忠度最期

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<主な登場人物>

◆平忠度(11441184.3.20

  平忠盛の子。清盛の末弟で、母は藤原為忠の娘ともいう。極官は正四位下薩摩守。度々の合戦に大将軍のひとりとして参戦。また歌人として有名で勅撰集にも入集。寿永2年の平氏都落ちに際し,師藤原俊成に詠草1巻を託した逸話は有名。そのなかの一首「さざ波や志賀の都はあれにしを昔ながらの山さくらかな」は『千載集』によみ人知らずとして載る。

◆岡部忠純(?1197

 武蔵国の猪俣党の一員の岡部氏。岡部忠綱(猪俣忠兼の子)が武蔵国榛沢郡岡部(現在の埼玉県深谷市岡部)の付近を領有したのが始まりと言われる。

<戦の経過>

寿永3 (1184) 年2月4日。源氏は大手生田森口に5万余騎(大将軍源範頼)、搦め手一の谷に1万余騎(大将軍源義経)を派遣し、東西から攻めようとした。
 合戦は7日の早朝、搦め手一の谷に源氏方の熊谷・平山が5騎で突っ込んだことから始まった(「一二之懸」)。続いて大手生田の森でも一番乗りを目指した武蔵の国の住人河原兄弟が平家の陣の逆茂木を乗り越えて戦ったが援軍もなく戦死。このことを聞いた大手の侍大将の一人梶原平三景時が頃は好と見計らって鬨の声をあげ、足軽を動かして逆茂木をのけて手勢
500騎で平家の陣に突っ込み、大手5万余騎も一斉に平家の陣に突っ込んでいった(「二度之懸」)。
 両軍互いに譲らず源平相乱れて乱戦となり、どちらが勝つともわからなかったが、そこに山の手の鵯越を越えて大将軍源義経率いる
3000余騎が討ち入ると平家陣は大混乱となり、本陣は総崩れとなって沖の船目指して逃げ出した(「坂落」)。

 

<物語のあらすじ>

 一の谷の大将軍であった平忠度は100騎あまりの兵に守られて静かに退却していた。そこに行き会った源氏方の武士、武蔵国の猪俣党の岡辺六野太忠純が名乗れと声をかけたところ、「これは味方ぞ」と振り向いて答えたその口が御歯黒であったことから平家の公達と確信し馬を寄せて組み合った。これを見た護衛の100騎ばかりの武者はみな平家の郎党ではなくて国々の駆武者だったので逃げ散った。ところが忠度は大力の剛の者であったのでたちまち忠純を組み伏せ首をかこうとしたが、忠純の郎党がその刀をもつ腕を切り落としたので、観念した忠度は忠純を片手で投げ飛ばし、高唱に念仏を唱えるところを、忠純が後ろから近づきその首を切った。誰の首とも分からなかったが、矢を入れる箙につけた文を開けてみるとそこに和歌が一首認められており、忠度とあったので、その身分が知れた。

<物語の聞きどころ>

 「覚一本平家」では岡部忠純が忠度に組み合ったところで100騎の駆武者が逃げたと描いているが、「平家正節」では順番を入れ替え、組み合って忠純を倒して押さえて首をかこうとした忠度が、忠純の郎党に腕を切られて形勢が逆転したところで、100騎の武者が逃げ散る形に書き換えた。裏切りの形を劇的なものとし、直後の忠度言動を「強下」「中音」と劇的に描いて、箙に付けた文で忠度とわかるまでの場面をくっきりと浮き上がらせている。