忠度都落
<主な登場人物> ◆平忠度:忠教とも記す。天養1(1144)‐元暦1.2.7(1184.3.20)。伊勢平氏棟梁の忠盛の六男。清盛の異母弟。母は不詳。紀伊熊野で育ったといわれる。極官は正四位下薩摩守。源平争乱勃発以来、富士川の戦い(治承4・1180)・墨俣川の戦い(治承5・1181)・砺波山の戦い(寿永2・1182)に大将軍の一人として参戦。一の谷の戦い(元暦1・1184)で武蔵の武将・岡部六弥太忠澄に討たれた(「忠度最後」)。藤原俊成に師事した歌人としても知られ、『千載和歌集』(1188年完成)などの勅撰和歌集に11首の和歌が選ばれている。 ◆藤原俊成:永久2(1114)‐元久1.11.30(1204.12.22)。権中納言藤原俊忠の三男。極官は正三位右京大夫。50代のころより数多くの歌合の判者を務めて歌界の中心人物と目されるようになり、左大臣九条兼実の歌の師となり、後白河院による勅撰和歌集『千載和歌集』の選者となることで第一人者の地位を不動のものとした。後鳥羽院による勅撰和歌集『新古今和歌集』の選者・藤原定家は次男。 <物語のあらすじ> 主上都落に遅参した維盛など小松一門は、淀のあたりで一行に追いつく。淀川河口に源氏軍が集まったと聞いて駆けつけていた平貞能も淀で一行に合流したが、都落に従わず30騎余りをつれて京に馳せ登った(一門都落)。その中で薩摩守忠度は京に戻り、和歌の師である三位俊成卿の屋敷に6騎の供武者とともに参り、「勅撰和歌集選進の院宣が出されて自分お歌も採用されるかと期待したが、戦乱が相次ぐなかでその沙汰が中断した。しかしやがて穏やかな世になって勅撰和歌集選進が進行したならば、その折に私の歌を一首なりとも入れてほしい」と百余首記した巻物を奉る。俊成が謹んで受け取り「ゆめゆめ粗略にはしない」と答えると忠度は喜び「これでいつでも死ねる」と惜別の思いを込めて「前途ほど遠し・・・」と漢詩の一節を高らかに口ずさんで去った(「忠度都落」)。 <聞きどころ> 「忠度都落」は、よく練られた美しい句。冒頭、忠度が俊成の屋敷に行って先年来自薦の和歌を選ぶようにと言われていながら地方や中央の騒動に紛れて果たせなかったが、今や帝も都を出られ平家の運命も尽きてしまったと語る部分は、「口説」「素声」「口説」と淡々と語った後一転して「下げ」から節を「折声」「口説」「中音」と転換して、勅撰和歌集選者となったら自薦の歌を載せてほしいと切々と頼む。そして俊成卿がその頼みを承知した旨を「口説」でサラッと語った後、「これでいつでも死ねる」と喜んだ忠度の姿を、「初重」「指声」「峯声」「初重」と節を劇的に変えながら活写。そして最後に後に勅撰和歌集・千載集が選ぜられた際に忠度の歌が「詠み人知らず」で採用されたことを、その歌を「上歌」で語る場面を挟みながら、「中音」「初重」で美しく語り終える。 <参考>
『延慶本平家』や『源平盛衰記』では話の順序が『覚一本平家』とは異なり、『覚一本平家』では「忠度都落」「経正都落」の後に語られる「一門都落ち」をその前に入れている。つまり主上都落に際して、一門の頼盛は一行から離れて京に戻り、同じく京に残って源氏方につくかと思われた小松殿の公達たちが淀で追いついて一同はホッとする。そこに淀河口に集まったという源氏軍討伐のために先行していた平貞能が一向に合流したが、彼は都落に反対し、率いていた500余騎の軍勢を小松殿につけて、手勢30騎ばかりで京に戻ってそこで一戦を交えて死ぬと呼号した。これが「一門都落」の概要だ(ここは諸本平家で同じ)。この淀から淀川河口―福原へと向かう平家一行から離脱して、急遽京に戻った武将が3人描かれている。それが忠度と経正と行盛(頼盛の兄・基盛の嫡男。『覚一本平家』では省略)。彼らは小松殿一門や頼盛と同様に後白河院に重用され、都に残ってもそのまま生き残れた可能性の高い人々だった。つまり都落に際しての個々人の行動が記された平家の公達はみな、後白河と対立した平家主流とは一線を画した者たちだ。だがそれでもこの人々の動きは別れ、京に残ったは頼盛一党のみ。小松殿の公達は都落の一行に遅れて合流し、忠度と行盛はそれぞれの和歌の師に和歌を託し(忠度→俊成 行盛→定家)、経正は御室の御所に琵琶を返してから、平家一門と行動を共にした。 ★勅撰和歌集に掲載された忠度の歌 1:さゞなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな 1189年選(千載和歌集 巻第一 春歌上 66) 2:たのめつゝこぬ夜つもりのうらみてもまつより外のなぐさめぞなき 1235年選(新勅撰和歌集 巻第十三 恋歌三 854) 3:われのみやいふべかりける別れ路は行くもとまるもおなじ思ひを 1313年選(玉葉和歌集 巻第八 旅歌 1117) 4:うらみかねそむきはてなんと思ふにぞうき世につらき人も嬉しき (玉葉和歌集 巻第九 恋歌一 1391) 5:いとはるゝかたこそあらめ今更によそのなさけはかはらざらなん (玉葉和歌集 巻第九 恋歌一 1338) 6:ながらへばさりともと思ふ心こそうきにつけつゝよはりはてぬれ (玉葉和歌集 第十八 雑歌五 2554) 7:住吉の松としらずや子規岸うつ浪のよるもなかなん 1326年選(続後拾遺和歌集 巻第三 夏歌 171) 8:あれにける宿とて月はかはらねどむかしの影は猶ぞ床しき 1349年選(風雅和歌集 巻第六 秋歌中 623) 9:おり立ちて頼むとなれば飛鳥川ふちも瀬になる物とこそきけ (風雅和歌集 巻第十八 釈教歌 1058) 10:恋死なん後の世までの思ひ出はしのぶこゝろのかよふばかりか 1364年選(新拾遺和歌集 巻第十一 恋歌一 945) 11:うき世をばなげきながらも過ごしきて恋に我身やたへす成なん (新拾遺和歌集 巻第十二 恋歌二 1090)
補足資料 「忠度都落」 ★なぜ俊成卿は、数ある忠度の名歌の中からこの歌を「千載和歌集」に選んだのか? さざなみや志賀の都は荒れにしを むかしながらの山桜かな 1:「さざなみ」と「志賀」をセットにして歌う最も古い例・・・忠度の歌の下敷き 柿本人麻呂の歌 さざなみの志賀の辛埼幸くあれど 大宮人の船待ちかねつ (万葉集巻1―30) さざなみの志賀の大わだ淀むとも 昔の人にまたも逢はめやも(万葉集巻1−31) ※この二つの歌は天智天皇の近江京とそこで戦乱に散った人への哀歌と解釈されてきたがそれで良いのか? 2:天皇家の歴史の中で志賀に都をおいた例は二つある ●A:景行58年、大和纏向から近江志賀の高穴穂へ 次の成務の60余年はここに都があった・・・・ ●B:天智6年(667年)、大和岡本宮から近江の大津宮へ 10年12月天智が没すると翌年、弟・大海人皇子が吉野から美濃に移って挙兵。大津京を守る大友皇子の軍と瀬田の唐橋で激突し近江方は大敗。大友皇子は山前の山中で自殺。 ※古代史家古田武彦は柿本人麻呂の歌は直接的には仲哀の子・忍熊の悲劇を歌ったもので、間接的に大友の悲劇を悼んだものと理解(「人麿の運命」)。 ※どちらの近江京=志賀京の滅亡は王家の分裂によるもの。 3:「千載和歌集」の選集は文治5年(1189)。寿永3年(1181)2月の一の谷合戦(=福原合戦)での忠度の戦死と、寿永4年(1185)3月の長門壇之浦での平家滅亡(安徳入水)を見届けての話。 福原は、平清盛が日宋貿易の拠点として整備した和田泊(大輪田泊)を取り込んで、主にその西側に展開して都を建設しようとした地。作り始めてわずか五か月で平安京に還都してしまったので未完成ではあったが、内裏とした清盛邸や上皇御所とした頼盛邸など多くの邸宅が建てられていた。『覚一本平家』では詳しく語られないが、『源平盛衰記』では、一門で清盛の墓に参拝し、一門と累代の家人たちで一蓮托生を誓ったあと、入道相国(清盛)のために管弦の講を催したと記す。忠度・通盛は笛、清経・清房は笙、忠房は和琴、経俊は鞨鼓、時忠は鉦鼓、宗盛は太鼓、琵琶や琴は女性たち。その後法華経の読誦も行われて清盛のための管弦と経の読誦の法要は終わると(33巻「福原管弦講の事」)。和田泊から船を出して西に向かえば、平家の配下の水軍が支配する瀬戸内海を経て、重要な平家領が広がる九州太宰府付近に到達する。 この福原に平家が再び戻ってくるのは、翌年寿永3年(1184年)1月。平安京を退去した寿永2年(1183年)7月25日から、約五か月後のことである。 平家滅亡も王家の分裂が原因。そして忠度戦死の場は福原の都の西の守りである一の谷のさらに西の須磨の陣を逃れ西の明石に至る海岸。 もしこの時源氏方が有力な水軍を味方につけて居れば、陸の三方からと海からの四方から福原を攻めて、平家一門を福原の玄関である和田泊の沖の海に滅ぼすことができたはずである。 この福原に平家が再び戻ってくるのは、翌年寿永3年(1184年)1月。平安京を退去した寿永2年(1183年)7月25日から、約五か月後のことである。 ◆以上の1から3を考慮して忠度の歌を読めば、若き日の忠度がまるで平家王朝の滅亡を予見していたかのような感慨に打たれる。これがこの歌を選んだ理由では?
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