宇佐行幸
<主な登場人物> ●内大臣平宗盛:1147(久安3年)‐1185.7.19(文治元年.6.21)。清盛の3男で、母は平時子。治承3年(1179)の重盛の死後は氏の長者としてその中心に位置し、4年の源氏反乱に際しては、父清盛を説得して都を福原から平安京に戻し、翌年1月には畿内近国の軍事組織である惣官職を設置して惣官となり、清盛の死後は平氏総帥となる。壇之浦合戦敗北後入水するも助けられ、鎌倉に送られた後に、京に戻す途中で切られた。『平家物語』は宗盛について厳しい人物評価を与え、無能で器量なしとしているが、実像は不明。 ●宇佐八幡宮:全国にある八幡社の総本社。本来は豊前宇佐地方の豪族・宇佐氏の氏神を祭る神社だったが、そこに宇佐郡辛島に本拠を持つ辛嶋氏が進出し、その氏神・比売大神を合祀。そこに平安時代に筑後から進出した大神氏が八幡信仰を持ち込み、三つの神が合体した形となる。古来豊前を本拠とした九州の大勢力の一つで、様々な場面で活躍。720(養老4)年の大隅・日向の隼人反乱では、豊前国司が八幡神を奉じて隼人を追討。740(天平12)年の藤原広嗣の乱では、大将軍大野東人八幡神に祈り勝利。749(天平21)年、東大寺造立に際して聖武天皇が八幡神に祈り、神託により黄金出土。769(神護景雲3)年、八幡神の教えとして道鏡の天位託宣あり、和気清麻呂宇佐八幡に詣で、道鏡の野望をくじく。こうした働きから宇佐八幡宮は伊勢神宮と並ぶ王家守護の社稷となり、平安時代には八幡宮と神宮寺・弥勒寺は九州最大の荘園領主となった。
<物語のあらすじ> 寿永2年7月25日に平家一門が主上に供奉して西海に落ちたあと、28日には比叡山に逃れていた法皇が都に戻り、木曽義仲・十郎蔵人行家・矢田判官代義清などの源氏軍がこれを守護し、法皇は西国に院宣を下し、主上並びに三種神器奉還を命じた。また法皇は故高倉院の皇子の中の四宮を即位させることを決め、8月20日これを即位させた。京都と田舎に二人の天子が並び立った(「山門御幸」「名虎」)。一方8月17日に太宰府についた平家を守護したのは大宰大監大蔵種平の子・原田種直のみで、都から平家を守護した肥後の菊池高直は肥後の城に戻ってしまい、豊後の緒方三郎は参陣せず。主上は種直の宿所を御座所とし、随身たちは野中・田中の家々を宿所にした。先が見えない中で平家は宇佐八幡宮に参り 旧都還幸を祈願したが、先内大臣平宗盛の夢のお告げに八幡神が現れ、「世の中の憂さに対しては神々も力及ばないものを、何を一心に祈っているのか」との歌のお告げがあった。余りのことに宗盛は放心。太宰府に戻っても先行きが見えないなかで人々は、9月13日の平安京での月見を懐かしんで詠った。 <聞きどころ> 「宇佐行幸」(「緒環」の冒頭部分)は、悲しくも美しい句。頼みとした緒方や菊池に裏切られて先行きに暗雲が漂う中で旧都還幸祈願に訪れた宇佐八幡神にも見放された悲しい状況を記した句だからだ。冒頭太宰府に宮はないので守将種直の宿所や野中・田中の家々を宿所とせざるを得ない裏さびれた様を中音で美しく語り、続いて宇佐八幡詣での様は、神が見放すことを先取りしたかのように、初重⇒拾⇒中音⇒拾と目まぐるしく節を変え、神が平家を見放した歌を詠む場面は、指声⇒上歌⇒指声⇒下歌⇒指声⇒下げと、歌を絡ませながら寂しげに語る。さらに、太宰府に戻っても住む宮すらないわびしい暮らしを三重⇒中音で美しく語る。最後に薩摩守忠度・修理大夫経盛・皇后宮亮経正の平安京での月見を懐かしむ歌を三首、上歌⇒下歌⇒曲歌で語り終える。
<参考>
