経正都落

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<主な登場人物>

◆平経正:?‐元暦1.2.7(1184.3.20)。清盛の弟・平経盛の長男。大夫敦盛の兄。正四位下・但馬守。父の経盛が長く太皇太后宮(近衛・二条の妃であった藤原多子)の亮や権大夫などを務めた関係で、政界や和歌界の中心を占める閑院流藤原氏とも関係が深く、皇室・後白河院との関係が深く、後白河院の息子の守覚法親王が門跡を務める仁和寺の歌会の参加者であったことなどから、嫡男経正も父経盛と同様の人脈の中で歌人として活動した。幼い時には鳥羽院の息子の覚性入道親王(後白河院同腹の弟)が門跡を務める仁和寺の稚児であり、覚性法親王にその才能が認められて、皇室の名器・琵琶青山を預けられたという。元暦元年の一の谷の合戦で武蔵の武士・河越太郎重房に討ち取られた(「知章最期」)。

守覚法親王:久安6.3.4(1150.4.3)‐建仁2.8.25(1202.9.12)。後白河院の第二皇子。様々な大寺院の長吏を務め嘉応元年(1169年)に覚性入道親王が没した後を継いで仁和寺門跡となる。仁和寺の御所には多くの僧俗が祗候して,管弦や和歌や記録の文化サークルが作られていた。

<物語のあらすじ>

主上都落に遅参した維盛など小松一門は、淀のあたりで一行に追いつく。淀川河口に源氏軍が集まったと聞いて駆けつけていた平貞能も淀で一行に合流したが、都落に従わず30騎余りをつれて京に馳せ登った(一門都落)。その中で皇后宮亮経正は仁和寺の御室の御所を5・6騎の供を連れて尋ね、御室(守覚法親王)に預かっていた皇室の名器琵琶「青山」を田舎の塵と化すも口惜しいとて返却し 、名残を惜しむ御室や元同輩たちと別れの和歌を交わし、百騎ばかりの手勢を引き集めて主上行幸に合流した。

<聞きどころ>

  「経正都落」もよく練られた美しい句。冒頭経正が御室を訪ねたさまを「口説」でサラッと語ったあと、経正の申し状を「折声」「指声」「素声」で、さらにその日の経正の凛凛しい姿と琵琶青山を差し出す場面を「拾」の「上音」「下音」を駆使して印象深く語る。そして青山を返すにあたっての経正の口上は「折声」「口説」、さらに二人が歌を交わす場面を「上歌」「下歌」と変化に富んだ曲節を駆使。また御所退出の折にかつての同輩たちと和歌を交わす場面も「上歌」「下歌」を交えながら「中音」「初重」の曲節で朗々と語り、最後に御所を退出した経正が周辺に隠しおいた軍勢を集めて帝の行幸に合流する様を「拾」で軽快に語って終わる。

<参考>

 笛や琵琶などの楽器の演奏も上級貴族の必須のたしなみであった。経正が琵琶の名手であることは、『建礼門院右京大夫集』に西八条の清盛邸に中宮徳子が宿下がりをしたおりに、兄弟や一門の多くが集まって管弦や和歌の会を開いた様子が描かれているが、その中に「維盛、朗詠・笛吹き、経正琵琶弾き、御簾の内にも琴掻き合わせ」などとその様子が具体的に描かれている。当時から経正が琵琶の名手であったことを物語る史料だ。また同じく笛の名手であった忠盛が鳥羽院ら「小枝」という名の笛を賜り、この笛は、同じく笛の名手であった経盛−敦盛と伝えられたとは「敦盛最期」に記された。

 皇室に伝来した琵琶の名器と同じ名の「青山」との銘を持った琵琶は、現在いくつか伝来している(福岡市美術館所蔵、福岡黒田家伝来品。宇和島市立伊達博物館所蔵、宇多島伊達家伝来品。)が、どれも後世の模造品。本物はいつの世か失われたと、江戸時代初期に書かれた雅楽書『楽家録』は記す。これは同じく琵琶の名器として皇室に伝来、主上都落に際して持ち出されたと記された「玄上(玄象)」も室町初期までは宮中にあったとの記録が残るが今は伝えられていない。