北国下向

平家物語topへ 琵琶topへ

<物語のあらすじ>

 横田河原合戦の勝利で信濃だけではなく北陸道も支配下においた義仲であったが、鎌倉の頼朝との間に対立が生じた。この対立は義仲が父の旧領の上野進出を諦めて北国侵攻に専念し、その子の清水冠者義重を人質として鎌倉に送ったことで一時的に解消した(「清水冠者」)。北国沿いに京都侵攻を目指す義仲に対して平家は追討軍派遣を画策したが、西国の兵はみな参陣したが、北陸道は若狭(福井県南部)より北、そして東山道は信濃(長野県)以東、東海道は遠江(静岡県東部)以東はまったく参陣しなかった(=義仲・頼朝の勢力範囲)。寿永2年(1183年)417日に平維盛・平通盛を大将軍とする源氏追討軍10万余騎は都を発向したが、征討の往路片道分として租税の徴収を許されたので近江国を北陸道沿いに進軍しながら徴発を続けたので、沿道の人民はみな山野に逃散してしまった(「北国下向」)。

 <聞きどころ>

冒頭に木曽と頼朝の和睦の様を「口説」「素声」などでサラッと語り、諸国の兵を集めるさまを「口説」で、そして10万余騎の大軍勢発向の様は「拾」で勇壮に語っておきながら、戦の兵糧は片道分しか支給されなかったので北陸への途次で権門勢家の荘園の年貢などもすべて横領しながら進軍したため、北陸道の民は皆、山野に逃散したと、未来の敗戦を予言するような様をサラッと「下音」「上音」で語り終える。

<参考>

 源氏追討軍が西国諸国の仮武者でなるような記述を平家物語はしているが、その大将軍と侍大将の名簿をよく検討すると、この軍勢は二つの平家主力軍でなっていることがわかる。すなわち一つは、小松家(重盛の一族)の軍勢で、大将軍として平維盛、維盛の乳人を務めた上総介伊藤忠清の子や孫たち(上総大夫判官忠綱・飛騨大夫判官景高・上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛藤景清)を侍大将とする。重盛は越前守や武蔵守を歴任したので、小松家の軍勢には、北陸・関東の武士団が多い。もう一つは、清盛の弟の教盛を大将軍とし、清盛の子供たちを将軍とした平家本軍の一部。すなわち大将軍として教盛の子の通盛や清盛の子の平忠教(忠度)・平知教(知度)・平清房、清盛弟の経盛の子の経正を擁し、清盛・宗盛に仕えてきた平盛俊とその子(高橋長綱・越中次郎兵衛盛継)や、同じく平氏一族である武蔵三郎左衛門有国や河内判官秀国らを侍大将とする平家中核軍。つまり北国や東国の源氏反乱軍を討伐するには最初は主としてこの地域を管轄する小松家の軍団で対処したが、駿河富士川合戦の敗北のように埒が明かないので、以後平家中核軍の出番となり、尾張では平家中核軍が平知盛の指揮下で源氏を討伐し、北国では平教盛・通盛の指揮下で源氏反乱に付いた現地武士の討伐にあたった。尾張の戦は勝利したが北国の討伐は現地勢力の反乱で失敗したので、北陸道を攻め上る義仲勢の討伐にあたっては、北陸武士(主として齋藤氏)を擁する小松家の軍団を中核とし、これに教盛指揮下の平家中核軍の一部を、教盛子息の通盛を大将軍として、他に清盛の子息らを将軍として添えて派遣したものか。
 この布陣からは、木曽義仲討伐
頼朝討伐にかける平家の意気込みが見て取れる。

 それにしても源氏追討軍に対して兵糧を支給せず、往路の片道分は路地の途中で現地挑発させるとは、平氏も無策である。
 前年寿永元年は京都も含む西国は飢饉だから租税の徴発が出来なかったのが理由だろうが、いくら東国が飢饉ではなくて平年の取れ高があったからと言って、進軍する大軍勢が都に運ばれる租税などを奪い取ったり村々からさらに徴発したのでは、進軍する往路の住民や彼らを束ねる武士たちを敵に回すようなものである。