実盛最期

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 物語の背景

   以仁王の令旨に応えて信濃国木曽で挙兵した源義仲は、信濃や越後・越中の反平氏軍を合わせて大軍となり北陸路から都を伺う。寿永二年(1183511日夜半の越中と加賀の境にある砺波山の戦で追討の平家軍に義仲は大勝。521日には加賀国篠原に陣を敷く平家軍を義仲軍が急襲して打ち破り、敗残兵が逃げ惑う中、大将の鎧直垂をきた齋藤長井別当実盛が、ただ一人留まり討死した場面を描く。

物語の要旨

   武蔵国長井の住人・齋藤別当実盛は、赤地の錦の直垂に萌黄縅の鎧着て、鍬形うったる兜の緒を締め、黄金づくりの太刀を履き、切斑の矢負い滋藤の弓以て、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍置いて乗ったりける大将の出で立ちをして源氏軍の前に立ちはだかる。木曽方より手塚の太郎が良き敵とみて進み出で、「お味方総崩れの中に唯一騎留まるとは何と奇特なことか。名乗らせ給え」と声をかけると、齋藤は「こういう汝は何者ぞ、名乗れ」と答えたので、手塚は、「信濃国の住人・手塚太郎金刺光盛」と名乗ったところ、齋藤は「存ずる旨があるので名乗らない」と言い放ち、直ちに手塚に組もうとしたところ、手塚の郎党が主危うしと見て齋藤にむずと組んだところ、齋藤はそれを鞍に押し付け首を掻き切って捨てた。手塚の太郎は郎党が討たれるのを見て齋藤の左手に回り鎧の草摺を引き上げて二刀刺し、弱るところを組んで落とし、遅ればせに駆け付けた郎党に首を取らせ、木曽殿の前にその首を据えて戦況を報告した。「侍かと見れば錦の直垂を着ており、大将かと見れば続く勢もいない。名乗れ名乗れと責めたが名乗らなかった。声はたしかに坂東声であった」と。
 木曽殿はその首を一目見て齋藤別当実盛と見破り、「それにしても自分が武蔵から上野・信濃と逃げ延びた際に齋藤にあったが、当時すでに白髪頭であり、今なら差しずめ70歳も過ぎておろうが、どうして髪や髭が白髪ではなく黒いのか。樋口次郎は互いに見知った間柄だから、樋口を呼べ」と下知した。命に従って参じた樋口は、その首を一目見るなりはらはらと涙し、齋藤の髪や髭が白いわけを語った。
 齋藤は常日頃語っていたことは、60歳もすぎた今日は、戦場に赴く際には若やいだ直垂や鎧を着け、髪髭も黒く染める。なぜなら若武者の先を懸けていくも大人げないが、老武者と侮られるのも口惜しいからだと。樋口の言に沿って首の髪や髭を洗ったところ、まさしく白髪であった。
 そしてさらに齋藤が大将の姿をしていることは、今回の北国の戦に赴く前に、平家大将軍平宗盛の前に出でて、三年前の治承四年(1880年)10月の富士川合戦の際に水鳥の音に驚いて戦一つせずに逃げ上ったことは実盛一代の恥辱である。今度北国に赴いて戦場に出た際には自分は必ず討死するであろう。自分は元々越前の出で、所領を得て武蔵に住んでいるが、故郷に錦を飾るの喩もあるので、ぜひ大将軍の格好をして戦に出て討死したいと申し出たというと、樋口は語った。
 齋藤は、恩有る主人の平重盛の嫡男である大将軍平維盛を逃がすために、大将軍の出で立ちでただ一騎源氏軍の前に立ちはだかり、戦死を遂げたのだ。

この物語の意図するもの

  この物語の ハイライトは、侍大将にすぎない齋藤長井別当実盛が、大将軍の姿をしてただ一騎迫りくる源氏軍の前に立ちふさがって壮絶な戦死を遂げる様を描くことにあるのだが、その実盛の戦死の真意を、木曽義仲の腹心の部下で乳母子でもある、樋口次郎が、涙にくれながらも、切々と実盛の想いを代弁するところにこそある。
 物語作者が描きたかったことは、大将軍の身代わりとして死ぬ老武者齋藤実盛の、主家に対する忠義の心情と、戦に命を懸けかつ名誉を重んじる武士の悲しい心情にも思いをはせようとしたところに、この物語の眼目はある。

