ったことが、平氏政権崩壊の直接のきっかけであったことは確かである。

なお清盛の墓所は『平家物語』では和田泊の経の島と記すが、この時期は三昧堂である法華堂の基壇に埋納する例が高倉院をはじめとして多いので、清盛の墓所も『吾妻鑑』が記すように、播磨国山田(神戸市垂水区西舞子−淡路島・明石海峡を望む)の法華堂の基壇に埋納されたと高橋昌明は推理している。

<参考A−脆弱な平氏政権>

 日本国66か国の約半分をその領土とし、上皇・天皇以下、多くの公卿を抱えて天下を取ったという言い方をされる平氏政権であったが、その実態は極めて脆弱であった。
 これはとりわけ、国家の人事や政策を決める場である議定の人的構成を見れば一目瞭然である。
 治承三年11月に突如福原から大軍勢を率いて上京した平清盛は、後白河院を鳥羽殿に幽閉するとともに、11月15日には関白藤原基房とその子
権中納言師家を解官し、まだ20歳の藤原基通を摂政の地位につけた。そして11月17日には、太政大臣・藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)が解官される。世にいう「治承三年の政変」である。
 これは高倉の親政に反対する勢力を一掃するための措置であったが、多くの公卿を解官したのには理由があった。
 それは国家の人事や政策を決定する場である公卿の議定において、平家の、そして高倉天皇の利害を代表し、それを議定の決定事項に反映させる力を持ったものが、平家にはいなかったからだ。これは軍事力を背景にして力を持ち、急に家格を上げて公卿に上昇した平家一族にとっては必然的なことだった。
 なぜなら公卿になっても、議定の規約や慣例、そしてこれまでの議定で決定した先例についての詳しい知識を平家はもっていなかったあからだ。したがって高倉と平家の利害を議定に反映するためには、彼らに協力してくれる従来からの公卿家の出の者たちの力と、彼らによる反対派や中間派の説得や切り崩しに依存するしかなかったのだ。
 このことを治承三年の政変の前と後における議定に参加できる人の一覧で確かめてみよう。

●治承三年の政変前                ●治承三年の政変後

・上皇後白河院 11271192・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・幽閉

・天皇憲仁 11611181・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上皇高倉院

・関白藤原基房 11451231・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・罷免

         ・摂政藤原基通 11601233(摂関家嫡流・近衛家創始者/20歳):

・太政大臣藤原師長 11381192 左大臣頼長次男・・・・・・・・・・・・・罷免

・左大臣藤原経宗 111989 大臣在職26年・・・・・・・・・・・・・・・

・右大臣藤原兼実 11491207(摂関家嫡流・九条家創始者)・・・・・・・・

・大納言藤原邦綱 11221181摂関家家司・清盛盟友・・・・・・・・・・・・

・大納言藤原実定 11391192 徳大寺公能の子・・・・・・・・・・・・・・

・大納言源定房 11301188  村上源氏・・・・・・・・・・・・・・・・・

・権大納言源資賢 11131188 院近臣・・・・・・・・・・・・・・・・・・罷免⇒養和元年12月4日還任

・権大納言藤原実房 11471225 三条家創始者・・・・・・・・・・・・・・

・権大納言藤原実国 11401183 滋野井家創始者・・・・・・・・・・・・・

・権大納言藤原宗家 11391189 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・権大納言藤原隆季 11271185 院近臣・嫡男妻は清盛娘・・・・・・・・・・

・中納言藤原成範 11351187藤原信西の息子・清盛の娘婿・・・・・・・・・

・権中納言右衛門督平頼盛 11311186 清盛弟・院近臣・・・・・・・・・・右衛門督罷免

・権中納言平時忠 11271189 清盛正妻時子の兄・・・・・・・・・・・・・

・権中納言三条実綱 11281181 院近臣・・・・・・・・・・・・・・・・・罷免

・権中納言藤原兼雅 11481200 花山院家・妻は清盛娘・・・・・・・・・・東宮大夫罷免

・権中納言藤原師家 11721238 関白基房の子・・・・・・・・・・・・・・罷免

         ・権中納言藤原良通 11671188 右大臣兼実の子・・・・・・・

         ・権中納言藤原実家 11451193 徳大寺公能の子・・・・・・・

・権中納言藤原朝方 11351201・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・権中納言藤原忠親 11311195 中山家の租・・・・・・・・・・・・・・・

