鼓判官

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<主な登場人物>

●平知康:?―? 平安末・鎌倉初期の官人。平知親の子。検非違使左衛門尉。父が壱岐守であったので壱岐判官、また鼓の名手で鼓判官とも呼ばれる。父と共に後白河院に近侍。源平内乱期には院の「第一近習者」とみなされる。養和1(1181)年平清盛により解官されるが、清盛死後すぐ復帰。さらに後白河法王の信頼厚く、寿永2(1183)年法住寺合戦では大将として防衛に当たるが敗れ、木曾義仲により解官。翌年義仲が滅亡し再び復帰するが、文治2(1186)年源義経与同の件で頼朝により解官。その弁明のため鎌倉に下向し、頼朝死後、頼家に蹴鞠によってとりたてられ側近く仕える。建仁3(1203)年頼家幽閉後、帰京を命ぜられた

●円恵法親王:11521184 後白河法王の皇子。仁平(にんびょう)2年生まれ。母は坊門局。園城寺長吏。治承4年の以仁王・源頼政の反平氏の挙兵にかかわり、四天王寺検校職を停止される。寿永21119日源義仲が後白河法王の法住寺殿をおそったとき殺された。32歳。通称は八条宮。

●明雲:11151184 源顕通の子。最雲法親王の弟子。仁安2年天台座主となる。後白河上皇、清盛の戒師。安元3年比叡山衆徒の強訴事件で配流となったが、衆徒により奪還された。治承3年ふたたび座主に就任。寿永21119日法住寺合戦の際,流れ矢で死去。69歳。号は慈雲房。

●源義仲:11541184 義賢の次男。母は遊女某。幼名、駒王丸。2歳のとき父が源義平に殺されたのち、乳母の夫中原兼遠に木曾で育てられ、木曾次郎と称した。治承4 (1180) 年以仁王  の令旨に応じて挙兵。寿永2 (83) 年、越中礪波山に平維盛の率いる追討軍を破り、追撃して京都を占領。寿永3年(84)源義経、範頼の率いる追討軍のため近江粟津で敗死。

<物語のあらすじ>

寿永2 10月水島合戦の後、都から、十郎蔵人が義仲のことを讒奏しているので戻れとの知らせを受けた木曽義仲は急遽都に上り、十郎蔵人は入れ替わりに播磨に下り平家と対陣(「室山合戦」)。都に戻った義仲へ、京中の源氏の乱暴を止めよとの院の使いが出されたが、義仲が返答しないので、院使・平知康は院に「急ぎ義仲追討」を言上。院は叡山・園城寺に木曽追討を命じ、院の御所・法住寺には悪僧や義仲を見限った畿内源氏2万余人が立て籠る。1119日の早朝、義仲は「最期の戦」と呼号して攻め寄せるが、北国勢はみな落行き、義仲勢はわずか6・7千。義仲勢の焼き討ちで立て籠った勢の多くは逃げ、天台座主明雲や園城寺長吏円慶法親王も戦死。法皇も主上も共に御所を逃れ出た。

<聞きどころ>

この句は、法王方と義仲方が衝突した謂れと法住寺合戦の勃発の様を語る句。冒頭の衝突の謂れの部分は、「口説」「素声」で淡々と語られるが、合戦の勃発以後は「拾」が中心に。様々な武将や公卿の戦死の様は「拾」で語られるが、天台座主明雲大僧正と 園城寺長吏円慶法親王戦死の場面は「中音」で美しくかつ悲し気に語られ、法王の法住寺脱出の場面は「三重」で朗々と語られる。この句の最後は、主上の法住寺脱出を「拾」でさっと語り終える。

<参考>

「平家物語」は、院使が京中の乱暴狼藉を辞めよと要求し義仲がこれを拒否したことが法住寺合戦の直接の原因で直前の出来事としているが、真実はもっと複雑で日数もかかっている。公家の日記などで経過を一覧にまとめてみる。

