主上都落

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<主な登場人物>

 ▼内大臣平宗盛1147(久安3年)‐1185.7.19(文治元年.6.21)。清盛の3男で、母は平時子。治承3年(1179)の重盛の死後は氏の長者としてその中心に位置し、4年の源氏反乱に際しては、父清盛を説得して都を福原から平安京に戻し、翌年1月には畿内近国の軍事組織である惣官職を設置して惣官となり、清盛の死後は平氏総帥となる。壇之浦合戦敗北後入水するも助けられ、鎌倉に送られた後に、京に戻す途中で切られた。『平家物語』は宗盛について厳しい人物評価を与え、無能で器量なしとしているが、実像は不明。

 ▼建礼門院平徳子1155(久寿2)‐1214.1.25(建保1.12.13)。平清盛と時子の娘。高倉天皇の元服に伴い、承安1(1171)1226日、後白河法王の猶子として高倉天皇の女御となる。翌年210日中宮。治承2(1178)年皇子(安徳天皇)誕生、4年皇子の即位により国母となる。文治1(1185)324日壇の浦での一門滅亡時に入水するが助けられて京都に戻り剃髪。法名真如覚。その秋に大原寂光院に移り、一門の菩提を祈る。徳子の没年は所説あり。

 ▼後白河院1127.10.18(大治2.9.11)‐1192.4.26(建久3.3.13。鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の第四皇子。崇徳天皇は同腹の兄。皇位継承に無縁な雅仁親王は今様を特に愛し研究。久寿2年(1155年)、近衛天皇が崩御すると、自身の第一皇子であり、美福門院(得子)の養子となっていた守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で即位。長く王家一の人として君臨し、自らの子孫を皇統として伝えた。

 ▼摂政藤原基通1160(永暦1)‐1233.7.8(天福1.5.29)。摂政・関白藤原基実の長男。近衛殿、普賢寺殿と号した。仁安1(1166)7歳で父を失い、基実室の平清盛の娘盛子の養子となって後見され、嘉応2(1170)年に元服、安元2(1176)年従二位となる。治承3(1179)年摂政・氏長者の叔父藤原基房が清盛のクーデタによって解官されると、内大臣・関白となり、翌年には安徳天皇の摂政となる。時に21歳。清盛の娘を妻とする。平家都落ち後にも再び後鳥羽の摂政に就任。

<物語のあらすじ>

 寿永25月の倶利伽羅峠の戦いに続き、退却した平家軍と源義仲軍は、加賀篠原で激突。激戦の中で平家方は、高橋判官長綱・武蔵三郎左衛門有国・長井齋藤別当実盛など多くの侍大将を失い、都に引き退く。その数2万余騎(「篠原合戦」)。越前国府に付いた義仲は比叡山延暦寺の衆徒を味方に付けようと牒状を送り、衆徒は詮議の上これを受け入れた直後に平家からの山門に仇をなさないとの願書が届くがこれは無視される(「木曽山門牒状」「返牒」「平家山門連署」)。714日に鎮西の反乱を平らげた平貞能が帰郷するが、22日の夜半には六波羅で騒動が起きる。美濃源氏佐渡衛門尉重貞が、「すでに義仲軍5万は叡山東坂本に着き、山門の大衆はこれに味方し共に都に攻め入る」と伝えたから。平家は直ちに処方へ兵を遣わすが四方から源氏軍が攻め上ると聞いて都に兵力を集め、724日、院・天皇を伴って西国に落ちることを決める。だがこの情報を察知した院は行方をくらまし、翌25日、天皇と建礼門院の載る輿を中心に平家一門はあわただしく西国に。しかし途中まで同道した摂政殿は七条大宮から引き返して知足院へと引きこもってしまった。

<聞きどころ>

 「主上都落」は源氏軍の都侵攻を目前にあわてふためく平家の様を活写した句。冒頭で源氏軍が都に肉薄する様を「口説」で淡々と語った後、迎え撃つ平氏軍の陣容を「中音」で美しく語り上げるが、その後調子を一転させ、源氏軍が都の東西南北から攻めあがると聞いて全軍を都に引き上げさせたことを「拾」の「下音」「上音」で不気味に語る。そして反乱が全国に広がる中で平家がどこに安住の地を求めることができるかとの不安を「三重」「初重」で美しく歌い上げる。続いて宗盛が女院に都落ちを告げ、女院がその策を受け入れたさまを「口説」「初重」で淡々と語った後、頼みとした上皇が都落ちを察知して御所を忍び出でて行く方知らずになる箇所を「素声」で素っ気なく語り、頼みとした上皇に裏切られ置き去りにされた平家の悲しみを「中音」で朗々と歌う。最後に主上行幸と供奉する平家公達の様を「口説」「三重」で美しく歌い上げると見せて、その行幸の行列から摂政殿が離脱して北山の知足院に逃げ込むさまを、平家の衰運を暗示するように「指声」⇒「折声」⇒「口説」⇒「拾」で語る。とても曲節の変化に富んだ句である。

<参考>

 『平家物語』は迫りくる源氏と一戦も交えずに西国に落ちることを決めた内大臣宗盛を臆病者として描く。とりわけ『源平盛衰記』はこの傾向が強い。
 迫りくる源氏を前に、平氏一門が今後のことを決めた会議が詳しく語られる。そこでは内大臣宗盛が「味方の軍兵勢尽きたり。叶わぬまでも院内を引き具し参らせ、西国へ落ちて一間戸にもたすかりなばや」と方針を示すや、新中納言知盛が「西国へ落ち下らば助かるべきか。・・中略・・先祖の君の執し思し召し都なり。名将勇士の末裔なり。たとえ都にては塵灰となるとも如何はせん」と先祖の地である平安京を捨てることに反対し、都を枕に討ち死にする道を提起。これに、大納言教盛・修理大夫経盛が知盛に同心し、「矢種の尽きるまで戦い」「叶わざらん時は家々に火を懸けて自害するより外の事あらじ」と知盛に同調。一門の卿相雲客、郎等侍に至るまですべての人々がこれに同心した。
 これが『覚一本平家』などで宗盛が語った言葉である「ただ都のうちでいかにもならんと人々は申しあわれ候」が表現した中身だ。

 だが平安京の地理をよく考えれば、知盛や教盛の意見の方が無謀。なぜなら平安京は「七口」と称せられるほど、多くの街道がここに交わり、防衛する場合は軍勢が諸方に分散するので守りにくい。また攻める側にすれば敵を分散させられるので、たやすく攻め落とせる。実際に平安京防衛戦が問題となったのは歴史的にこの事件が初めてであったが、後世の歴史的諸事件に照らしても、宗盛の判断の方が冷静で正しい。ただし西国に逃げて再起を期するとしても、平家政権の正統性の要である法皇を拉致することが最も重要。様々に議論する以前に軍勢を遣わして法皇を確保すべきであった。

 宗盛には、この素早い決断と行動という点が欠けているといわざるを得ない。