物語の背景

  しかし、齋藤実盛の心情をより深く理解するには、齋藤家の来歴と、実盛と平重盛家、小松家と呼ばれた平家嫡流家との関係を歴史的に見ておかねばならない。
 齋藤氏とは平安初期の武士・藤原利仁(上野介・上総介・鎮守府将軍・武蔵守)の子、藤原叙用(のぶもち)(斎宮寮頭)に始まる有力武士団で、藤原摂関家・清和源氏の有力被官として諸国国司や押領使を歴任した。もともとは越前が根拠地であるが、一族は北陸の加賀や能登にも広がり、さらに関東の武蔵など全国に一族を広げた。
 実盛は越前河合齋藤の一族で武蔵国長井荘を根拠地とする。
 実盛がいつ越前から武蔵に来たかは定かではない。資料で明らかなことは、保元の乱以前に遡る。
 
 久寿2年(1155年)8月16日に、鎌倉に拠点を置いていた源義平(義朝の長男)が、上野国多胡荘を拠点として関東を制圧しようとしていた源義賢の館を急襲し、義賢を殺して関東を制圧した事件(大蔵合戦)があった。この事件の背景には、清和源氏源経基流の河内家の家長を巡って、源為義と息子の義朝の間に激しい争いが起きていたことだ。義朝が鎌倉を拠点に関東一円の武士団をその配下に組み込もうとしていたことに対して、為義は、次男の源義賢を上野国多胡荘に送り、上野を拠点として関東を掌握しようと動いたのだ。
 この動きを見た義朝の長男で鎌倉にいた義平が兵を率いて多胡の義賢館を急襲し、義賢を殺したのが大蔵合戦であった。
 この時すでに義盛は義賢の家人であり(元は義朝の家人)、合戦後は義朝の家人となったが、乱後の処置を任された畠山重能から義賢の一子駒王丸(後の義仲)を預かり、駒王丸の乳母の夫である、信濃国木曽の豪族・中原兼遠の元に送り届けたとされている。つまり源義仲にとって齋藤実盛は命の恩人なのだ。物語で齋藤の首実検をした樋口次郎は中原兼遠の息子である。
 この時実盛の年齢は天永2年(1111年・源平盛衰記による)生まれなら44歳。大治元年(1126年・保元物語による)なら29歳である。

  越前国(福井県)に実盛生誕の地とされるところがある。越前国方上荘(現・鯖江市南井町)だが、この地は藤原摂関家の荘園でもあるので、齋藤実盛の一族は、藤原摂関家の荘園の荘官として勢力を伸ばしていたものと思われる。そして実盛の母の実家は、越前国方上荘の北方の長畝(坂井市丸岡町長畝)の豪族・秦豊国と伝えられているので、実盛一族がこの地を元々の拠点とし周辺豪族とも婚姻関係を重ねていたことがわかる。

  また平家物語では実盛自身が武蔵に所領を得たかのような語り口になっており、この部分の国文学者による注釈の多くは、その所領は平家の荘園であったとしている。
 しかし平家が、北陸の越前国や関東の武蔵国にその勢力を伸ばしたのは、平治の乱(1159年)で清和源氏の勢力が凋落し、平氏が後白河院の院近臣として絶大な力を以て以後のことである。
 平氏が武蔵守を歴任するようになった最初は、永暦元年(1160年)の平知盛が最初であり、これが仁安元年(1166年)まで続き、以後知盛・知重・知盛・知度・知章と続き、これは寿永二年(1183年)まで続いているので、武蔵国は平氏の知行国であったと見られる。。平氏が関東に荘園を持ったとしたらこの時期であるが、すでに実盛が久寿2年(1155年)にすでに長井荘に居住し源義朝・義賢の家人であったということは、長井荘が源氏の主人である藤原摂関家の荘園であった可能性を示唆している。
 さらに齋藤実盛家の元々の拠点である越前と平氏の関係だが、これも平治の乱(1159)年以後のことである。
 平重盛が平家棟梁を継いだのは、仁安2年(1167年)5月、東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨を受けた時だが、この時期以後重盛は院の近臣として複数の国を知行国としたが、それは、越前国・丹後国であった。
 越前を拠点とする河合齋藤家と平家との出会いは、実にこの時期であり、武蔵長井を拠点とする齋藤実盛と平家との出会いもこの時期であった。