・寿永2年(1183年)725日:平家の都落ち

727日:後白河法王は法住寺御所に帰還。

728日:木曽義仲勢が入京。後白河は義仲・行家に平氏追討宣旨を下す。 同時に、院庁庁官・中原康定を関東に派遣。 

730:議定で平氏追討の勧賞・京中の狼藉・関東北陸荘園への使者派遣が議論される。

      勧賞は第一・頼朝、第二・義仲、第三・行家という順位が決まり、それぞれに任国と位階

が与えられる。京中の狼藉には守護の武将と担当地域が決定。義仲の担当は 九重の内、

ならびに此の外の所々。

8月6日:後白河は平氏一門・党類200余人を解官。

810日:義仲を従五位下・左馬頭・越後守、行家を従五位下・備後守に任じた。

816日:平氏の占めていた30余国の受領の除目が行われる。結果は院近臣勢力の露骨な拡大。

      義仲は伊予守、行家は備前守に遷った。

★8月20日:高倉院四宮尊成親王が即位。即位に至る過程で後白河と義仲の対立。

      義仲―以仁王の子息・北陸宮の即位を主張。義仲は四宮即位に不満を漏らす。

9月:京中に略奪が横行

919日:後白河法王は義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」と義仲の責任を追及。⇒義仲は平氏追討のため都を出立。

     ★入れ替わりに関東に派遣されていた使者・中原康定が帰京。

      頼朝の申し状は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主へ

の返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので朝廷を喜ばせる。また頼朝は義仲への勧賞

を「謂れなし」と非難。

10月9日:後白河は頼朝を本位に復して赦免。

1014日:寿永二年十月宣旨を頼朝に下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える。

・閏10月1日:義仲方、水島の戦いで敗戦。

・閏1015日:義仲帰京。

★閏1020日:義仲が君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に寿永二年十月宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河に激烈な抗議。頼朝追討の宣旨を要求。

114日:源義経の軍が布和の関(不破の関)に達する。

117日:義仲を除く源氏諸将が院御所の警護を始める。

118日:院警護の中心だった源行家が京を離れる。

1116日:後白河は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を進め、畿内源氏の多くが参集。後白河は義仲に「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」と命令。

1119日:早朝、義仲勢が法住寺御所を焼き討ち。

 

