願書

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<主な登場人物>

◆覚明:生没年不詳。「かくみょう」とも。本名信阿。信救とも。はじめ勧学院の進士であったが114050年代に出家して比叡山に登り、北陸修行ののちに南都の学侶となる。治承4(1180)年以仁王の変で園城寺への返牒を草すが、「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」の表現が平清盛を怒らせる。北陸に逃げて大夫房覚明と名乗り、源義仲の右筆(書記)を務め、『平家物語』に願書、牒状を残す。義仲死後は信救得業と号し、建久1(1190)年ごろには鎌倉に、やがて箱根山に住み、仏事の導師や願文起草を行う。建久6年に素性が源頼朝に知られ、禁足処分を被る。元久2(1205)年には存命。『和漢朗詠集私注』(1163)、『新楽府略意』(1172)、『仏法伝来次第』、『筥根山縁起并序』などを著す。華麗な文才と遍歴は、『平家物語』生成に多くの文書資料、話材を与えたと考えられ、後には、覚明は箱根山出奔後は近畿に移り住み、比叡山延暦寺の慈鎮和尚の知遇を得て法然とも親しく交わって法弟子となったとの伝説も生まれ、そこから覚明は『平家物語』作者の一人との伝説まで生まれている。

 <物語のあらすじ>

  寿永2年(1183年)417日に平維盛・平通盛を大将軍とする源氏追討軍10万余騎は都を発向し(「北国下向」、これに対して北陸の源氏方は越前南部の要害火打ケ城に人工の湖を配置して要害化し、北国街道を遮断して迎え撃ったが、城将の一人の齋命威儀師が平家に内通し、人工の湖の堰を破壊する方法を知らせたため平家の大軍は城に攻め込み、内応した齋命威儀師軍の奮闘もあって城は落ちる。他の城将の内、加賀齋藤氏の富樫・林氏らは加賀に落ち延び白山北麓の河内に城を築いて応戦したがここも落とされ、平家軍は加賀に進出。寿永2年(1183年)58日、平家軍は加賀篠原にて勢ぞろいし、軍勢を大手・搦め手の二軍にわけ、大手軍は加賀と越中の境である砺波山へ、搦め手軍は能登と越中の境である志保の山に進軍。平家軍の動きを聞いた義仲は、越後国府を発って、志保の山には伯父源行家勢を派遣し、他の軍勢で砺波山の周辺を固めて決戦に備えた(「火打合戦」)。木曽勢は平氏勢に先立って砺波平野に大軍がいると見せかけて平氏勢を砺波山中に足止め。義仲は陣を置いた羽丹生に八幡宮を見つけ、戦勝祈願の願書を手書きの覚明に書かせて宝殿に奉納。八幡神はその願いを聞き届け、雲の中から山鳩三羽が飛び来たって源氏の白旗の上を飛び回った。

 <聞きどころ>

 寿永2年5月11日。砺波山の山裾に展開した源氏勢と山の上に展開した平氏勢との間はわずかに三町(300m)ほど。昼の間は互いに軍勢を出して鏑矢を射るなどの示威行動に終始。夜になって北側から山の西側に進んだ源氏勢が平氏勢の拠る倶梨伽羅堂の辺りまで達し、この勢と正面に展開する義仲勢、さらには山の南に回り込んだ今井四郎勢などが一度にどっと鬨の声を上げて攻めかかった。奇襲に驚き逃げ場を失った平家勢は我先にと、陣を敷いていた猿ケ馬場の南に広がる谷へと落ち降り、そこで多くの将兵を失い、大将軍維盛らは辛うじて加賀の国へ引き退いた。翌12日には奥州の藤原秀衡から戦勝祝いの馬が届けられる。戦いに勝った義仲は越中と能登との境の志保山に向かった叔父十郎行家を心配して2万騎を選りすぐって駆け付けたところ、案の定行家勢は平氏勢に打ち負かされ引き退いていたが、新手の源氏勢が現れたことで形勢逆転し、ここでも平氏勢は多くの将兵を失った。義仲は志保山を超えて能登に進軍し、小田中の新王塚の前に陣を敷いた。

