倶梨伽羅落
<物語のあらすじ> 寿永2年5月11日。砺波山の山裾に展開した源氏勢と山の上に展開した平氏勢との間はわずかに三町(300m)ほど。昼の間は互いに軍勢を出して鏑矢を射るなどの示威行動に終始。夜になって北側から山の西側に進んだ源氏勢が平氏勢の拠る倶梨伽羅堂の辺りまで達し、この勢と正面に展開する義仲勢、さらには山の南に回り込んだ今井四郎勢などが一度にどっと鬨の声を上げて攻めかかった。奇襲に驚き逃げ場を失った平家勢は我先にと、陣を敷いていた猿ケ馬場の南に広がる谷へと落ち降り、そこで多くの将兵を失い、大将軍維盛らは辛うじて加賀の国へ引き退いた。翌12日には奥州の藤原秀衡から戦勝祝いの馬が届けられる。戦いに勝った義仲は越中と能登との境の志保山に向かった叔父十郎行家を心配して2万騎を選りすぐって駆け付けたところ、案の定行家勢は平氏勢に打ち負かされ引き退いていたが、新手の源氏勢が現れたことで形勢逆転し、ここでも平氏勢は多くの将兵を失った。義仲は志保山を超えて能登に進軍し、小田中の新王塚の前に陣を敷いた。 <聞きどころ> 「倶利伽羅落」の中心場面はまさしく、砺波山中の平氏軍陣地を義仲勢が夜襲し、7万余騎の平氏軍を2千余騎へ激減させるところ。戦の前段は「口説」で淡々と語り、夜襲の場面は「拾」で一気に軽快に語り、倶利伽羅谷が平氏軍の死骸で埋まった様を静かに「初重」で語り終える。その後多くの侍大将を失った平氏の惨状を「口説」で淡々と語り、奥州の藤原秀衡からの祝儀が届いた様を「素声」で、そして戦に勝利した義仲が伯父の行家救援のために志保山に向かうさまを「口説」でさっと語ったあと、志保合戦の様とそこで平氏軍の大将軍までが戦死した様を「拾」で一気に語り終える。曲節の変化が豊かな「願書」と、ほぼ「口説」と「拾」とで戦をサラッと語る「倶利伽羅落」の対比をお楽しみに。 <参考>
この「願書」から「倶利伽羅落」の条は、『平家物語』作者による多くの事実書き換えと修飾が目立つ箇所。「倶利伽羅落」では源氏軍1万が、山の北を回って峠の西に達し、そこから下って平氏軍の陣を置く倶梨伽羅堂の辺りに迫ってから鬨の声を上げて襲い掛かり、同時に大手に陣する1万も鬨の声を上げて襲い掛かり、この動きに山の南や東に展開する3万あまりの軍も同時に鬨の声を上げたので、夜陰が迫っていて状況のわからない平氏軍はあわてて、陣を敷いていた猿ケ馬場の南の倶梨伽羅谷に一斉に逃げたので大損害を受けたとする。
このため平家諸本では、般若野合戦⇒平氏篠原陣揃え⇒八幡宮願書⇒倶梨伽羅峠合戦⇒志保山合戦という事実の流れと記述が大きく異なることとなる。 ★延慶本:
般若野合戦:5月11日 ★源平盛衰記
盤若野合戦:5月9日 ★覚一本平家
般若野合戦:記さず ★120句本平家
般若野合戦:記さず
◆もっとも確実な史料である右大臣九条兼実の日記『玉葉』では
盤若野合戦:5月11日(5月16日の条)
したがって、『延慶本平家』が最も史実に近く、他の三本は日時も含めて大いに脚色されていることになる。
|