瀬尾最期

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<主な登場人物>

●妹尾太郎兼康:?―1183.11.10 平家一の郎等で清盛の家人。備中国妹尾村(岡山市)を本領とする。保元の乱以来平氏に扈従。治承1(1177)年、鹿ケ谷事件(清盛追討の陰謀)で藤原成親を連行、南都焼打ち直前に大和検非違使所に就任するなど、清盛の側近として活躍。木曾義仲に降伏したとされるが、のちに背き滅亡した。

<物語のあらすじ>

 水島合戦敗戦の報を知った木曽義仲は、自ら1万騎を率いて山陽道を下る。北国の戦いで捕虜となっていた備中国住人の平家家人・妹尾太郎兼康は自ら道案内を申し出、加賀国住人倉光三郎成氏勢とともに備前・備中に向かう。途中合流した嫡子妹尾小太郎宗康や郎等と、備前三石で倉光勢を討ち果たし、備前国府もうち従えて、備前福竜寺縄手・笹のせまりを城郭に構え、備前・備中・備後の勢・二千余人とともに立てこもった。木曽殿の先鋒今井四郎三千余騎が城を攻め落とし、逃れた妹尾勢はその西の板倉川のほとりに城を構えて応戦。ここをも打ち破られた妹尾太郎は主従三騎に討ちなされて逃げるところを、倉光三郎の兄の次郎成澄が追いついて組み付いた。妹尾は倉光を討ち果たし、妹尾主従三騎はさらに逃げるも、嫡子小太郎宗康は手負いの上肥満体で歩めず、今井勢に取り囲まれる。妹尾太郎は嫡子を置いて郎等と共に逃げるも、「共に討ち死にせん」と引き返し、今井勢の中に打って入って敵を切り伏せ、小太郎の首を切り落とした後、敵勢の中に討ち入って討ち死に。

<聞きどころ>

「瀬尾最期」は、源氏に捕らわれた平家の降人・妹尾太郎の心情と最期を切々と語った句。話の筋は「口説」と「素声」で淡々と語られるが、妹尾の心情や戦の場面は、「三重」や「拾」の節を使って劇的に語る。最初に降人となった妹尾の心情を中国の故事に習って「三重」で朗々と語り上げて妹尾が先ぶれを志願した行為に隠された真実を示す。そして備中への出陣と嫡子小太郎宗康の勢の合流と倉光勢の討ち取りと代官の討ち取りや妹尾が備前・備中・備後の反源氏勢を呼び集める場面は「口説」「素声」で淡々と語ったあと、妹尾の下に集まり籠城した老武者たちの様子は「拾」で、さらに妹尾を追討する先陣今井勢の出陣を「口説」で語ったあと、今井勢と妹尾勢の戦は「拾」で一息に語る。最後に主従三騎に討ちなされた妹尾勢の最期の場面は、ここも「口説」「素声」で淡々と語られるが、ここでも、手傷を追って動けなくなった妹尾の嫡子小太郎宗康の最期の言葉を「折声」で、そして妹尾太郎と従者の最期を「拾」で劇的に語って終わる。

<参考>

 妹尾太郎が倉光三郎を討った場所は、「覚一本平家」や「百二十句本平家」では、備前三石としているが、より古態を残す「延慶本平家」では、備前和気の渡とし、「源平盛衰記」では、備前和気の東の藤野寺としている。

 この違いは、山陽道が古代と中世では場所が違い、中世山陽道が古代より南に動いたことから来ている。つまり「延慶本平家」や「源平盛衰紀」では古代の山陽道がその舞台だったが、「覚一本平家」や「百二十句本平家」が成立した室町時代では、山陽道が南に移り、和気の渡や藤野寺を通ることがなくなったことによる。

 このため「覚一本平家」や「百二十句本平家」では妹尾太郎が倉光三郎を討った場所を、古代山陽道と中世山陽道の分岐点である備前三石に移したと思われる。

 「源平盛衰紀」が妹尾太郎が倉光三郎を討った場所としている和気の藤野寺(福昌山実成寺)には「倉光三郎成澄」の墓が現存する。つまり討たれた倉光の名が異なっているが、「延慶本平家」や「源平盛衰紀」の方が史実に近い形で語っていると言える。

 また妹尾太郎が木曽勢を迎え撃った福竜寺縄手だが、古代山陽道はこの場所で湿地を越えて一旦北に向かったあとで西の辛川に至っている。つまり古代山陽道の要衝であったわけだが、中世山陽道では福竜寺縄手を直進して辛川に至る道筋なので、福竜寺縄手は戦略的要衝ではなくなっている。

 したがって「覚一本平家」や「百二十句本平家」よりも「延慶本平家」や「源平盛衰紀」の方が実際の古代山陽道の実態に沿って戦場を描いていることがわかる。