  「願書」の中心は、義仲の手書である大夫房覚明の書いた八幡神への願書と、その願書に応えた八幡神が、使いである鳩を三羽遣わして、戦勝祈願を受け入れた旨を示した場面。したがってこの句の中で変化に富んだ曲節で語られるのはこの部分。最初に木曽の謀とそれにはまった平氏軍が砺波山中に留まった話を「口説」で淡々と語り、平氏の未来に暗雲が立ち込めていることを暗示するかのように「強下」で平氏が山中に留まったことを語る。このあと様々な曲節が駆使される。まず義仲が八幡宮を見つけた場面を「中音」で朗々と語り、その後木曽が八幡神に戦勝祈願の願書を奉るべく、手書の大夫房覚明に命じる場面までを「口説」でさらっと語る。いよいよここからが句の中心。まず覚明のその日の装束を「強声」⇒「口説」⇒「強下」で力強く語り、その後、南都にいた最乗坊信救(覚明の前の名)が高倉宮以仁王の蜂起に呼応する返牒で平清盛を「武家の塵芥」と罵ったため南都を追放されたとの素性を「素声」でサラッと語り、この一節の最後に、覚明が南都を追放され義仲の下に来た由来と太夫坊覚明と名乗った由来を「強下」「指声」でオドロオドロシク語る。そしていよいよ覚明の書いた「願書」。ここは「読物」と呼ばれる軽快な曲説で朗々と読み上げ、八幡社の宝殿に納めたと語る。最後にこの願書に八幡神が応えて使いの鳩三羽を遣わしたことと、源氏には八幡神の加護が付いているさまを、神功皇后の新羅征討と源頼義の前九年の役における安倍氏との戦いで八幡神のご加護があったとの由来を、「三重」「初重」「中音」で高らかに語り終える。この曲節の変化に注目。

<参考>

 木曽義仲が羽丹生八幡宮に納めた願書の実物なるものが富山県小矢部市埴生2992の埴生護国八幡宮の宝物殿に現在でも伝えられている。しかし文字の剥落がひどく読めない(上の写真の左)。右は江戸時代になって加賀藩が書写させたものでこれは読め、「平家物語」に掲載されたものと同じ文言のようだ。だがこれらが実物であるかどうかの確証はない。「願書」の章の本来の形は、願書本文を掲げたあとで、八幡神がその願いを聞き届けたことを示すために山鳩三羽を源氏の白旗の上を飛び回らせ、木曽以下の源氏勢は兜を脱いで礼拝したところで終わる形。最も古体を示す『延慶本平家』や『源平盛衰記』はこの形だ。それが語り物としての完成形を示す『覚一本平家』や『120句本平家』では、神功皇后以来の八幡神の加護の歴史を付け加えた形にし、この歴史を知っている義仲が礼拝した形に変えたものか?

 この「願書」から「倶利伽羅落」の条は、『平家物語』作者による多くの事実書き換えと修飾が目立つ箇所。
 「願書」ではまず、源氏勢が先に砺波山の山すその平野を制圧して平氏勢が砺波山中に留まることになった由来を『覚一本平家』は義仲の策略とし、砺波山裾の黒坂に多くの旗指物を掲げて平氏勢以上の源氏勢がいると見せかけた謀に平氏勢が騙されたとする。しかしより古体を示す『延慶本平家』や『源平盛衰記』では、源氏方が先手を打って砺波山の東の砺波平野を制圧したため、平氏勢は山を下りられなかったと記す。すなわち、源氏方の今井四郎が率いる
6000の先遣隊が越中に入って呉羽山を占拠。遅れて越中に入った平氏方の平盛俊率いる約5000の先遣隊が般若野に陣を敷き、源氏勢が呉羽山に陣を敷いたことを知るとそこで進軍を止めた。これを見て今井勢は夜襲をかけて盛俊軍を打ち破ったため、平盛俊は加賀の国に舞い戻って善後策を立て、勢いに乗った義仲勢は本陣を般若野に移し、さらに川を渡って埴生など砺波山裾に陣を展開した。この結果平氏勢は砺波山の上、源氏勢は砺波山の裾に陣を敷いて対陣する結果となったと記している。
 つまり越中の国での主戦場となるべき般若野をどちらが先に制したかということと、派遣した先陣に続いて如何に早く本陣を移すことができたかが、砺波平野を制覇する可否を決めたのが事実だ。
 そして山の上に陣を敷いた平家方が不利なように「平家物語」はどれも書いているが、当時の飛び道具の弓矢を考えてみれば、より高い場所に陣を敷いた方が有利であり、しかも山すそに展開する源氏軍5万に対して山上に展開する平氏軍7万なのだから、軍勢の数からいっても平氏軍の方が有利である。だからこそ平氏軍に山上から一気に押し出されることを警戒した義仲は、北に1万、街道沿いの正面に本軍の1万、さらに山の南方に2万あまりで山からの進行方向を包囲する陣形を敷いて、さらに包囲網を突破されたときの備えとして伏兵1万を置いたのだ。
 しかもこの備えでも不利であることを見越して、昼間の内は適当に闘って決戦に持ち込まず、夜になったところで東西から奇襲するという戦法を取ったのだ。
 平野に互いに陣を構えても、山上と山すそに別れて陣を構えても、軍勢の多い方が有利だったのだ。