重衡生捕

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<主な登場人物>

◆平重衡(11571185.721

 平清盛の五男。母は時子。平家棟梁宗盛の末弟。兄に知盛。妹に徳子。清盛・時子の最愛の息子であり、応保2(1162)年に叙爵し、尾張守・左馬頭・中宮亮などを経て、治承3(1179)年左近衛権中将、翌年蔵人頭と累進。極官が正三位左近衛権中将であった。度々の合戦にも大将軍として臨み勝利を得たが、治承412月の奈良僧徒との戦いで興福寺・延暦寺を焼いてしまい仏敵として非難される。身柄と平家が押さえる三種の神器との交換も図られたが果たせず、平家滅亡後に奈良に送られ、木津川河辺で斬首。

◆庄四郎高家(?−?)

 武蔵国の児玉党(現在の埼玉県本庄市栗崎出身)の一員。児玉党本宗家4代目である庄太夫家弘の四男。通称は四郎。『吾妻鏡』文治元年(1185年)112日条によると、高家は源義経の家人であったが、義経の都落ちには従わず、奥州合戦時(1189年)には、他の兄弟達と共に源氏方に従って参戦している。また、建久元年(1190年)、源頼朝の上洛に際し、後陣随兵として従っている。

<戦の経過>

寿永3 (1184) 年2月4日。源氏は大手生田森口に5万余騎(大将軍源範頼)、搦め手一の谷に1万余騎(大将軍源義経)を派遣し、東西から攻めようとした。
 合戦は7日の早朝、搦め手一の谷に源氏方の熊谷・平山が5騎で突っ込んだことから始まった(「一二之懸」)。続いて大手生田の森でも一番乗りを目指した武蔵の国の住人河原兄弟が平家の陣の逆茂木を乗り越えて戦ったが援軍もなく戦死。このことを聞いた大手の侍大将の一人梶原平三景時が頃は好と見計らって鬨の声をあげ、足軽を動かして逆茂木をのけて手勢
500騎で平家の陣に突っ込み、大手5万余騎も一斉に平家の陣に突っ込んでいった(「二度之懸」)。
 両軍互いに譲らず源平相乱れて乱戦となり、どちらが勝つともわからなかったが、そこに山の手の鵯越を越えて大将軍源義経率いる
3000余騎が討ち入ると平家陣は大混乱となり、本陣は総崩れとなって沖の船目指して逃げ出した(「坂落」)。

 

<物語のあらすじ>

  大手生田の森の副将軍であった平重衡は、重衡の秘蔵の馬に乗った乳母子の後藤兵衛盛長と二人汀の際を馬を歩ませて、沖の助け舟に乗ろうとしていた。しかし後ろから源氏の大勢・梶原源太や庄四郎らの勢が追い立てるので舟には乗れず、そのまま須磨のあたりまで来てしまった。重衡の乗馬童子鹿毛は優れた名馬であったので並の馬では追いつかないと観念した梶原が遠矢を放ったところ馬の後ろ足の上を射ぬかれて馬は走れなくなった。ところがこれをみた後藤兵衛盛長は重衡の替馬に鞭打って逃げてしまう。取り残された重衡は入水しようとしたが遠浅で果たさず、腹を切ろうとしたところを、駆けつけた庄四郎高家に取り押さえられ、馬の鞍に縛り付けられて源氏の陣に護送されてしまった。
 後に生き延びた後藤盛長が匿ってくれた熊野法師の後家の訴訟のために伴して都に登ったところ、平重衡の乳母子と知る人々から大いに謗られた。

<物語の聞きどころ>

 前半の重衡の馬が射られるまでの所は、口説き・三重とゆったりとした語り口で、話を進めるが、梶原源太景季が放った遠矢で重衡の馬が傷づく場面ではいきなり拾の節に転換して、重衡がまんまと逃げおおせるのではないかと思わせた今までの場面とは違って、状況が急展開することを見事に表現している。そしてそのまま乳母子の盛長が主の制止を振り切って主を一人残して逃げおおせるまでを拾で語り続け、其の後一転して素声にて、重衡が生捕になるまでを語る。そして物語の最後に逃げおおせた盛長が後に都に戻った場面、しかも保護してくれた熊野法師の後家の尼に伴として都に登り、事情を知っている都人らに避難される場面は、口説ー初重で淡々と語る。以上の節合わせの妙を堪能せられたし。

<参考>

 重衡を裏切った後藤兵衛盛長は平家物語にのみ登場する人物。後藤氏は藤原利仁流の齋藤氏から分れた氏で、清和源氏嫡流の代々の下人として知られる。平治の乱で清和源氏嫡流の衰微と共に平家家人となったものもいたと思われる。だが主人の替馬に乗って戦場に現れるのは郎党ならいざ知らず乳母子というのは解せない。通常は乗替馬は下人が連れて従うもの。主人を裏切ったものを郎党ではなく乳母子としたことで、平家物語の他の句に登場する、主人と乳母子の兄弟以上の愛の深さに対比させて、裏切られた重衡の衝撃を鮮やかに描こうとしたか。なお平重衡は平家物語の記述とは異なり、一の谷・生田の森合戦の平家方の大将軍である(高橋昌明「平家の群像」)。だからそれと知って生捕りにしたか?