都を追われた平家が九州に下向したのは、ここが、伊勢・瀬戸内地方と並ぶ、平家の拠点だったから。だが九州が平家の拠点の一つとなったのは、比較的新しい時期。それは平忠盛が院領である肥前神崎郡の神崎荘の預所となったことに始まる。1133(長承2)年、宋人・周新の船が来航すると院宣と称して、荘園内での太宰府の臨検を排除しようとし、ここから日宋貿易の利権をめぐって平氏と太宰府の官人との争いが始まる。その後日宋貿易につながる海上ルートである瀬戸内が、この地域の海賊追討で平氏の支配地域となると平氏の力は増大し、忠盛の子・平清盛が大宰大弐になった1158(保元3)年以後、太宰府も平氏が統括することとなった。これ以後九州の有力荘園領主や武士は次々と平氏の被官となる。荘園領主では、宇佐八幡宮・弥勒寺の大宮司である宇佐公通が清盛の娘婿となり、1166(仁安元)年に大宰権少弐、1176(安元2)年対馬守、1180(治承4)年には、豊前守に任じられるなど、北部九州で勢力を誇った。さらに、もう一つの大荘園領主である太宰府天満宮・安楽寺の別当安能僧都は清盛の弟頼盛が大宰大弐であった1167(仁安2)年に安樂寺21代別当に任じられ、平氏の太宰府政権に深く入り込み、平氏の拠点であった摂津国福原に別荘をもち、後白河法皇が清盛の福原の別荘に行幸の折、公卿たちと同席するほどの力をもった。この他、太宰府の有力府官である原田種直も平氏の被官となり、大宰大監・大宰権少弐に任官して平家の西国支配の一翼を担い、肥後一国に武威を振るい菊池権守と称した菊池隆直も平氏の被官となり、宇佐八幡宮領緒方荘の荘司である緒方三郎惟義も平重盛の被官となるなど、九州の有力者はみな平家に従った。この人々に依拠して平家は太宰府に下り、都への反攻の拠点としようとしたのだが、案外その支配力は弱かった。 すでに1180(治承4)年に諸国源氏が反平氏の狼煙を各地で挙げたとき、肥後の菊池隆直は阿蘇惟安、木原盛実ら肥後の勢力を糾合して挙兵、一時は太宰府を攻めていた。また宇佐大宮司は「緒方を始め、臼杵・戸次・松浦党に至るまで平家に背いた」と飛脚を出した(巻6「飛脚到来」)。この反乱は1182(養和2)年春に追討使平貞能によって平定され、貞能は菊池・原田・松浦党以下を従えて上京した(巻7「主上都落ち」)。だが平家都落ちに同道して九州に戻った菊池隆直は、太宰府から肥後の居城に戻り、以後は何度も召せども参上せず、同じく豊後の有力武将である緒方三郎惟義も平家の招請に応じなかった。これは後白河による平家追討の院宣に従ったもので、九州の二大荘園領主は平家に従ったが、その配下の武家の多くは反平家となり、平家の力は王家と一体であってこそという実態が示されていた。 最も古態を残す『延慶本平家』では七日参篭の半ばの三日目の夜に、突然神殿が鳴動して、ゆゆしき聲にて神が歌をうたう、という形で語られる。また『源平盛衰記』でも「先の内大臣宗盛が財宝布施を手向け、神宝神馬を奉り、七日を送り給えども、是非夢想なんどもなかりせば」と何のお告げもなかったとし、「第七日の夜半ばかりに思いつづけ給いけり、思いかね心づくしに祈れども、うさには物もいはざりけり」と歌うと、「神殿大いに鳴動して、やや久しくして由々しきお声にて」と、神が「世の中のうさには神もなき物を、心づくしに何いのるらん」と歌ったと記す(「巻33平家太宰府落並びに平氏宇佐宮歌」)。 内大臣の夢想に八幡神が歌で応えたという形は、語り本である「覚一本平家」と「120句本平家」で共通するが、直接的に神殿鳴動して扉が開き、神の声がしたというこの形の方が本来のものではないか。 さらに『源平盛衰記』では、「宇佐行幸」そのものが「太宰府落」の後で、豊前柳ヶ浦についたあとに設定されて、平家の凋落ぶりを示す句となっている。 宇佐八幡は平家を追討しようとしている緒方三郎の勢力範囲で平家にとって危険な場所。太宰府と宇佐との間には宇佐路という往還が整備されて近いが、そこに主上を始め平家一門が軍勢を伴って参篭するとは思えない。むしろこの句は、王家一の人である後白河にも見放されて追討の院宣が出され、この50年来営々と築いてきた平氏の九州支配が、一夜にして崩壊したという事態の本質を、王家守護の八幡神に引導を渡されるという形で、表現したものであろう。
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