火打合戦

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<主な登場人物>

◆北国の武士たち:名前を示された人はみな越前・加賀の齋藤氏。他のものは能登と越中の在地豪族。

齋命威儀師?1183 越前(福井県)の河合斎藤氏の一族、齋藤実信の子。兄弟に友実(−?1185斎命の弟。守覚法親王につかえ、仁安3年検非違使となる。のち源義仲につかえ、元暦元年(1184)源義経の家人となるが、文治元年111日殺された)がいる。越前(福井県)平泉寺の長吏、威儀師。源義仲の武将として越前燧城にこもるが、維盛に内応して義仲軍を敗走にみちびく。のち倶利伽羅峠で平家は敗れ、齋命は捕らえられて寿永2211日、義仲の前で首をはねられた。小松家軍団の侍大将・齋藤実盛とは又従兄弟(実盛の父実直と斉明の父実信が従兄弟)。

稲津新介(実澄):?−? 越前(福井県)の河合斎藤氏の一族、齋藤景実の子。齋藤実信の従兄弟。

●齋藤太:不明 齋藤太郎ということだろうが、おそらく越前齋藤氏本流の誰か。

富樫入道仏誓:?−?加賀齋藤氏の棟梁格、富樫氏4代当主・富樫家経の子として誕生。泰家。寿永2年(1183年)、源義仲の平氏討伐に応じて平維盛率いる大軍と加賀国・越中国国境の倶利伽羅峠にて対陣に際し、燃え盛る松明を牛の角に結びつけ敵陣に向けて放ち夜襲をかける、大胆な戦略を立てたと伝わる。寿永3年(1184年)に義仲が源頼朝の命を受けた源範頼・義経に討たれた後は加賀守護に任ぜられる。奥州を目指す義経一行を見逃して守護を解任される。「義経記」の関守・富樫介のモデル。後に剃髪し法名を仏誓とし、名を富樫重純(成澄)と改める。

林六郎光明:富樫氏の同族。加賀齋藤氏の棟梁格。林光家(従五位下・林大夫)の子。

 <物語のあらすじ>

 寿永2年(1183年)417日に京を発って北国街道を北上する平家軍を迎え撃つべく、源氏勢は越前南部の要害火打ケ城に人工の湖を配置して要害化し、北国街道を遮断。しかし城将の一人の齋命威儀師が平家に内通し、人工の湖の堰を破壊する方法を知らせたため平家の大軍は城に攻め込み、内応した齋命威儀師軍の奮闘もあって城は落ちる。他の城将の内、加賀齋藤氏の富樫・林氏らは加賀に落ち延び白山北麓の河内に城を築いて応戦したがここも落とされ、平家軍は加賀に進出。寿永2年(1183年)58日、平家軍は加賀篠原にて勢ぞろいし、軍勢を大手・搦め手の二軍にわけ、大手軍は加賀と越中の境である砺波山へ、搦め手軍は能登と越中の境である志保の山に進軍。平家軍の動きを聞いた義仲は、越後国府を発って、志保の山には伯父源行家勢を派遣し、他の軍勢で砺波山の周辺を固めて決戦に備えた。

 <聞きどころ>

 前の2句(「横田河原合戦」「北国下向})は比較的に淡々とサラッと語る特徴があったが、この句は、短いが変化に富んだ美しい句。越前南部の要害燧ケ城のありさまは「中音」「拾」「三重」「初重」で美しく語り上げ、城兵の平泉寺長吏齋命威儀師が城の守りの弱点を平家に告げ、平家がこの弱点を一気に攻めて城兵を追い落とすまでは、「口説」「強下」「強声」「素声」「拾」などで変化に富んだ口調で一気に語り通す。最後に平家勢が加賀篠原に勢ぞろいし加賀と越中の境なる砺波山に向けて発向し、木曽勢もまた砺波山に向けて発向する様を「素声」「口説」でサラッと語った後、木曽勢の布陣の様を「拾」で勇壮に語り終えて、次の戦の木曽勢勝利を暗示する。

<参考>

 火打ケ城がある愛宕山(福井県南条郡南越前町今庄)は、日野川沿いに北上する北国街道の西に位置する比高130mほどの山。東に日野川(能見川)、城の南で西から来た鹿蒜(かひる)川(新道川)が日野川に合流。越前から近江に通じる街道沿いの要衝・栃の木峠、木の芽峠に通じる要衝。この二つの川の合流点に堤を築いて川を堰き止め、山の周囲に人口の湖を築いたもの。この城の攻略法を平家に伝えた齋命威儀師は越前齋藤氏で、平維盛軍の侍大将・齋藤実盛の又従兄弟。おそらく実盛経由で内通の話が来てそれに応じたものか。

つまり越前の支配的勢力が、かつて越前守であった平重盛に臣従した越前齋藤氏であったことを背景として源氏追討軍の主力に、小松家の軍団を起用した策が当たったということか。越前齋藤氏が平家に内応したために火打ケ城は落ち、さらに加賀齋藤氏の拠点を落とすことができたので平家は北国街道の能登・加賀と越中の境まで進出できた。

しかしこれは危険な行動と言わざるを得ない。
 なぜなら加賀齋藤氏を敵にしたということは、平家軍の背後の加賀国そのものが敵に寝返る危険を伴っていたからであり、源氏方に味方した加賀齋藤氏は土地の状況をよく知る者たちであり、ために地の利としては源氏方が有利となる。

そして「主な人物」の項で、加賀齋藤氏の棟梁格の富樫入道仏誓が義仲に臣従し砺波合戦での奇襲策を講じたといわれるように、この境の地域の地元の武士団である加賀齋藤氏(富樫・林氏)は義仲に忠誠を誓って義仲軍にあったことが、砺波山合戦や志保山合戦での義仲勢の勝利に繋がったものと思われる。
 そしてこの敗戦によって齋命威儀師はとらえられて処刑され、さらに続く篠原の戦いでは齋藤実盛も討ち死にすることとなる。