法住寺合戦

平家物語topへ 琵琶topへ

<主な登場人物>

●源仲兼:?―? 宇多源氏、左大臣・源雅信の後裔で平安末期・鎌倉初期の後白河院の有力近習仲国の弟。父は河内守光遠。仲兼も近江をはじめとする諸国の守を務めて財を蓄え、造営事業などを請け負った。建永1(1206)年に火災にあった比叡山の大講堂の再建を担当。また、建保1(1213)年ごろには,鎌倉で源実朝に仕えている。なお、子孫は代々院細工所(もと、内匠寮に属し、作物所―つくもどころ―で働いていた職工・細工人を院が束ね、小道具、調度など細かい物を作る工房)を統轄したと思われる。兄弟には源氏三代将軍実朝の侍読(教育係)となり、政所別当にもなった文章博士源仲章もいる。

●源仲頼11571184 保元2年生まれ。後白河法皇の近臣源仲兼につかえる。「平家物語」によれば、寿永21119日の法住寺合戦で敗走。仲兼の乗馬が空馬ではしるのをみて、主は戦死とおもいこみ、いさぎよく討ち死にしたという。27歳。通称は信濃次郎。

 

<物語のあらすじ>

 寿永21119日早朝。木曽義仲勢は法住寺御所を焼き討ち。院方についた多くの公卿や畿内の源氏、そして天台座主や 園城寺長吏までが討たれる中、木曽勢に正面から立ち向かったのは近江源氏源仲兼勢であった。翌20日、六条河原に掛け並べられた院方の首は630余人。義仲は前関白松殿の婿になり、23日には、院方の公卿49人が官職を留められる。法住寺殿焼き討ちの一報を受けた鎌倉の頼朝は戦を引き起こした鼓判官・知康の責任を問い、鎌倉勢はすでに尾張熱田に勢ぞろい。義仲は平家に「都に上り共に頼朝と戦う」提案をしたが平家はこれを拒否。1213日、後白河院の下で義仲は松殿の助言に従い、先に官をとどめた人々を許し新たに叙位・除目を行うが、勢力回復はならず、東国の頼朝・西国の平氏・都の義仲が並び立った。

 

<聞きどころ>

この句は法王と主上の法住寺脱出以後の合戦の有様と、合戦後の政治情勢を語る。前半の合戦場面は近江源氏源仲兼勢の奮戦の様を「口説」「素声」「口説」「強聲」「拾」「口説」と次々と節を変えながら勇壮に語り、その後一転して、翌朝の首実見や、戦の結果を故信西の子息長教が法王に伝えた場面などを「口説」「素声」などで静かに語る。この中で首実見された首の中に天台座主と 園城寺長吏の首があったことを語る場面は「折聲」で切々と、そして二人の戦死を聞いた法王が嘆き悲しむ場面を「初重」で語る場面が涙を誘うところか。この句の最後は、戦後の政治状況を「口説」「素声」などで淡々と語って終えるが、義仲が「法王になろうか主上になろうか」と言ったことを諫める書記の大夫坊覚明の言葉は「中音」で印象的に語った後、義仲が平家と取引する場面は「拾」で、そして頼朝・義仲・平家が相対する情勢を「中音」で語って終える。

 

<参考>

 合戦終了後の経過を、公家日記などでまとめておく。

1119日:早朝、義仲勢が法住寺御所を焼き討ち

1120日:五条河原で源光長以下百余の首がさらされ、義仲軍は勝ち鬨の声を挙げた。

1121日:義仲は松殿基房と連携し「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」と命じた。

1122日:基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立。

1128日:新摂政・師家が下文を出し、前摂政・基通の家領八十余所を義仲に与えることを決定。

       同日、中納言・藤原朝方以下43人が解官される。

121日:義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握。

1210日:義仲は源頼朝追討の院庁下文を発給させる。

・寿永3年(1184年)115日:義仲が征東大将軍となる。

116日:鎌倉軍の源範頼が北陸道の入口である近江国の瀬田に兵を進める。

120日:鎌倉軍と義仲軍とが瀬田・宇治で激突。宇治を突破した義経軍が京に殺到し、六条河原で京を守る義仲軍と激突。戦の最中に義経はわずかな供を連れて院御所(六条西洞院)を確保。後白河連行に失敗した義仲は、北国または丹波路へ逃れるのではなく、腹心の今井兼平の守る瀬田へ向かい、兼平軍との合流を図る。無事合流したものの範頼軍が殺到。乱戦の中で義仲は顔面を射られて戦死。兼平も後を追って自害。