  齋藤実盛は、保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)には源義朝の有力家臣として活躍し、平治の乱で平清盛に敗れた義朝がわずかな兵を連れて関東に敗走したときも行動を共にし、京を出でた後に義朝とは別れて(別道を取って)関東をめざし、無事に武蔵国長井荘に戻ったようだ。
 実に齋藤実盛は、先祖代々の清和源氏の家人であり、自身も源氏河内家棟梁である源義朝の有力な家人として保元・平治の乱を戦い抜いたのである。
 彼が平氏の家人になったのは、この平治の乱(1159年)以後のことであり、彼の死から遡れば、わずか24年前のことである。
 もしかしたら実盛は、平治の乱で義朝と別れて落ち延びる際に、直接関東に下向したのではなく、本来の拠点である越前国の方上荘(現・鯖江市南井町)に戻ったのかもしれない。そしてそこで新たに国守となった平重盛と出会いその家人となり、そのまま都に赴いて、平家の小松家の家人として過ごした可能性もあるのだ。
 平治の乱に出陣するに際して、武蔵国長井荘は実盛の年の上の息子たちに任せたのかもしれない。実盛は48歳。隠居してもおかしくない年齢である。そして自身が京に赴いて平家小松家の家人となった際に、長井から年の若い息子たちを呼び寄せたか、京で新たに妻をめとり、そこで息子を新たに授かったのかもしれない。平家物語によると実盛は、北国に出陣する際に、初陣を願って従軍することを願った息子の、齋藤五と齋藤六に対して、お前たちは小松家に残り、当主・平維盛の嫡男・六代をお守りしろと言い置いて出陣している(そしてこれはこの三年まえの富士川合戦の際も同様であったと思われる)。初陣ということは齋藤五・齋藤六はまだ20歳前の若者ということなので、実盛が京に赴いて後の息子ということだ。

  従て齋藤実盛には、平家累代の家人であった武者たちとは異なって、何も平維盛の身代わりとなって死ななければいけない義理はないのだ。

  もしかして実盛が平治の乱の折に生き延びたのは、平重盛の計らいがあったのかもしれない。それゆえ実盛は、おそらくこの治承・寿永の戦乱に際しては、武蔵の長井においてきた年の行った息子たちは皆源頼朝方についていただろうに、武蔵に戻って頼朝方に就くのではなく、平家方に残って討死をする道を選んだのかもしれない。
 この「実盛」の句の前の「篠原合戦」の冒頭には、このとき平家軍に従軍していた関東の名だたる侍大将たちが集まって、「勢いのある源氏の勢に就くのではなく、平氏に殉じてここで死のう」と言い交し、この会合に集ったものたちは、実盛だけではなく、俣野五郎景久・伊藤九郎助氏・浮巣三郎重親・真下四郎重直ら、関東を代表する武将たちが枕を並べて討死したことも、おそらく彼らも平治の乱までは源氏累代の家人であったろうに、その後の平氏の縁から平氏に味方し、この四人は頼朝挙兵の折に弓を引いたこともあって、関東に戻るに戻れず、平氏に忠義を尽くしたということなのであろう。

  こうした齋藤実盛を始めとする、平治の乱での源氏凋落によってやむなく平氏家人となった武者たちの、主家との関係の歴史を踏まえてみると、主家への忠義と名誉を重んじたその生き方故に、篠原の合戦で死ななければいけなかった悲しさが、際立ってくる。