坂落

平家物語topへ 琵琶topへ

<主な登場人物>

●平教経:11601185 清盛の弟中納言教盛の子。仁安1(1166)年伯耆守から民部権大輔、治承3(1179)年能登守。平家都落ち以後、一門きっての剛勇の士として知られた。備中水島で源氏を破り、淡路に源義嗣、義久を討ち、伊予の河野通信、紀伊に園部忠康を下し、豊後の緒方惟義、臼杵惟隆を追い落とすなど活躍。『吾妻鏡』は一の谷の戦(1184)で安田義定に討たれ、獄門に懸けられたとするが、『玉葉』はこの首は偽物で教経は生存の風聞を伝え、文治1(1185)324日壇の浦で自害と伝える史料もある。「平家物語」では壇の浦合戦で義経を追い詰め、「義経の八艘飛び」の説話が記されている。

●平(越中前司)盛俊:?−1184 平家の有力郎等平盛国の子。清盛の側近で清盛家の政所別当、丹波国諸荘園総下司となる。治承・寿永の乱では侍大将として活躍し平家第一の勇士といわれた。一の谷合戦で討ち死に。

●佐原十郎義連:?―? 三浦義明の子。兄が三浦義澄。相模国三浦郡佐原の住人。頼朝の近習11人のひとりで、のち和泉・紀伊守護となる。

●村上康国(基国):?−? 清和源氏源頼信の子孫。信濃更級郡村上郷を本領とし京に寄宿して、鳥羽上皇の皇后・高陽院(藤原泰子)判官代に任じられ、村上判官代と称した。保元の乱では崇徳方に味方したが、乱後には鳥羽院の娘・八条院蔵人となる。寿永2(1183)平家を追って上洛した木曾義仲に一族と共に従ったが、法住寺合戦の折に離脱し上皇方に味方した(この折に弟の三郎安信が戦死)。義仲滅亡後、源頼朝の代官である源範頼の軍に属して平家追討に参加した。

<物語のあらすじ>

 27日の早朝、福原の東西に陣を取った鎌倉軍が攻めかかり、迎え撃つ平家軍と激戦に。三草で主力を土肥次郎に任せて一の谷の西に向かわせ、一方別動隊を率いて一の谷の北・鵯越に到っていた義経は、戦のころ合いを見計らって坂道を一気に駆け下って、平家本陣を後ろから討つ。不意を食らった平家軍は乱れに乱れ、沖に控えた軍船へ逃げようとして大混乱(「坂落」)。多くの武将が討たれてしまった。

 

<聞きどころ>

30分に満たない短い句だが、目まぐるしく場面転換に応じて節を変えるところが聞き所。冒頭は「口説」で一の谷の合戦開始の様を淡々と語り、すでに鵯越に陣取っていた義経軍に驚いた鹿が平家の一の谷の陣に落ちるさまを「強下」という不安げな節で語って合戦幕開けの緊張した場面を描く。次に鹿が下りてきたのを見た平家陣の 不安げな反応は「素声」でさらっと語り、続いて「口説」に移って、平家方が敵方から来たものを通すわけにはいかぬと鹿を矢で射る行為をサラッと語り、鹿の落ちるさまを「強下」で、そしてこれを見た平家の侍大将の反応を「指声」で描いて、平家軍の末路を暗示するかのように不安げな語りに続く。そして次に義経が「鹿が下りられるのに馬が下りられないわけはない」と叫んで自ら坂を駆け下り、全軍がそれに続いて坂を駆け下りて平家陣へ突っ込んでいく様を、「口説」⇒「拾」⇒「口説」⇒「拾」⇒「素声」と節を次々と変えながらさっと語り終える。最後は混乱した平家陣の有様を「口説」⇒「拾」でさっと語り終える。

 

<参考> 

平家物語では坂落の場面は、一の谷の城郭の裏手の鵯越とする。だが現実の鵯越の地名があるところは、一の谷からは東に7・8キロメートルのところの山越えの坂道で、東の福原や大和田の泊に到る街道の途中である。また藤原兼実の日記玉葉では、合戦の状況を伝えるものとして「搦手の義経が丹波城(三草山)を落とし、次いで一ノ谷を落とした。大手の範頼は浜より福原に寄せた。多田行綱は山側から攻めて山の手(夢野口)を落とした」と記す。この山の手に到る坂道が鵯越だ。

 玉葉の記述に基づけば、鵯越から平家の山の手を攻めたのは多田行綱であり、義経は平家の一の谷の城郭を攻め落としたことになり、平家物語の記述とは異なる。

 学者の説はいくつかに分かれる。

1:坂落は史実で、場所は一の谷城郭の裏手の鉄拐山(てっかいさん)の崖とするもの。大将は義経で麾下の兵は「吾妻鏡」の記すような70騎。

2:一の谷城郭の裏手の鉄拐山の崖は急峻で馬で駆け下りることは無理。したがって平家物語の「坂落」は創作で、実際の坂落は、福原・大輪田泊に到る街道沿いの坂道・鵯越を多田行綱らが越えて平家山の手陣を打ち破ったもの。

 

 地図で見れば鉄拐山(てっかいさん)は六甲山系の西の端。山系が瀬戸内海明石浦に突き出し、海岸にわずかな通路上の平地を残した場所。山塊は東から鉄拐山・旗振山・鉢伏山からなり、鉄拐山の真南の裾が平家の一の谷城郭。

 鉄拐山は標高234m、旗振山は標高252m、鉢伏山は標高246mの花崗岩の岩塊。須磨浦まで500mほどの幅の狭い平地から、200mほどの距離で標高250m前後まで急にせりあがった山。とても馬で駆け下りることはできないと思われる。

 したがって平家物語の「坂落」は源義経の策略を最大限に賛美するための、物語上の創作と見るべきか。