越中前司最期

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<主な登場人物>

◆平盛俊(?−元暦1.2.7(1184.3.20)

 伊勢国一志郡須賀郷を基盤とする伊勢平氏に連なる有力家人で、清盛の側近で左衛門尉、検非違使、伊勢守などの役職につき、主馬判官と呼ばれた平盛国の子。越中守で平宗盛の家人。保元平治の乱で戦い、養和1(1181)年の墨俣川の戦や寿永2(1183)年の北陸合戦などでは侍大将として活躍した。九州の宗像社の支配を任されたほか,養和1(1181)年には丹波国諸荘園総下司に任じられた。

◆猪俣則綱(?−1192

 武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団武蔵七党の一つ猪俣党の当主。保元の乱で源義朝に仕えた。平治の乱では源義平の下で軍功をあげた十七騎の雄将として知られている。

◆人見四郎(?―?)

  猪俣氏の諸流。猪俣政基の子・河匂(かわわ)政経が人見を名乗ったのが最初。武蔵国幡羅郡人見邑(埼玉県熊谷市人見)を発祥とする。

<戦の経過>

寿永3 (1184) 年2月4日。源氏は大手生田森口に5万余騎(大将軍源範頼)、搦め手一の谷に1万余騎(大将軍源義経)を派遣し、東西から攻めようとした。
 合戦は7日の早朝、搦め手一の谷に源氏方の熊谷・平山が5騎で突っ込んだことから始まった(「一二之懸」)。続いて大手生田の森でも一番乗りを目指した武蔵の国の住人河原兄弟が平家の陣の逆茂木を乗り越えて戦ったが援軍もなく戦死。このことを聞いた大手の侍大将の一人梶原平三景時が頃は好と見計らって鬨の声をあげ、足軽を動かして逆茂木をのけて手勢
500騎で平家の陣に突っ込み、大手5万余騎も一斉に平家の陣に突っ込んでいった(「二度之懸」)。
 両軍互いに譲らず源平相乱れて乱戦となり、どちらが勝つともわからなかったが、そこに山の手の鵯越を越えて大将軍源義経率いる
3000余騎が討ち入ると平家陣は大混乱となり、本陣は総崩れとなって沖の船目指して逃げ出した(「坂落」)。

 

<物語のあらすじ>

 大手生田の森の大将軍として戦っていた平知盛であったが、敵方の武蔵国児玉党に知らされてすでに平家本陣が討ち崩され大混乱となっていることを知らされ、郎党らとともに敗走する。
 この乱戦の中で、山の手の平家軍の侍大将であった越中の前司平盛俊は退却せず良い敵をまっていた。
 そして出会った敵・武蔵国の住人猪俣党の猪俣小平六則綱と組討となった。力の勝る盛俊は則綱を組み伏せて首を取ろうとしたが、猪俣が「互いに名乗ってこそ武士だ」というので力を緩めて互いに名乗りあったところ、猪俣が申すには「すでに平家の敗色は濃い。敵の首を取ったところで恩賞などありえまい。自分を助けてくれれば、今回の戦いの勲功に申しかえて一命を助けん」と。そしてさらに「降伏した敵の首を取るのは不当である」というので、猪俣の言を信じた盛俊は彼を助け、田の畔に腰かけて一息ついていた。そこに則綱の見知った人見四郎が近づいてくるのに気を取られている盛俊を見て猪俣は、すかさず盛俊を突き倒して彼の腰の刀を抜いて指殺し首を取ってしまった。

<物語の聞きどころ>

   平盛俊に組み伏せられた後の、猪俣則綱の口達者な駆け引きが見事。またその口車を信じ、命を助けた相手に裏切られ首を取られてしまった盛俊の哀れさ。曲節の変化でこの対比を聞かせる。

<参考>

 平家物語では鵯越は一の谷の城郭の後ろとされているが、実際の場所はずっと東の平家本陣があった福原京の北、但馬に抜ける街道沿いの坂で一の谷の後ろの急な崖とは別。しかも源氏軍の大将軍は義経ではなく、安田義定であり、道案内は地元の摂津源氏多田行綱であった(高橋昌明「平家の群像」)。