福原落

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<主な登場人物>

◆内大臣平宗盛:1147(久安3年)‐1185.7.19(文治元年.6.21)。清盛の3男で、母は平時子。治承3年(1179)の重盛の死後は氏の長者としてその中心に位置し、4年の源氏反乱に際しては、父清盛を説得して都を福原から平安京に戻し、翌年1月には畿内近国の軍事組織である惣官職を設置して惣官となり、清盛の死後は平氏総帥となる。壇之浦合戦敗北後入水するも助けられ、鎌倉に送られた後に、京に戻す途中で切られた。『平家物語』は宗盛について厳しい人物評価を与え、無能で器量なしとしているが、実像は不明。

<物語のあらすじ>

 主上行幸に遅れた小松殿一門は維盛始め兄弟6人で手勢1000余騎を従えて、淀の六田河原で追いつき、ここに西国に向かう平家勢は総勢7000余騎となった(「一門都落」)。福原の旧都についたのち、大臣殿(宗盛)は主だったもの数百人を召して、「一同は皆、近親や累祖相伝の家人である。主上行幸に従っていかなる山奥までも付き従ってくれるか」と問うと、人々は皆異口同音に「いずくまでも」と答えた。翌朝清盛が作った福原の都を見渡すと、いずれの建物もこの3年が間に荒れ果て苔むしていた。平家一門は、福原の内裏に火を懸けた後、主上以下一門は船に乗って福原を離れた(「福原落」)。

<聞きどころ>

「福原落」はとても悲し気な美しい句。7千余の軍勢を従えた平家一門が旧都福原に集い、そこで一味同心して帝と共に西国の果てまで落ちる覚悟を決めるまでの様を、入道相国が作った旧都の美しいさまを交えて、「口説」「折声」「指声」「素声」「中音」「初重」「中音」「初重」で美しく語ったあと、福原内裏を焼き払って船出する様を、「初重」「三重」「初重」「中音」と美しくかつ悲し気に語り終える

<参考>

  福原は、平清盛が日宋貿易の拠点として整備した和田泊(大輪田泊)を取り込んで、主にその西側に展開して都を建設しようとした地。作り始めてわずか五か月で平安京に還都してしまったので未完成ではあったが、内裏とした清盛邸や上皇御所とした頼盛邸など多くの邸宅が建てられていた。『覚一本平家』では詳しく語られないが、『源平盛衰記』では、一門で清盛の墓に参拝し、一門と累代の家人たちで一蓮托生を誓ったあと、入道相国(清盛)のために管弦の講を催したと記す。忠度・通盛は笛、清経・清房は笙、忠房は和琴、経俊は鞨鼓、時忠は鉦鼓、宗盛は太鼓、琵琶や琴は女性たち。その後法華経の読誦も行われて清盛のための管弦と経の読誦の法要は終わると(33巻「福原管弦講の事」)。和田泊から船を出して西に向かえば、平家の配下の水軍が支配する瀬戸内海を経て、重要な平家領が広がる九州太宰府付近に到達する。

 この福原に平家が再び戻ってくるのは、翌年寿永3年(1184年)1月。平安京を退去した寿永2年(1183年)725日から、約五か月後のことである。
 福原落のあと九州に向かった平家は太宰府に居を構えようとしたが、後白河院の命を受けた豊後の緒方三郎の勢力の圧迫により太宰府を退去した。だがその後も九州と瀬戸内の水軍の支持を得て、やがて拠点を讃岐の屋嶋に移し、そこから対岸の福原に再び戻ってきたわけだ。
 「平家物語」はあまり平家の背後の水軍の事について語らないが、再び福原に戻った平家を源氏が打ち滅ぼすことができなかったのも源氏が有力な水軍を味方につけられなかったからであり、その後京都から山陽道を陸沿いに九州を目指して平家を討とうとした源範頼軍が苦戦したのも、水軍によって機敏に移動する平家軍の海からの攻撃で翻弄されたからである。