 京中の乱暴狼藉鎮圧の件は7月末の入京直後から問題となっており、これが法住寺襲撃の直接の原因ではない。経過で明らかなように、後白河と義仲の

対立は、直接的には皇位継承問題であり、後白河が頼朝に接近し破格の待遇を与えたことが、対立を深めた原因だ。

 ★p2皇位継承をめぐる相関図を参照。

◆義仲没落を招いた背景―王家の三つへの分裂―

 この当時の天皇家は三つの流れに分裂していた。

 一つは、鳥羽―近衛―二条とづづいた「鳥羽王朝」。この流れは、鳥羽が王位を継いだ長子・崇徳をかわいがらず、第六皇子を愛して、彼の系統を自分

の跡を継ぐものと考えたことに始まる。鳥羽は近衛即位に際して、天皇の養子として即位させ、退位した崇徳には上皇として院政を行わせることを条件に

崇徳に退位を納得させ、実際は天皇の弟=皇弟として即位させたため、崇徳が院政を敷くこと不可能となってしまった。

 鳥羽はあくまでも自分の王統を継ぐ者は近衛だと考えていたわけだ。このため崇徳には父に対する深い恨みが残った。

 だが即位した近衛は生来病弱で、永く王位を務めることも跡継ぎを残すこともも期待できなかった。そこで鳥羽と近衛の母・美福門院は、鳥羽の第四皇

子で王統を継ぐこともないと見られた後白河の、ちょうど生まれたばかりだが母を亡くした長子と次男を共に美福門院の養子として引き取って育て、近衛

にもしものことがあったら、彼らを代わりとして王統を継がせることを考えた。

 そして近衛の死が間近となったとき、二条が成人に達していなかったので代わりのその父を即位させた(後白河)。だがこのとき崇徳は自分の長子を近

衛の次にと考えた居たのが裏切られ、鳥羽にさらに深い恨みを持つとともに、皇位転覆の企てを抱いた。

 こうして鳥羽の死後直後に起きた皇位継承をめぐる争乱が起きた。これが保元の乱である。

 保元の乱の結果崇徳上皇側は敗北して上皇は淡路に遠島となり、その後しばらくして二条が成人に達したのでめでたく即位し、後白河は退位して上皇と

なった。本来ならばここで後白河の政治的役割は終わっていた。彼は近衛ー二条と王位が継承されるための中継ぎだったからだ。

 だが後白河は政治の頂点から下りることはなかった。王の子として王位についたプライドが許さなかったのだ。

 このため成人した二条天皇と後白河上皇の政治的対立が生じた。

 この対立を利用して、政権を奪取しようとしたのが後白河側近の藤原信頼だった。

 信頼に味方した源義朝の軍勢が院御所を襲い、上皇を皇居に移して天皇と共に幽閉。そして政権を動かしていた天皇側近の藤原信西を殺害した。平治の

乱だ。だがこの企ては失敗した。一つは政権が藤原信頼に移ることを危惧した天皇・上皇側近らが密かに天皇と上皇を御所から脱出させ、平清盛の拠点・

六波羅に移してしまったこと。そして熊野参詣の途中で乱の勃発を聞いて馳せ戻った清盛らが、義朝らの軍勢を打ち破ってしまったからだ。

 こうして乱は平定されたが、その後ますます二条天皇と後白河上皇の政治的対立は深まり、後白河は新たに妃とした平滋子の姉の夫である清盛の軍事力

に依拠して、二条に対抗し、滋子が皇子を生むや、かれを天皇につけようと画策した。

 この対立は二条が若くして病を得て死の床についたとき頂点にたっした。

 両派の軍勢が都で衝突するのではないかと危惧されたが、両派が妥協し、次の天皇には二条の一子・六条を即位させ、皇太子には後白河の第六皇子を建

てるという形で決着したからだ。

 そして即位した六条は数年で退位させられて第六皇子が即位した(高倉)。

 中継ぎだった後白河王統が成立したわけだ。

 このため二条に何かあったら代わりに即位する予定であった弟の以仁王が宙に浮いてしまい、鳥羽王統を指示する貴族らも力を失い、彼らは捲土重来を

狙った。

 だがその後成人した高倉天皇と父の後白河上皇との間に政治的対立が生じ、平家の血を引き、かつ清盛の娘を妃とした高倉はますます清盛に依存し、対

立する後白河は、高倉の代わりに別の皇子を皇位につけようと画策したり、清盛の娘が生んだ皇子以外の皇子を皇位につけようと画策するようになった。

 この状況の中で平清盛は軍事力を背景にしてクーデターを行い、後白河を幽閉するとともに、彼を支持する多くの公卿を解任した。

 そして高倉王統を既成事実化するために、清盛の娘が生んだ高倉の第一皇子(安徳)を即位させ、高倉院政を開始したのだった。

 ここに高倉王朝・平家王朝というべきものが成立したわけだ。

 この事態をみて動いたものがいた。

 これが鳥羽王朝を継ぐはずだった以仁王と、かれを支持する貴族たちだった。

 かれらは鳥羽王朝を支持する源頼政らの軍勢を頼りとし、また全国に雌伏する源氏に決起を促すことで、高倉ー安徳の王統を覆し、以仁王を皇位につけ

て鳥羽王朝を復活させようとしたのだ。

 だが以仁王の正統性を保証するものは、鳥羽も美福門院もすでにこの世の人ではないので、王家一の人である後白河院の第二皇子という肩書しか存在せ

ず、以仁王はこの正統性を背景にして、全国の源氏に決起を促したのだ。

 そしてこの乱は事前に発覚して以仁王と頼政一党は戦死して乱は平定されたと見えたが、この最中に肝心の高倉が病を得て急死し、さらに清盛までもが

病を得て急死した結果、安徳を擁する平家は、王家一の人としての後白河院政の復活しか、安徳の正当性を補償する道がなくなってしまったのだ。

 このような王家の分裂という複雑な状況の中で源平の争乱は行われ、源義仲は京都を占領したのだ。

 義仲は以仁王の令旨を戴いて戦いに臨んで勝利して京を手に入れた。

 当然かれは安徳の次の天皇は、死去した以仁王の皇子が継ぐものとおもって、彼が庇護した皇子・北陸宮を皇位に推挙した。しかし後白河は高倉第四皇

子を天皇に擁立し(後鳥羽天皇)、再び院政を敷くとともに、自らの意志に反する義仲排除に動いたのだ。

 だが義仲には、王家一の人である後白河から見ると以仁王は敵であり、その敵の子を皇位につけるなどありえないことを理解できなかった。

 ここが義仲没落の根本的原因なのだ。

 義仲は王家分裂の事情を知らなかった。

 対する頼朝は、王家分裂の状況を熟知していた。だから彼は、王位継承には口を挟まず、平家が横領した領地の返還という、後白河と後白河派の貴族や

寺社が喜ぶ条件を出して、後白河にすり寄り、あまつさえ、義仲追討すら要求して、政治的に優位にたったのだ。

 義仲は法住寺に焼き討ちをかけてしまったことで、戦には勝利したが、後白河との決定的対立状況に陥ってしまったのだ。