水島合戦

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<主な登場人物>

●矢田判官代義清:?1183 足利義康の子。源義家の曾孫。源義仲の挙兵に応じ、寿永2年丹波をへて京都にはいる。のち讃岐屋島の平氏を攻めようとして備中水島に進出したが、平重衡に敗れ、寿永2年閏101日討ち死にした。仁木、細川両氏の遠祖。通称は太郎、矢田判官代。

海野弥平四郎幸広:?1183 清和源氏滋野氏の一族で、信濃小県郡海野にすむ。源義仲の侍大将として、寿永210月平氏を追討した備中水島の戦いで先鋒となり、討ち死にした。通称は弥平四郎。名は行広とも書く。

●平教経:?―? 平清盛の弟教盛の次男。もと国盛。仁安1(1166)年伯耆守から民部権大輔、治承3(1179)年能登守。このころ教経に改名。平家都落ち以後、一門きっての剛勇の士として知られた。備中水島で源氏を破り、淡路に源義嗣、義久を討ち、伊予の河野通信、紀伊に園部忠康を下し、豊後の緒方惟義、臼杵惟隆を追い落とすなど活躍。『吾妻鏡』は一の谷の戦(1184)で安田義定に討たれ、獄門に懸けられたとするが、『玉葉』はこの首は偽物で教経は生存の風聞を伝え、文治1(1185)324壇の浦で自害と伝える史料もある。「平家物語」では壇の浦合戦で義経を追い詰め、「義経の八艘飛び」の説話が記されている。

<物語のあらすじ>

平家は四国讃岐の八島に移ってここを内裏とし、山陽道8か国、南海道6か国を従えた。木曽義仲は矢田判官代義清を大将、侍大将に海野行広とした追討軍を遣わし、源氏勢は備中水島に舟を揃え、八島に侵攻しようとした。寿永2年閏101日。水島に平家より開戦の通告文が送られ、源氏勢500余艘は平家を討つべく打って出たが、平家の搦め手の大将軍平教経は千余艘の船の艫綱を結び板を引き渡して陣を組み源氏勢を迎え撃った。海戦が得意な平氏軍は源氏勢をさんざんに打ち破り、源氏勢は大将軍・侍大将ともに討ち死にして大損害を被った。

<聞きどころ>

「水島合戦」は、八島の平家を襲おうと備前水島に舟を集めた源氏勢を平家勢が急襲して劇的な勝利を得る話。合戦場目を「拾」の「上音」「下音」「上音」を駆使してさっと語り終える。

<参考>

   「覚一本平家」と「延慶本平家」では戦は海上のみとしているが、「源平盛衰記」はこれと異なる状況を記している。
 源氏の陣が置かれた島の南から平氏の陣が敷かれた島の北までは三丁未満と近いので、二つの島の間に軍船を並べて平氏陣に討ち入れば勝てると源氏は判断し、平氏は軍船を島の西南に控えさせ、島の東北の城の門を開いて主だったものが待ち受ければ、源氏勢は一斉に船を並べて攻めてくる。この時平氏勢が島の内に引き退けば源氏は島内に上陸する。この時を見計らって島の西南に控えた軍船が一斉に島の東北を取り囲み、源氏勢を一網打尽にしようと計ると。そしてここでは軍船の艫綱を繋いで板を渡したという話は全く出てこない。

 通常はこの戦いは今は陸地となった柏島と乙島の間の海峡が「水島海峡」とされ、ここが戦場だと理解されているが、この二つの島はあまりに近接しており、狭い海峡で源平両軍が戦ったとも思えず、さらに「源平盛衰記」の記述は、柏島・乙島を戦場とすると理解できない。

 通説とは異なる理解では、水島合戦は、瀬戸内海の要衝であった備前児島の争奪戦と理解し、児島の呼松に帯陣する平教経と備中大島に対陣する平重衡に対して、対岸の備中西岡・万寿に陣を敷いた義仲勢が、大島・柏島・乙島・児島に挟まれた海峡=水島海峡で舟戦をしたとの理解もある。

 真実はどうだったのか。最も古態を残す「延慶本平家」が海戦としているのだから、やはり戦は海戦だったと理解すべきか。それも平氏勢が主力を沖に置いて待ち伏せし、平氏勢の先手が源氏を沖に誘導して、そこで源氏勢の兵船を袋状に押し包んで壊滅させたと。

 「源平盛衰記」はこの平家方の策略を陸に置き換えて記したものではないだろうか。

 平家は500余艘の軍船の中で兵馬を擁した200余艘を沖に残し、のこり300余艘を三手に分けて源氏勢を攻め立て(延慶本による)、(源氏勢の船が攻撃を仕掛けてくると沖に引き退いて源氏勢を沖に誘導)、沖で待ち構えた200余艘の軍船は艫綱を結び合わせ板を引き渡して相互に移動できるようにし、(延慶本・覚一本による)、攻撃してきた源氏勢を一斉に矢で射て倒し、近づいた源氏の兵船を熊手で引き寄せて刀で切り、源氏方を圧倒した。しかし海戦で源氏方を打ち漏らしたことと、陸に多数の源氏方が残っていたことから、船に乗せた兵馬を上陸させて陸の源氏の陣を制圧することは叶わなかった。

 と理解するべきだろう。