・参議平教盛 11281185 清盛の弟・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

         ・参議藤原頼実 11551225 左大臣経宗の息子・・・・・・・・

・参議藤原光能 11321183 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・罷免⇒養和元年9月23日還任

・参議藤原隆忠 11631245 関白基房の子・・・・・・・・・・・・・・・・罷免

・参議藤原定能 11481209 院近臣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・罷免⇒治承4年正月24日還任

・参議藤原親信 11371197 院近臣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・罷免

参議藤原家通 11431187・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・留  

・参議藤原実宗 1145−1214 西園寺家始祖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・参議藤原長方 1139−1191・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 上の一覧で明確なように、平家一門でで政策決定の場である公卿議定に参加できるのは、時忠・頼盛・教盛(直前までは内大臣重盛も)のみ。彼らは朝廷の議定の慣例の知識がないので、議定に出ても発言できない。
 平家が政策決定に影響を持つには、親平家派の公卿を通じてのみ。邦綱・隆季・成範の三人。平氏一門の公卿と合わせてもわずか6人。平家一門の総帥である平清盛11181181はすでに官を辞していて(1167年・前太政大臣)外から介入するだけ。
 
平家の力はこの程度だった。
 後白河院政下での議定では後白河派と目されるのが関白藤原基房・太政大臣藤原師長・権大納言源資賢・権中納言三条実綱・・権中納言藤原師家・参議藤原光能・参議藤原隆忠・参議藤原定能・参議藤原親信の10名と、左大臣藤原経宗以下の中間派の12名。
 
この二つのグループが結託すると平家の力は無に等しい状態だった。
 だから清盛は後白河グループを一掃して、中間派公卿を抱き込もうとしたのわけだ。これは新たに議定参加者として新任されたもの4名の中の3名が、中間派の巨頭である左大臣経宗の息子の参議藤原頼実と、右大臣兼実の子権中納言藤原良通、そして大納言藤原実定の弟の権中納言藤原実家であったことによく示されている。

 こうして治承三年政変後の公卿会議(議定)の多数派は15名の中間派となり、これに平家派6名と両者の中間にいる兼雅となったのだ。これでもまだ平家一門とその同調者は多数ではない。中間派の同意なくして、高倉院政は行えないわけだ。

 このような権力図の中で平氏政権の動きは、一門のトップである清盛と、公卿の中の一門系のトップである大納言邦綱の合議で行われ、邦綱が平家政権の象徴である高倉と清盛の間を取り持って合意を形成し、さらにこの合意をもとに邦綱が、中間派の重鎮たちを説得して高倉および平家の意向を議定の決定に反映させる形で進められていた。

 高倉院の死去、そして清盛の死去、さらに大納言邦綱の死去は、平氏政権の中枢をなしていたこの三名を一度に失うという悲劇であり、権威の象徴である高倉を失った平氏は、仕方なく政敵後白河院に王家一の人に返り咲いてもらい院政を再開してもらった。こうするしか政権を維持する方法はないわけだが、後白河が議定のトップに返り咲いたということは、治承三年の政変で排除された後白河派の公卿が次々と元の位置に復帰することを意味しており、議定において平家一門とその同調者は、ますます少数派の立場に追い込まれることを意味していた。
 実際に早くも参議藤原定能は治承4年正月24日に還任し、後白河院政再開と高倉院死去の後には、参議藤原光能が養和元年(治承5年)9月23日に還任し、権大納言源資賢は養和元年12月4日に還任した。

 後白河院の腹心の多くは公卿に戻らなかったとはいえ、議定の多数派は中間派が占めており、その中には参議藤原長方のように、清盛が進めた後白河院の幽閉や福原遷都に公然と反対を唱える硬骨漢もいたのだ。