二度之懸

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<主な登場人物>

◆河原兄弟(河原太郎高直・盛直)(?−1184

 武蔵国北埼玉郡河原村一郷を領する武士。武蔵七党の一つの「私市党」の一員。埼玉県行田市南河原には「河原兄弟碑」という後世の供養塔(文応二年・1261年、文永二年・1265の碑文)が残され、北河原には弟高家の家臣が主人の追福のために草創したと伝えられる照厳寺という寺が残される。また神戸三宮神社に河原兄弟を祭る塚がある。

◆梶原平三景時(?−1200

 梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族。相模国鎌倉郡梶原郷が本貫の地で、ここは鎌倉の北西の入り口。藤沢で相模湾にそそぐ境川の支流・柏尾川の支流の流れる谷戸。谷戸の奥の丘が今は源氏山公園となっており、その北側に梶原氏の先祖・葛原親王を祭る葛原岡神社がある。梶原氏はここを本拠にしてその北西、相模一の宮のある高座郡にまで勢力を伸ばした大豪族ではなかったか。手勢500騎がそれを示す。神奈川県高座郡一之宮の一之宮天満宮が梶原景時館跡といわれ、近くには梶原氏一族郎党の墓と伝える場所もある。景時は頼朝側近で幕府の侍所所司や厩別当などを歴任し、二代将軍頼家の乳母でもあり、有力御家人を謀反の咎で将軍頼家に訴えて処罰を謀ったが、逆に将軍権力の拡大を喜ばない御家人66人の連判状でなどによってその専横を告発され、鎌倉追放。景時は再起を期して朝廷を頼り上洛の途次、駿河国清見関付近で一族と共に討伐された。

<戦の経過>

寿永3 (1184) 年2月4日。源氏は大手生田森口に5万余騎(大将軍源範頼)、搦め手一の谷に1万余騎(大将軍源義経)を派遣し、東西から攻めようとした。義経が搦め手一の谷に向かったことを知った平家は、北方三草山のふもとに3000の兵を出したが打ち破られ、義経が山の手から攻めてくることもあると判断して、1万余騎を一の谷の山の手鵯越の麓に配置して、決戦を待った。 合戦は7日の早朝、搦め手一の谷に源氏方の熊谷・平山が5騎で突っ込んだことから始まった(「一二之懸」)。

 

<物語のあらすじ>

 搦め手の一の谷で合戦が始まったころ、大手生田の森でも一番乗りを目指した武蔵の国の住人河原兄弟が平家の陣の逆茂木を乗り越えて戦ったが援軍もなく戦死。このことを聞いた大手の侍大将の一人梶原平三景時が頃は好と見計らって鬨の声をあげ、足軽を動かして逆茂木をのけて手勢500騎で平家の陣に突っ込み、大手5万余騎も一斉に平家の陣に突っ込んでいった。

 ところが平家陣内を縦横無尽に暴れまわって自陣に戻った梶原景時は嫡男景季の姿が見えないことに気が付き郎党に尋ねたところ、敵を深追いしすぎて敵陣で迷ったのではと答えた。景時は「この世に生きていようと思うのも子供のためだ。源太討たせて生きていても何の甲斐があろうか」と言って馬首を返して再び平家陣内に懸け入り見事嫡子景季を救い出して自陣に戻った。

<物語の聞きどころ>

前半は一番乗りの功名を立てようと命がけで平家陣に討ち入った一郷しか持たない弱小武士河原兄弟の心情。後半は、大豪族梶原景時が嫡男景季を助けるために奮闘する様とその父子愛溢れる心情。

<参考>

 この句では最初に唯一人平家陣に突っ込んだ梶原平治景高が諌められて「弓の弦を放れた矢は二度とは戻ってこない」と歌を詠んだことが紹介されている。「源平盛衰記」では「二度懸」の最後に、父の平三景時も和歌の才があり、戦に臨んでも腰につけて矢を携帯する道具である「やなぐい」咲き乱れる梅の枝を付けるほど風流であったと紹介している。詩歌管弦は上級武士必須の教養。